何でも一度は疑ってみるべきというデカルトの言は真理である。そうでなければ自らに基づいた良識というものは築けない。

私は、自分の状況など受け入れない。受け入れないから頑張っていられる。世にいう最終的には受け入れるというのは嘘である。そこで、大方の読者には目障りかもしれないが、次の言を私の欄のはじめにいつも掲げることにする。(460節の言葉)この決意の基に私はこの欄を書き始め、書いているといってよい。

怒 これだけのことをこの私に対してやれる、周囲の存在を使って大規模に平然と笑ってやらせることの出来る力の正体は何なのか。
私は、この力が私に何をしたか、その品性を知っている。許しはしない。


世に言う「集団ストーカー」行為(「集合的容喙現象」参照)は存在すると、私の全良識と判断力をもって断定しておく。これは一方的な悪意の暴力による個人生活への介入(容喙)である。私が誰の迷惑にもなり得ない純粋個人内の精神的研究と原稿執筆に引き籠っていた最中、強制的に力づくで〈横から〉その営みを破壊された。(その後の経過は信じ難い言語道断な凄惨なものであった。)あらゆる暴力団よりもっと悪い。この一事をもってこの力はいかなる自己弁明・正当化も出来ないのである。どの方面から(当初)来たか、私はいつでもそれを明かすことができる。〔現在、それは日本放送協会・NHK(2009-2010)であることを明かしている。〕


私は許さない
未来永劫宇宙が存続する限り
たとえ創造主であろうとも
私の最も密かな私的な喜びである精神活動域の基盤さえ
掘り崩した行為を


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晩年のルオーより高田氏へ贈られた作品

これだけの簡素な作品がなぜこうもよいのであろうか。これはもう洋の東西の問題ではない。人間普遍の問題である。孤独と親密と神、これがこの欄の主題である。