自殺は他殺より重い。自分がその重みを一番よく知っている自分の歴史を自分で断つことの重さ。健常人の自殺は贅沢極まりないものと一方ではぼくは思う。それにしてもこの社会の雰囲気は何だ。精々有用な駒が一つ無くなった位の残念さだけ露骨に示すだけだ。もう蓋をして用済みのことにしたい雰囲気が露骨だ。何があったんだ。この隠蔽社会よ。
「自分自身」(魂)を尊重しこの前で謙虚にならないところから問題が生じる。このかけがえのない宝石は、史上最高の知性そのものにも優る。これが曇らされるくらいなら無知のままであったほうがよい。
 高田博厚も小林秀雄も言っているのはそのことであるようにぼくには思える。

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ひさしぶりに(本当に久しぶりに)アシュケナージのチャイコフスキーとラフマニノフ(ピアノコンチェルト)を聴いた。旧友に会ったみたいに、「彼らしいなあ」と感じた。途中眠ってしまっていてチャイコフスキーがいつの間にかラフマニノフになって終わったので再度ヴォリュームを上げて最初の処を聴いたが、水晶の球をころがすようなこの響きは彼にしかできない彼自身で、何を弾いても彼自身で、そして彼の「純粋さ」にぼくは安心して身を委ねていることが出来た。現在或る人の演奏に聴き惚れてずっとそれだけ聴いていたのだが、そして音楽を聴くことは演奏する「人間」と対面することだと感得したと思っていたのだが、この思いは正しいと今思った。「向き合える人間」。これが本質であり現実なのだ。「純粋な人」に向き合える喜び。「これ」のみを聴いていた。そして「演奏(作品)そのものにその人の本質が現れる」という観方は僕においてゆるぎないものとなった。

 「一元化」とはそういうことだろう。〈ラフマニノフの自分〉〈ブラームスの自分〉ということはありえない。「自分」はつきつめて一つである。常に対象(もの)と共に在るとしても。そしてこれはぼくの現段階での仮定ということでよいが、本物な純粋な人というのは、どんな鏡〔オブジェ〕に映してみても、その人自身の純粋さが同一に感ぜられるのではなかろうか。 そういう人こそぼくは多分本音から好きだ。

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 或る日のこと

ぼくが大学生のとき或る日
樹の下のベンチに座っていると
一羽のすずめが降りてきた
まるで やっと見つけた とでもいうように
ぼくの上を静止舞いし
ぼくが手を挙げるとよろこんでとまってきた
ぼくの肩から手の先まで あるいは座っている脚まで
安心しきって跳ねてあそぶ
ぼくは不思議さと幸福さに満たされた
初対面なのに何故?
きみはだあれ?
昔家で飼っていた文鳥さん? ここは遠い東京だよ
ぼくはあらんがぎりの繊細さと優しさでこの幸福な訪問者をぼくの体であそばせた
いつまでもあそんでいただろう
ぼくは不意にかれをよろこばせようとして 近くのショップでパンを買いに行った 待っててね 走って行った
・・・・・・
帰ってくるともうかれはいなかった
それ以来再び舞ってきてはくれなかった
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小学生の頃 庭の樹に居た揚羽蝶の幼虫を 飼育器の中で育てた
庭の樹の葉枝を取り替えながら 生育を毎日観察した
やがて蛹になった 何日かが経った
ある日学校から帰ると プラスチックの飼育器の中で 蝶がばたばたとくるおしく羽を羽ばたかせてもがいている
いそいで二階のベランダから蓋を開けて外へ解放した
誕生したばかりの蝶はまだ力無く 羽ばたきしながら下へ落ちてゆく
そのとき 突然左右から 待っていたように同じ二羽の蝶が現れ
新しい仲間を両側から抱きかかえるようにすると そのまま
三羽で急上昇し 一緒に高く高く青空へ舞い昇り 天の中へ見えなくなってしまった
奇蹟をみたと思った


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岡本太郎作の「森の掟」という画がある。犠牲者が怪獣に殺される傍に〈言わず見ざる聞かざる〉の様が描かれている。われわれはジャングルの中に住んでいる。自殺は最も巧妙な他殺であり完全犯罪である。口を揃えて即座に「安らかにお眠りください」はよく言えたものだ。安らかに眠っている死者など一人もいない。今日は幾十万の歴史が一瞬で破壊された日である

 〔8.5 - 6〕
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記憶の断面
フランス人画家クロード・ローランの作品に、実作をまだ識らないのに憧れていた。中学の頃、エッカーマンの「ゲーテとの対話」の中でゲーテが「高貴な精神から生まれた画だ」と激賞していたのを印象深く憶えていたからだ。ローランの作品との出会いは不意に訪れた。ストラスブール訪問中、とある美術館を訪れた。遠くから、地味ではあるがぼくをひときわ惹きつける画がある。純粋な品格を感じる。近づいて観ると、ローラン作であった。それ以来ぼくの意中の画家になった。
 この出会いのことを或る知人に話した。〈ローランは昔から識っている〉と彼は言った。ぼくは自分の出会いの経験の感動と、ローランの品格をぼくがいつも新鮮な気持で愛することを話したのだ。ぼく自身の事なのだから、他に話す必要は無かったかも知れぬ。しかしぼくはそれ以来この〈知識〉だけで「愛」の無い彼を疎むようになった。人が自分を話した時に内実に相応しい応対ができない者はだめである。こういうことをぼくがここに書いたのは、ぼくが批判好きだからではない。生産的でない批判はぼくは嫌いでしたくない。ぼくの判断を書き外化して、想念から自由になるためである。寛容であるためには充分に外化しなければならない。ローランの作の紹介はまた他の機会にしよう。

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ぼくは様々に書いたことを分割はしない。全部一繋がりのぼくであるから。これを全部重ね合わせたところに実在のぼくが感得される。個々に読者を面白がらせるためにぼくは書いているのではない。「自分自身への手紙」の理念は「自分に向って」の総テーマに受け継がれた。

判断力とは大したものである。創造主でさえこの前では断罪される。何を基準に判断できるのか? デカルトはそこに神の観念を見出した。