高田の意志は、様々な経験を通して全魂を挙げて「イデア」――《プラトン的な「イデー」》(「地中海にて」一九四九、著作集第一巻)――へ赴く意志であり、このイデアは魂の内なる根源的記憶と言い得るものである。この内なるものを高田は後年、《「未生前の光(ラ・ルミエール・ナタール)」》と呼ぶであろう(『分水嶺』Ⅸ‐3、著作集第二巻)。人間が求める、己れ自身の内部からの光である。高田の満三十七歳時の名高い地中海経験は、この根源的記憶が彼に啓示された経験である。(「未生前の経験」という発想と表現は、既に『薔薇窓』第一部Ⅵの戦争難民収容所経験記にある。)

 ところで、イデアへの意志、或いは「自分への誠意」は、常に究極的には自我の方を選択して生きる一つの意識的な自己愛として、他者への愛の切捨てを内包しているのではないのか。就中、この意志は、本質的に日常生活を最優先的に求める女性の生き方と根源的な齟齬を来すのではないか。いかに高貴な自己愛であろうと、それが精神的であるだけ、質料的な生の次元においては反法則的となり、所謂幸福は得られないのではないか。「イデア的自己愛」の光と影を高田においてすら確認せねばならぬのではないであろうか。高田が自らの根源的経験を呼ぶのに、意識して殊更にその題名を用いた詩集《Lumière natale》の作者レオン・ドゥーベル(1879-1913)が、《一人の恋人もなく餓死した詩人》(『薔薇窓』第二部Ⅰ)〔マルヌ河投身自殺。滞仏初期、高田は自ら極貧の中、この詩人の胸像を自分の欲求から作った〕であったことがそれを暗示する。高田は、己れへの誠意によって入って行った自らの孤独の運命の本質像をこの詩人の中に観ていたのである。

 私は「他者への愛の切捨て」と言った。勿論私は、高田の、自分の愛する者への愛情の海の如き深さを知っており、それを信じている。人間への深い愛情こそは、高田の生の心臓であり、「薔薇窓(ロザース)」の表象によって彼が象徴しようとしている、己が人生の永遠性、己が経験と記憶の神秘なまでの悠久不滅性の、根本色調を成すものであると私は思う。大自然を前にしての己れの内なる永遠なるもの、不滅のいのちの自己啓示こそが、彼の地中海経験の本質であるが、このように語られる。

 

 《何という不動(しじま)な広大さ! あらゆるものがじっとしている。海も、火山も、噴煙までも……〔…〕知覚は見ほうける茫然とした中に埋れ去り、何ものとも知れない、ただ聖かな、しかも実に親しく、そして秘密な、豊饒な、殆んど肉情的(サンシュエル)な体覚となった。これまでの自分の一生の中で、あるいは実に遠い昔にたった一度味わったことがある、もしかしたらもっと遠く、生れる前に知っていたのかもしれないものを、少し不安な魂を以て、憶い出すような……しかも私は思っていた。ただ「愛するもの」を……人間が愛するものを……愛する平和さを……もし私の傍に自分の愛する女がいたならば、このあふれる感動に押されて、優しさをこめて抱擁したであろう。》(「平和への愛」一九四八、著作集第一巻)

 《心を占めていた感動は、ただ人間の「愛」であった。〔…〕聳え立つ高い岩山の上に坐り、夕暮れるエトナの大山塊とイオニアの海に見ほうけていた時、それは過ぎゆく印象ではなかった僕の中に人生の薔薇窓(ロザース)が光っていた。》(「地中海にて」一九四九、同、強調引用者)

 

 このとき、高田において、人間意識上のあらゆる分裂、霊と肉との、主観と客観、人間と自然との、現在と過去との、分裂と垣根が乗り越えられ取払われ、すべてが照応し重なり合い、愛するものの名を呼ぶことは自分の名を呼ぶことと少しも違わない啓示があったであろう。

 この霊肉融合の魂の愛の本物さを高田に認めかつそれゆえにこそ彼に帰依しつつ、私は、その「光」を愛するがゆえに、質料的人生における彼の「闇」をも――そもそも闇を通さない光がどうして我々をそれほど魔術的に惹くことがあろう――探りたい衝動に駆られる。ロザースの光彩陸離さは闇に浮ぶ光である。その闇が光に劣らず私を惹きつける。

 ひとは「魂の愛」のみによって生き得るか。人間の生は霊肉融合の海である。魂的生の海は質料的生の海と別のものではない。己れの生存そのものを授け許し、パンを与える「肉の愛」にも感謝しつつ自然の法則に沿って生きることをも、魂はこの同じ生の中で学ぶであろう。愛することはただ想いだけではなく行いでもあることを学ぶであろう。ひとはこの二つの愛を自らの内においても両立融合させねばならないのであろう。そのような生の課題の中で、しかし、「自分を所有する」ために「他の一切の否定」にまで自らを追い込み得る魂的力は、両刃の剣として、質料的生の法則から復讐を受けるであろう。己れの内的促しに忠実な魂的愛そのものが、よしんばいかに所謂プラトン的な内面的秩序の許に留まろうと努めつつのものであろうと、同時に質料的生にあるかぎり、それを受けるであろう(二つの生が別々のものではないこと自体が、秩序を常に混乱させるのである)。私は、それをも総て受け入れた高田の純粋さを、愛し慈しむ心に溢れる。それはイデアに本気で自らを賭けた者すべての宿命であろう。彼の偉大さは、その宿命をも生ききり、人間の可能性の極北を示した者達の一人たり得たことにあるのではないであろうか。

 状況によって己れ本来の道を遮断された彼が記した記録は、奇しくも我々を創造の源たる彼の魂的生の大海へと導くものとなった。『薔薇窓』はこの海へ我々を惹き入れる類なき魔力をもつ。その意味においてこの記録は――彼の魂の証であるとともに――それ自体が、我々を彼の生を巡る航海へと誘(いざな)う燈台なのである。この燈台に導かれて、我々は、彼の他の諸々の記録をも「ロザース」の象徴的表象の許に引き入れるであろう。このようにして彼の魂的生の光と闇とを、極限状況における自己沈潜という『薔薇窓』の色調本質をもって辿り、その明暗を淵源から浮び上がらせようと努めるであろう。