このエントリーが公開される2025年3月8日15時頃、西村修選手は新たなる旅路へ向かったと思われます。
昨日、お通夜に参列してまいりました。小さい時に慣れ親しみ、政務に打ち込んだ文京区にある護国寺が、別れの場。プロレス界ならず、政界でも広く人脈を築かれた方です。その列は、長蛇に及びました。

週刊プロレス在籍時、デビューの頃から見てきた西村選手はまさに唯一無二の存在感をまとったプロレスラーでした。ヤングライオン時代の青タイツ姿、雪の札幌におけるセピア色のIWGP戦、ガンを患いインドへ渡った時に同行取材した佐藤正行・元週刊プロレス編集長との関係性。

髙山善廣選手とのG1クライマックス準決勝は、どうしても見たくて印刷所での出張校正が終わるやいなやタクシーを飛ばし、両国国技館へ向かったところ滑り込みでその一戦に間に合いました。武藤ゼンニッポンで距離が近づき、近年ではVAMOSTAR参戦時に挨拶を交わしていました。
昨年夏の電流爆破デスマッチの翌日には、自身の体調が思わしくなかったにもかかわらず天龍源一郎さんとのトークイベントへ出演するドリー・ファンクJrさんのもとへしっかりとついて、来られました。今年の1・4東京ドームの記者席でお会いしたのが最後となってしまいました。
すでに多くのゆかりある方々が西村選手の人物像を語っています。私よりも至近距離から見続けてきた皆様による貴重なエピソード。それにプラスして、より西村修というプロレスラーを知っていただけないかと考えました。

▲通夜前日の新日本プロレス大田区総合体育館にて、さる2月15日に逝去されたグラン浜田さんとともに追悼の10カウントゴングが捧げられた

▲ヤングライオン時代から苦楽をともにしてきた永田裕志、小島聡、天山広吉の心中は察するに余りある
2020年3月12日、当時私は雑誌『実話ナックルズウルトラ』で「孤高のバイプレイヤー列伝」という連載を執筆していました。団体のエースやチャンピオンといったスタープレイヤーではなくとも、独自のスタンスがファンに支持され、輝きを放つ選手たちいる――それを一般層にも広く伝えるのが主旨でした。
その第8回として西村選手にご登場願うべく、シビックセンターを訪ねました。館内を案内してくださった西村議員は、文京区に住みながらも池袋の方が比較的近かったため、目と鼻の先の後楽園球場より西武線に乗って西武球場へいくライオンズファンだったこと、高校時代は後楽園球場でビールの売り子のアルバイトをやっていたことから話し始めたのを憶えています。少年時代はそれほどの野球ファンだったのが、次第にプロレスへと傾倒していく…そこから取材はスタートしました。

▲西村選手の方から「一緒に写真を撮りましょう」と言っていただき、初めて撮影したツーショット。公務室にはアントニオ猪木さんの興行用ポスターが貼られていた
生い立ちからその時点における活動までを網羅する内容だけに“入り口”としてはこの時に綴ったものが最適と思えました。そこで今回、版元である大洋図書の担当編集者さんに連絡し、追悼の意をこめて全文を転載することで広くプロレスラーとして、政治家としての西村修を知ってほしいとの思いを承諾いただきました。ご理解いただき、心より感謝いたします。編集担当の菊池亨さんも西村選手取材時に同行し、その哲学に胸を打たれた人物です。以下『実話ナックルズウルトラ』Vol.8(2020年4月15日発売号)からの転載です(ブログタイトルも同)――。

文京区議会議員であり、プロレスラーとして今もリングへ上がり続ける西村修は、2020年2月22日に現役引退した中西学と同じ「第三世代」にあたる。アントニオ猪木の時代、藤波辰爾&長州力の時代に続く新日本プロレスの次世代を担うということで、90年代初頭にデビューした選手たちがそのように呼ばれた。
金本浩二、天山広吉、小島聡、永田裕志、ケンドー・カシン、大谷晋二郎、高岩竜一…91~92年デビュー組の顔ぶれを見ての通り、実に豊作の年だった。
そうした中、西村は一人我が道をいく男だった。身長こそあるものの線が細く、格闘技のバックボーンも持ち得ていない。何よりも新日本特有の“アクの強さ”のようなものをまとっていなかった。
だが、西村は同世代の誰よりも頑固で、強い己の信念を持っていた――。
文京区で育った西村は小学生の頃、野球少年だった。ところが、学校の話題はどちらかというとプロレス。新日本の中継があった金曜の翌日は、特にそれ一色へと塗り潰された。
クラスメイトとのお喋りに置いていかれないようにするべく、西村はプロレスを見始めた。誰のファンというわけではなく、新日本そのものが好きで猪木や藤波らが長州率いる維新軍と闘うと、正規軍の方を応援した。
「その頃から長州さんが大っ嫌いで、小学校の卒業アルバムに将来の夢として『新日本プロレスに入って長州力を倒す』と書いたほどでした。まあ、その長州さんがのちに私にとって大きな存在となるわけですが…」
中学に入るとママさんバレーのキャプテンをやっていた母の影響でバレーボール部へ。中3の時、1つ下の後輩とプロレスごっこをやるうちに熱くなり、ケンカ腰となるや胸倉をつかまれ下駄箱にドン!と押しつけられた。
中学生にとって、後輩にそのようなことをやられるのは大いなる屈辱であり、何も返せなかった自分の非力さに夜も寝られなくなるほどのショックを受けてしまう。これを機に西村はダンベルを購入。車もないのになぜか自宅にはガレージがあり、そこをトレーニング場として少しずつ器具も増やしていく。
体を鍛えたことによってバレーのアタックも目に見えて強く放てるようになった。「ちゃんとトレーニングしたらこんなにも力がつくものなんだ」と思った西村は、そこで初めてプロレスラーになることを意識する。
錦城学園に進学したあとは部活には入らず、御茶ノ水のYMCAレスリングクラスへと通う。そこが老朽化のため建て直すとなったタイミングで、専門誌に「新日本プロレス学校開設」との情報が載った。
昭和の名レスラーであり、新日本中継の解説も務めていた山本小鉄が直接指導するという。「あの小鉄さんに教えてもらえるなんて!」と、西村は高校2年で入会。
基礎体力運動はもちろん、スクワット、ブリッジ、受け身、スパーリングと実際に練習生として入門した者たちも経験することを学べた。そこで体を鍛え、高3の12月にテストを受けて合格。卒業後の4月に入寮した。
猛者揃いの新人の中で、西村は唯一体育会系の文化を経験していなかった。当時の道場は“やめさせるための練習”をする場。一度、自我を破壊されプロレスラーとしてのそれに作り直される。
バリバリの体育会系である長州が現場を仕切っており、気迫をムキ出しにするパワフルなプロレスで統率されていた。西村もそれが大事だとわかっていながら、同じスタイルでいったら他の同期たちに勝てるスペックではない現実に苦しんだ。
それでも同じレールは用意される。93年8月に海外修行へと出された。行き先はフロリダ州タンパ。現地在住で日本人フリー選手の先駆け的存在のヒロ・マツダが受け皿となり、その指導のもとトレーニングを積むもなかなか試合が組まれない。
もっと経験の場がほしいとそればかり思っていたが、翌年の末ぐらいになると「1月4日の東京ドームで凱旋試合をやるので帰国するように」と会社からの連絡が届く。戻れと言われても、自分はプロレスラーとして技術も経験も、何もかもが培われていない。
「12月上旬に会社から最終連絡があり、長州さんと社長の坂口(征二)さん、そしてフロントの永島(勝司)さんに変わるがわる2時間説教をされました。最後に長州さんが『勝手にしろ!!』と怒鳴ってガシャン! もう、クビ覚悟の帰国拒否でした」
天下の長州力にタテ突くなど、神をも恐れぬ行為。それをキャリア3年半ほどの若手がやった。事実、振り込まれていた給料が止まった。レンタカー代も会社持ちだったから車も借りられず、タンパで生活できなくなった西村は年が明けると24時間かけて自分で運転し、ニューヨークに移る。
元・全日本女子プロレスの山崎五紀夫妻が経営していた日本レストランでウェイターのアルバイトをしながら、近辺のインディー団体に出場。その時、WWF(現・WWE)で活躍していた新崎人生、ブル中野と店に集まることが何よりの癒しとなった。
そんなある日、国連でスピーチをするために猪木がやってきた。会社の命により迎えにいった西村は人生勉強ができる場はないかと教えを乞う。
そこでヨーロッパにいくことを薦められ、まずはオランダ・アムステルダムにあるクリス・ドールマン(前田日明率いるリングスで活躍)の道場で1ヵ月間修行を積み、ロンドンへと流れる。イギリスには、あのプロレスの神様とされるカール・ゴッチがレスリングを学んだ伝統的な「ビリー・ライレージム」がウィガンという町にあった。
訪ねてみると「アスパル・レスリングジム」と名称は変わっていたが、伝統を引き継ぐレスリングスクールは実在した。実は藤波も「大技が繰り出される現代プロレスに一石を投じ、原点のプロレスを実践したい」と考えており、コーチを務めていたロイ・ウッドという達人のもとへ会いに来た。その場で西村は「私も参加させてください」と申し出る。ここで初めて自分の進むべき道が定まった。
帰国するや、長州が物凄い剣幕で待っていた。事務所でさんざん雷を落とされたが「おまえ、一番大切なものはなんだかわかるか? ファミリーなんだぞ」と諭された。
ファミリー…つまり、団体の輪を乱すような勝手な行動はとるなということだった。それにしても西村が他の選手たちと違ったのは、特定の誰かの影響ではなく旅路の中で自身のスタイルや立ち位置、キャラクターを見いだした点。これは個人としての姿勢や人生が、プロレスに直結している事実を指す。
“ラリアットプロレス”とも称された90年代の流れに背を向けた時点で、西村の中にエースやチャンピオンといった価値観はなかった。それよりも、自分の信念を貫くことの方が遥かに大切だった。
「考えてみると、小さい頃から反対側に立っている子でした。スキーブームだからといってそれを求めた瞬間、私にとっては時代遅れのものなんです。だから山形蔵王のデカいスキー場で一人だけスノーボードに乗っているような子でした。
みんながおニャン子クラブを見ている時も、母が石原裕次郎の大ファンだったこともあって『西部警察』を見ていましたし、キン肉マンだ、ガンダムだと言っている中で一人だけ『タワーリング・インフェルノ』を見てスティーブ・マックイーンにあこがれて…なるべくしてこういう道になったんでしょうね」
藤波が興した新日本内別ブランドの「無我」に参加したあとも、西村はこれといった実績をあげられず97年5月に2度目の海外遠征へ出される。そこではヨーロッパで試合が組まれ、ドイツ特有の文化を学んだ。
体を冷やすのはよくないから氷は使わず、ビールは添加物を一切入れてはいけない。特別に裕福ではなくとも頑丈なベンツを買う。それは、大事に長く乗るため。洗濯機も最小の水で2時間かけ省電力を心がけ、環境を考えて使う。
98年には後腹膜腫瘍を発症。ガンと闘うべく肉や牛乳といったアメリカ型食生活を廃し、医食同源を徹底。その精神から人間としての原点に還る境地へといきつく。
「身土不二の言葉にあるように、体にいいものはその人が住んでいる土地の食材を摂るべきなんです。真夏のG1クライマックスに出場してシングルの連戦に臨む時も、みんなはスタミナをつけるといって焼き肉をガンガン食べる中、私は三食おにぎりと味噌汁のみで疲れない、筋肉がしなやか、精神状態もいい究極のコンディション作りができました。
精神に関してはインドに飛んで、肉体は滅んでも魂は永遠に死なないというヒンドゥーの教えを理解しました。そこで砂時計がシュッと落ち終わる時のように、恐怖心がなくなったんです。今は死んじゃうから怖いし、寂しく辛い気持ちになる。でも、それがまだ何千年も生きなきゃいけないのかと思うと、最終的にはいい意味での諦めの境地に達した。ガムシャラに食いしばる力が抜けたのが、インドでした」
プロレスラーとして何も持ち得なかった者が世界中で人生経験を積み、ガンとも向き合ってそれを克服した。その姿勢は政務に携わる現在も変わっていない。
「今のコロナも、みんながマスクに手洗いと言います。でも本当にしなければならないのはキチンとした食事と休息をとって、コンディションを整えて免疫力を上げることが予防法であるはずです」
3期目に入った議員活動。都議会や国会に出馬しないのかとよく聞かれるそうだが“上”にいけばいくほど本気で変えたいと思うことを変えるのが難しくなるのを知っている。1億3000万人は変えられずとも、文京区の21万人の区民のためならば変えられる――西村修とは、そんな政治家であり、永遠の学び人である。

▲2013年10月27日、全日本プロレス両国国技館大会にて渕正信と組み、ザ・ファンクスと対戦。20分ドローに終わると和田京平レフェリーとともに5人でレスリングの充実感を味わった