大雨である。大きな雨音がしている。そのせいか心がとても落ち着いている。こういうことは最近にないことだ。昨日も明け方まで起きていたのにめずらしく疲れていない、癒されている。ぼくのなかで追憶の雫(しずく)が降っている。
先生は、現代の哲学者でマルセル、ヤスパースについては所々で結構肯定的に言及している(アランは言うまでもない)。芸術家であるから、文人、音楽家に関する列挙・引用も夥しく、造形行為にうちこむ傍ら、それだけでもどうやってこれだけ勉強できたのか感嘆するしかない(しかも最も勉強したのは歴史であるという)が、本来、「哲学か、芸術か」の岐路で「天啓を受けたように〈芸術をやろう〉と決めた」人であるから、芸術行為の中で自ら〈哲学して〉いた。ここで先生ではなくぼくのヤスパース観も一言しておくが、このドイツ哲学者の思想について少なくとも日本では舐めた雰囲気が〈哲学研究者〉の間では一般的にある。彼の意識の深さを感得するには主著『哲学』三巻(特に第二巻「実存開明」)に沈潜しきることが必須だが、彼を甘くみている(しかも必ず断定的に)学徒の殆ど全員は、それを通過もしていなければ、その魂的力量も持ち合わせていないことを、ぼくは感知している。しかし比較的少数の、この門を通った(ぼくは誰よりも徹底して通った自負がある)ヤスパース愛読者、いや研究者にもぼくは本質的な不満をもっている。根本的に「自分自身たれ」という深い「呼び掛け」である彼の哲学体系の意味を感得したならば、彼特有の「実存」のあり方をはみだしても自分の道を拓いてゆくのが本筋なのだ。それをいつまでも彼の思想概念に「権威」のように言及する態度は、〈研究〉にはなっても、自己照応の態度にはなっていないとぼくは感ずる。この照応的思索展開が出来ているのは彼の愛弟子ハンス・ザーナー氏ぐらいであろう。ぼくは内的・外的要因でヤスパースに留まることはしなかったが、一言言えば、ヤスパース(ドイツ哲学の本質的見識ある総決算)に感じる桎梏はドイツ的思惟そのものの桎梏であるというのがぼくの経験であり、自分の思惟をそこから徹底的に解放するためにぼくはフランスの大気の中に踏み込んで今がある。
しっとりとした落ち着いた気持を大事にして、先生の魂の実証についてのぼくの論の紹介に移る。
先生は、現代の哲学者でマルセル、ヤスパースについては所々で結構肯定的に言及している(アランは言うまでもない)。芸術家であるから、文人、音楽家に関する列挙・引用も夥しく、造形行為にうちこむ傍ら、それだけでもどうやってこれだけ勉強できたのか感嘆するしかない(しかも最も勉強したのは歴史であるという)が、本来、「哲学か、芸術か」の岐路で「天啓を受けたように〈芸術をやろう〉と決めた」人であるから、芸術行為の中で自ら〈哲学して〉いた。ここで先生ではなくぼくのヤスパース観も一言しておくが、このドイツ哲学者の思想について少なくとも日本では舐めた雰囲気が〈哲学研究者〉の間では一般的にある。彼の意識の深さを感得するには主著『哲学』三巻(特に第二巻「実存開明」)に沈潜しきることが必須だが、彼を甘くみている(しかも必ず断定的に)学徒の殆ど全員は、それを通過もしていなければ、その魂的力量も持ち合わせていないことを、ぼくは感知している。しかし比較的少数の、この門を通った(ぼくは誰よりも徹底して通った自負がある)ヤスパース愛読者、いや研究者にもぼくは本質的な不満をもっている。根本的に「自分自身たれ」という深い「呼び掛け」である彼の哲学体系の意味を感得したならば、彼特有の「実存」のあり方をはみだしても自分の道を拓いてゆくのが本筋なのだ。それをいつまでも彼の思想概念に「権威」のように言及する態度は、〈研究〉にはなっても、自己照応の態度にはなっていないとぼくは感ずる。この照応的思索展開が出来ているのは彼の愛弟子ハンス・ザーナー氏ぐらいであろう。ぼくは内的・外的要因でヤスパースに留まることはしなかったが、一言言えば、ヤスパース(ドイツ哲学の本質的見識ある総決算)に感じる桎梏はドイツ的思惟そのものの桎梏であるというのがぼくの経験であり、自分の思惟をそこから徹底的に解放するためにぼくはフランスの大気の中に踏み込んで今がある。
しっとりとした落ち着いた気持を大事にして、先生の魂の実証についてのぼくの論の紹介に移る。