1957・昭和32年
在仏中に制作した作品をすべて壊し、単身帰国。
(読売新聞から「…一度帰りませんか」と勧告がある。高田はその真意を直ちに解し、自らの運命の一転回を感じる。粘土のままのものばかりか、在佛中に制作した全作品と石膏原型も全部破壊する。秋、単身船で故国に帰る。集めた数千冊の本だけは持って来た。)
(東京、)西落合の借アトリエに住み、彫刻制作を再開する。(「ガンディー」「ポール・シニャック」「ロマン・ロラン」「シャルル・ヴィルドラック」「武者小路実篤」「岩波茂雄」等を作り直す。)以後、新制作協会会員、日本美術家連盟委員、日本ペンクラブ理事、東京芸術大学講師その他をつとめる(九州産業大学藝術学部の創設に尽力する)が徐々に引退し、彫刻制作と執筆に専念。
(1958・昭和33年
「中原中也」を作る。)
1959・昭和34年
高村光太郎賞選考委員となる。(『思い出と人々』(みすず書房)刊行。「高村光太郎」を作る。)
1962・昭和37年
東京、高島屋にて「高田博厚彫刻展」開催。
(1963・昭和38年
ロマン・ロラン『ミケランジェロの生涯』訳(岩波文庫)刊行。
1965・昭和40年
『ルオー』(みすず書房)刊行。〔1953年発表のルオー論の単行本化。〕)
1966・昭和41年
鎌倉稲村ヶ崎に住居とアトリエを建て移る。大野常と再婚。
1967・昭和42年
インド・アグラ救らいセンターにガンディー像を寄贈。
(『偉大な芸術家たち』(講談社)刊行。「梅原龍三郎」を作る。
1968・昭和43年
『ロダン・ブールデル・マイヨル』(河出書房)刊行。「西田幾多郎」を作る。
1969・昭和44年
『ヴェルレーヌとランボー』(皆美社)、『薔薇窓』(美術出版社)刊行。)
1970・昭和45年
前橋、煥乎堂にて「高橋元吉・高田博厚二人展」開催。(ロマン・ロラン『ジャン・クリストフ』訳(筑摩書房)刊行。「高橋元吉」を作る。)
(1971・昭和46年
「宮沢賢治」を作る。
1972・昭和47年
『高田博厚作品集』(現代彫刻センター)、『薔薇窓から』(筑摩書房)、『人間の風景』(朝日新聞社)、『マイヨール』(平凡社版ファブリ世界彫刻集)刊行。「富岡鉄斎」を作る。
1973・昭和48年
『私の音楽ノート』(音楽之友社)、『フランスから』(新編)(朝日新聞社)刊行。)
1974・昭和49年
東京、高島屋にて「彫刻五十年・高田博厚展」開催。同展は全国を巡回。(「萩原朔太郎」「ジョルジュ・ルオー」「イザベル・ルオー」を作る。)
(1975・昭和50年
『分水嶺』(岩波書店)、『思索の遠近』(読売新聞社)刊行。
1976・昭和51年
『ルオー』(森有正共著)(筑摩書房)、『もう一つの眼』(蝸牛社)刊行。「岸田劉生」「新渡戸稲造」「内村鑑三」「宇野重吉」を作る。
1977・昭和52年
ロマン・ロラン『ベートーヴェン』訳(レグルス文庫)刊行。)
1978・昭和53年
福井県立美術館にて「高田博厚展」開催。(コンディヴィ『ミケランジェロ伝』訳註(改訂版)‐附・ミケランジェロの詩と手紙‐(岩崎美術社)、『高田博厚作品』(求龍堂)、『形の美のために』(求龍堂)刊行。「空」(裸婦立像)「地」を作る。)
1980・昭和55年
東京、高島屋にて「生誕八十年記念・高田博厚展」開催。盛岡文化会館にて同展。
(1981・昭和56年
黒の会編「同時代」‐特集・高田博厚‐出る〔第三十九号、編集・発行人安川定男、法政大学出版局〕。「遠望」を作る。
1982・昭和57年
前橋、煥乎堂で「高田博厚彫刻展」。「礼拝」を作る。
1983・昭和58年
「大地へ」(試作)、「中野重治」〔絶作〕を作る。
1984・昭和59年
前橋、煥乎堂で「高田博厚彫刻展」。同展に際し、煥乎堂は『高田博厚―その内部における東西の遭遇―』〔福田真一編〕を刊行。)
1985・昭和60年
パリに会館予定のマイヨール美術館に、高田の彫刻作品四十三点が収蔵展示されることが決定。「パリ・マイヨール美術館収蔵記念高田博厚展」が全国を巡回。
『高田博厚著作集』全四巻(朝日新聞社)刊行。
1987・昭和62年
六月十七日、鎌倉市の病院で逝去。鎌倉霊園に眠る。
〔以上は「略歴」であり、記さなかった本質的重要事はいくらもある。〕