お話した箇所を丹念に写し終えたのだが、どういうわけか、最後に(高田博厚「パリの巷で」より)と文字を入れている最中に、誤作動ですべて消滅してしまった。丹念に文字を打ち込みながらあらためて味読したという、ぼく自身の中の経験のみが残った。予告しておいて誠に申し訳ないが、もう二度とは繰り返せない。これでよいのかもしれない。この話は、先生の膨大な〈美の巡礼〉記を経巡った後に、ひとつのアネクドートとして読むときはじめて、全体の理解を背景としてその意味が伝わるものだと、文字を打ちながら思っていた。あらためて先生の何の衒いも無い率直さを、衒いが無さ過ぎるから誤解曲解される向きもあるのだろうと、少し内心冷や汗を覚えながら、感じていた。先生は底抜けに器量の大きい人だ。次元は違うが、西郷隆盛の逸話など読むと、似たような場面がある。二人とも、本音で人を惹きつける本質があるようだ。本質の本道から読者に先生の存在を伝えてゆくことが、ぼくの本務だと思う。