―前節の続き―(〔 〕内は原文にはない今の私による補足)

「 孤独を通してのみ、自己自身の魂と、そして普遍へ。あるいは、自己の魂とともに孤独であることによって、普遍へ。私が〔直前の文でも魂的根源という微妙で慎重な表現をする〔「魂という根源」ではなく〕のは、具体的個別者との専属的関係なしには考えられない魂の境位すなわち、抽象的な魂一般など断じてありえない。魂は絶対的に特定の具体的個人に専有のものとしてのみ真剣に思念されうるが、ここで高田によって「普遍」へ開かれ連なっているものとして捉えられているのを踏まえてのことである。その「普遍」への関係、あるいは「普遍」の暗示的臨在は、既に我々の原初的無前提的な――その意味で純粋な――対象感覚そのものの中に、「ほとんど数学的な節度」があることによって、認められる、と高田は考えていることが読み取られる。この「普遍な節度」は、人類的に共通なものとして認められるが故に、ひとつの絶対的ななにものか―「神」―を思念させる、とするのが高田の立場である。本来、正直で素直な人間感覚は、人間が関係するものの中に、人間経験における普遍的なもの、美を生みだす精神秩序を、いわば本能的に捉えているのであり、それによって我々は「感動」を覚えているのであるが、いわば心と魂の間にある厚い雲を貫いて衝撃波の如く魂を揺さぶるこの「感動」に、心自体が先ず戸惑い、感動の根拠を自らの仕事による試行錯誤を通して探ってゆかなければならない「普遍」はこうして、孤独な道の探求問題、感動によって触発された深き自己―魂―との自問自答の課題となるのである。結局、心を「魂」へ近づけてゆくしかこの「普遍の秩序」の問題は解けない、つまり、その「秩序」を自らの魂そのものの「内的秩序」として自らの内に発見的に築いてゆく――仕事の内に創造的に見出してゆく――しかない、と高田は理解している。「普遍な神」が純粋孤独の照応存在となるのである。人間の創造の証としての様々なものが我々を打つのは、そこに独立的人間の尊厳と親密が、それ自体同時に「存在論的普遍」の証として迫るからである。我々は感覚の純粋状態において、それをいわば本能的に察知していると言い得る。

《本能的な私たちのこの感覚さえも、しかしあらかじめ「自分独特」の意味は持っていなかった。感覚が純粋であればあるだけ、そのなかに人類が経験したものを背負っているのであった。そして感覚する対象の自然や事物そのものが、生きてきた人間の面影と感情をもって、私たちの前に在る全く自由と思える感覚や感情や、また想像も、ほとんど数学的な、「経験」が生んだ節度を持っている。宇宙一切が偉大な法則を持っているように、それと同様同質の法則を人間経験が得てきた。》 」

言葉の泉とはこれである。註釈の替りに着色をした。「存在論的」という表現は、我々の自由にたいする或る超越的な拘束的作用の自存性を意味するが、「存在」の不可解さを経験した今なら、「イデア‐形而上的」というような表現をするだろう。この先生の文章は先生の思想全体において重要な位置づけがなされるべき文章であり、ぼくも先立つ自分の文章において核心への渾身の肉迫を試みている。
ここで強調したいことは、われわれが自分だけの道を、大向こうを狙った自分勝手な発明としてではなく、それとは逆に、最も内奥の自己感覚、それ自体当面は漠とした、自分の信仰のような信念によってしか支えられない、不安と寂寥のなかに投げ出された孤独な自己感覚において(ルオーも先生も、今では巨匠として賞揚される美の探求者達はすべてそれを経ている)、その光が見えるか見えないかの星の導きを頼りに沙漠を行く巡礼者のように自分だけの道をゆく、その独立性が、最も普遍的な人間真実の証として輝き出すということ―この秘義がここで語られていることのすばらしさである。先生のルオー論はそのような珠玉の告白の、宝石の塊(かたまり)のような本である。「独立的人間の尊厳と親密が、それ自体同時に「存在論的普遍」の証として迫る」という自分自身の一文に籠められた感得と熱情が、いまぼくに最も迫る。そして《感覚する対象の自然や事物そのものが、生きてきた人間の面影と感情をもって、私たちの前に在る》という先生の感覚は、名文「地中海にて」(『フランスから』所収)においても見出される本質的感覚である。ぼくは、先生という海の前に立ってそのなぎさで拾えるかぎりの真理によろこんでいる子供のようであり、ありたい。

〔ぼくの文章は、欧語の構文意識が殆ど無意識のうちにも下敷きになっています。向こうの言葉で読み、書いてきましたから、考える行為(それは想念を分節化・文章化する行為とイコールです)そのものにこの構文意識が浸透しているのです。向こうの言葉で思考するということではありません。向こうの、論理性によって成り立っている言語(フランス語にせよドイツ語にせよ)にいつでも置き換え可能な構文性において日本語でも考えるという態度が血肉化(習慣化)しているのです。そのうえで日本語の感覚性も生かしています。言葉に「もの」として取り組む態度がぼくの文の明澄性と、飛ばし読みできぬ油断のならなさの元となっています。苦労して出来ている文は数学式を読み解くように慎重に努力して読んでください。(余分なものをすべて削ぎとってただ論理的‐文法的‐に組み合わされた言葉群としての文は、それ自体既に詩の様だといつも思う。 欧州人に日本の俳句‐翻訳された‐の簡潔美が愛されるのも同じ感覚からではないか。)〕