KEN筆.txt

鈴木健.txtブログ――プロレス、音楽、演劇、映画等の表現ジャンルについて伝えたいこと

【編集&執筆媒体情報】
〔携帯サイト名〕週刊プロレスモバイル
〔コーナータイトル〕「EYEコラム」月曜更新「週モバ野郎NOW」
〔5月22日更新〕「最後のスーパーJr」にもう一人の獣神の思い

〔サイト名〕FIGHTING TV SAMURAI公式サイト
〔コーナータイトル〕鈴木健.txtの場外乱闘番外編
〔URL〕http://www.samurai-tv.com/jougai_full/
〔5月1日更新〕第22回ゲストはGHCヘビー級王者・中嶋勝彦選手。「ノアとしての軸を確立した時に本当の新風景が見えてきます」と題し、史上初のグランドスラム達成について、マサ北宮とのチーム名は“ハングリー・アングリー”だった!?等、多岐に渡り語っています

〔サイト名〕中日新聞プラス 
〔コラム名〕達人に訊け!「鈴木健.txtの文化系名古屋プロレス講座」
〔URL〕http://chuplus.jp/blog/list.php?category_id=237
〔4月25日更新〕名古屋の女子プロ団体・デラべっぴんプロレス旗揚げと、パピヨン朱美のドリームズ・カム・トゥルー

〔書名〕月刊スカパー!2017年5月号
〔発行〕ぴあ株式会社
〔価格〕500円
〔内容〕連載「鈴木健.txtの場外乱闘」第42回のゲストはプロレスリングNOAH・中嶋勝彦選手。「目指すはノアのグランドスラム」と題し、現在開催中のグローバルタッグリーグ戦への意気込みと、GHCヘビー級王者として今後の展望について語っています

【TV出演情報】
〔本放送〕
■サムライTV「DDT5・28後楽園ホール大会生中継」5月28日(日)12:00~15:30/リピート放送:5月28日(日)22:00~15:30
※実況:村田晴郎、コメンテーター:鈴木健.txt
http://www.samurai-tv.com/

■GAORA SPORTS「WRESTLE-1 5・4後楽園ホール大会」:5月24日(水)21:00~23:00/リピート放送:5月27日(土)25:00~27:00、6月12日(月)12:00~14:00
※実況:高橋大輔、解説:鈴木健.txt

■GAORA SPORTS「WRESTLE-1 6・6後楽園ホール大会」:6月17日(土)20:00~22:00/リピート放送:6月30日(金)18:30~20:30
※実況:高橋大輔、解説:鈴木健.txt
http://www.gaora.co.jp/wrestling/1776080

〔リピート放送〕
■サムライTV「DDT4・29後楽園ホール大会」:5月25日(木)23:00~25:00、5月26日(金)18:00~20:00、5月28日(日)10:00~12:00、5月29日(月)15:00~17:00
※実況:村田晴郎、コメンテーター:鈴木健.txt

テーマ:

BGM:ジャンボ鶴田テーマ曲『J』

 

 

 「なんであそこで『ジャイアント馬場さんのようなプロレスラーになりたい』って言わないんですかね? ジャンボ鶴田さんのようになりたいって…それ、ただの本音じゃないですか! 正直すぎるでしょ。せっかく似てるんだから、これからのことを考えたらあそこは馬場さんって答える方が正解なんですよ。なんですけど…まあ、そこがあいつの素直でいいところなんでしょうね。バカ正直だから苦労するだろうけど、あれほどのタッパがあるんだから頑張ればモノになるかもしれませんよ。やっぱり、最後にものをいうのは人間性ですからね」

2003年6月15日、横浜赤レンガ倉庫でスーパー宇宙パワーを相手にデビューしたソップ型の若者が、リング上から控室へ戻ってきてからもオイオイと泣き続けながら記者団の質問に答える姿を遠巻きに見つめてある先輩レスラーがそう言った。練習生の時点で石川修司は「ジャイアント馬場さんに似ているデカいのが入った」と評判だった。

当時は身も心も佐々木健介になりたかった藤沢一生(のちの健心)や、長州力をラーニングした泉州力といったところが“DDT内市民権”を得て「オマージュレスラー」なる新たなる分野を確立した頃。そこへ巨人の男が入ってきたものだから、高木三四郎の目がビンス・マクマホンばりにギラリと光るのも無理はなかった。

日本プロレス時代に馬場さんが着用した緑のショートタイツ履き日本テレビスポーツテーマのリミックスVer.が流れる中、デビュー戦のリングへ上がった石川は河津落とし、十六文キック、股裂き、ランニング・ネックブリーカードロップとジャイアント殺法を繰り出したが、しょせんは付け焼刃。宇宙の拷問のような逆片エビ固めで絞られるとギブアップの声もあげられなかった。

風貌は馬場さんに似ていても、石川は全盛時のリアルタイム世代ではなかったのでじっさいのところどんな技を使っていたかまでは知らなかった。もちろん、どれほど偉大なるプロレスラーなのかは理解していたが…。

 

「脳天唐竹割りにしても関根勤さんがマネしているのを見たことがあるだけで、オマージュしろと言われても大変申し訳なかったんですが、しようがなかったんです。それでYouTubeを見て研究して、初めて馬場さんの凄さが理解できました。やっぱり、大きくて動けるわかりやすさというのが武器なんだなと思って」

大きい人間は、こういう見せ方をすればいいというのを教えてくれたのが馬場さんの映像だったから、ちゃんと実にはなっている。その中で、自分の技に昇華できたのが三十二文ロケット砲(ミサイルキック)だった。

もともと鶴田さんが好きになったのは大きい以前に強さで知られるプロレスラーだったから。同じ理由で橋本真也さんにもあこがれた。そういう先人たちの動きを映像で研究するまでは、自分がやりたいことがなんなのかさえも定まらずにただやれと言われたことをやるしかなかった。

「面白いから」という理由で、デビューできるだけの技術もともなわぬままキャリアをスタートさせた。当時、毎週水曜の渋谷club ATOM定期戦ではエレベーターで上がり扉が開くと、そこへぬぅっという感じで “モギリ”をやらされる石川がそびえ立っていた。

今でも語り継がれる2009年のDDT両国国技館初進出のさいに、入り口でDVDを配る大巨人の姿はその時から私の中でつながっている。エレベータースペースのところだと通常はオールスタンディングのため人垣によってリングが見えないのだが、石川はそこからうつろな目で先輩たちの試合を眺めていた。

自分が何をやりたいのか、そして将来どうなっていくのか。その頃の石川には、物理的な距離よりもリングの輝きが遠く感じたはずである。そんな中、飯伏幸太が入門してともにフーテン・プロモーションの「BATIBATI」へ呼ばれるようになり、ようやく自分の目指す方向性がつかめた。デカいだけでなく、その上で動けるというイメージは前述の3人に加え、FMWなどで暴れていたザ・グラジエーターにインスパイアされた。

大きいながらもコツコツと。ユニオンプロレスに移籍したことで団体に対する思い入れと責任を背負ったのもリングに立つ上での意識改革へとつながった。すでに大巨人としての個は確立されつつあったから、デビュー戦で口にした鶴田さんの名を出す者も次第にいなくなった。

ユニオン在籍時は、自分より団体のことを先に考えた。大日本プロレスのデスマッチに参画したのも「ユニオンの名を売りたかったから」というシンプルな理由。雀卓を囲めるような広くて大きな背中に無数の傷を負ってホームリングへ戻ってくるたびに、ナオミ・スーザン代表はグッとくる思いをこらえていた。

ユニオンが解散し、石川はフリーの道を選択する。仲間たちや他者のためではなく、そこからは自分のためにプロレスをやろうと思った。その後の活躍ぶりは説明するまでもないだろう。昨年夏、DDT両国大会で竹下幸之介のKO-D無差別級王座へ挑戦するにあたりインタビューした時、その好調ぶりがどこから来るのか聞いたところ想定していなかった話を切り出された。

「去年、母親ががんになって入院したんです。それでお見舞いにいった時『あと何年プロレスをやるつもりなの?』って聞かれて。考えてないって答えたら『あと3年やるのは許すよ』って。そう言われると、3年経ったら43歳じゃないですか。それを考えたら、できることはやっておこうとなって。3年後にやめることを決めたわけではないですよ。でも、それによって意識が変わったのはあります。ユニオンが解散してフリーになろうと思った時点では、こんなに実績を上げられるとは思っていなかった。運もあるし人間関係によっても左右するだろうし。自信がなかったわけではないですけど、その時点ではそういう活躍できる機会が巡ってくるかもわからなかったわけですから。でも、どこで機運が来るかなんてわからないのであれば、自分の意識だけはちゃんと持っておこうって」

母の境遇と言葉によって残された時間を意識した石川は、両国で竹下から無差別級王座を奪取。ベルトを保持している時に、堂々と「俺がプロレス界で一番デカくて強い」と言い切った。自画自賛が性に合わないと一切口にしてこなかった男が、である。

一番ということはIWGPヘビー級王者、三冠ヘビー級王者、GHCヘビー級王者、あるいはBJW認定世界ストロングヘビー級の各王者と比較しても自分の方が強いと思っているのかと聞くと、石川は無言で頷いた。その言葉には「最強と口にすることで退路を断つ、自分に暗示をかける」意図も含まれていたのだが、あの時点ではいわゆる老舗団体のフラッグタイトルを獲得した実績がなかったので、中には「何を言っているんだ? インディーのレスラーがメジャータイトルを獲れるはずがないだろ」と、嘲笑した者もいたと思われる。

今回、チャンピオン・カーニバルを制覇したことで三冠ヘビー級王座挑戦への道が拓けたわけだが、じつはこの時点で石川の意識の中にはちゃんとあり、いつその日が来てもいいように心と体の態勢を整えていたのである。

チャンピオン・カーニバル優勝後、ニコニコプロレスチャンネルへ出演したさいにこちらから改めてジャンボ鶴田さんの名を出させてもらった。あこがれの人が現役時代に抱いた巨大な優勝トロフィーだけでなく、初代王者として名前を刻むタイトルに挑戦することを振ると「あっ! 今、気づきました。鶴田さんが三冠を持っていたという意識が強かったんで…そうですよね、初代なんですよね。ヤバ、緊張してきた」と汗をにじませた。

加えて5月21日は鶴田さんのご命日から8日後であり、この日は第2試合で大森隆男&井上雅央vsザ・グレート・カブキ&渕正信によるメモリアルマッチがおこなわれ、和田京平さんが裁いた。試合後には生前の功績を称えて10カウントゴングが鳴らされ『J』が流れ「オーッ!」の大合唱となった。

 


▲ジャンボ鶴田さんのメモリアルマッチをおこなった4選手と京平さん。鶴田さんの遺影とともに「ツールッタッ、オー!」

プロレスは過去や過程を物語とし、闘う上で武器にもできる表現ジャンルである。そして、その要素が幾重にも引き寄せられた時にこそ見る者の心を揺さぶり、とてつもないエネルギーとなって会場を包み込む。約14年前、記者に振られるがまま飾ることなく真正直に答えた名前がこのような形で“生きて”くるとは…あの場にいた一人として、感慨を超越したこの思いをどんな言語で表せばいいのだろう。

石川にプロとして必要なあざとさがあったら、求められるがままに「馬場さん」と言っていたかもしれない。でもそこで鶴田さんの名前を出した。生前の馬場さんだったら、後者のような人間に微笑んだはずだ。

そして…やはり三冠は鶴田さんの時代のイメージと直結する。それを四天王プロレスが昇華させた。石川は、馬場さんの存在に頼ることなく実力で鶴田さんの名前と結びつくステージへと立ったのだ。

全日本所属ではないにもかかわらず、石川に対する期待が後楽園ホール内には充満していた。それは、カーニバル開幕戦に匹敵する入りとなったことからも明らかであり、外敵に対する拒絶感はその空間に微塵もなかった。

 


▲東西のバルコニーこそ開放したなったものの1315人(満員)の観衆で膨れあがった後楽園ホール


これはセミファイナルで世界タッグ王座を奪取した真霜拳號にも言えるが、昨日今日このリングに上がったのではなく地道に団体を応援するファンの支持をファイト内容で高めてきたからこそ、これほど受け入れられた。関本大介も崔領二も、他団体の選手であってもフリーであっても、全日本を活性化させるだけのことを見せてきた男たちすべてが“全”日本なのだ。

 


▲前日の横浜大会で橋本大地&神谷英慶を相手に世界タッグ王座を防衛したビッグガンズに対し「明日、対戦する俺たちとベルトを懸けてやろう」と挑戦を迫ったKAI。これに対しパートナーの真霜は「勝手に決めんな!」とオカンムリとなったため、両者の呼吸はなかなか合わず誤爆も続いたが、ボディガーがザ・バウンスを狙ったところでKAIがスーパーキックを放ち、体勢が崩れたところで真霜が丸め込み逆転勝利! 勝ったのは真霜なのに、KAIも自分で獲ったかのように喜ぶ




▲一応、揃って勝ち名乗りをあげたものの、KAIの握手に応じると見せかけて真霜はスルー。それにしてもK-DOJO所属の選手が王道・全日本のタッグ最高峰のベルトを手にする日が来るとは…この日は、石川とともにインディードリームを見せてくれた


そこは立場が違うだけで、この1年ほどで積み重ねてきたものの価値は宮原健斗も石川修司も大差がない。中盤あたりから、石川を呼ぶ声が「イシカワ」ではなく「シュウジ」へと変わり、終盤には「シュージ!」とコールになった。下の名前で呼ぶあたり、DDTやユニオン、大日本などで応援し続けてきたファンも多く詰めかけたと思われるが、それ以上に“全日本の石川修司”を見てきた全日本のファンこそが、そう叫びたくなったのではないか。

 


▲石川の入場時には、ユニオンプロレスのロゴタオルを掲げるファンもいた

自分よりも大きな相手の打撃を受けまくり、投げられまくながらも宮原は立ち上がり続けた。関本や岡林裕二のように肉厚でどんな衝撃にも耐え得るボディーを持っているわけではないのに、大巨人を相手に好勝負ではなくド迫力勝負を展開しているのだ。

二十代にして1年3ヵ月間もこのベルトを守り続けてきた「最高」のチャンピオン。カーニバルのシングル連戦でも宮原は、行く先々でその日で一番「最高」な試合を生み出してはフラつく足でマイクを持ち「サイコーですか!?」と地方の観客と一体となるだけでなく、一秒でも早く控室へ戻りひっくり返りたいはずなのにリングサイド四方をゆっくりと歩いて押し寄せるファンとスキンシップを図っていた。

そんな日常を見ていたから、じつはこのメインで最初に涙腺が緩んだのは王者が入場した時の大「ケント!」コールだった。ここまで来るのに、どれほどのことをこの男はしてきたのだろう。

 

▲1年以上かけて熟成され、宮原の入場シーンは“商品”となった。一本化された三冠のベルトを誰よりも着こなした王者と言っていい


▲石川がコールされた瞬間、無数の紙テープが投げ込まれた



▲場外出鉄サクに振るシーンひとつをとってもダイナミック。前半の場外戦で石川がイニシアチブを握る


だが、そんな三冠王者に対する支持をもこの日のチャレンジャーに向けられた期待感は上回っていた。終盤に押し寄せた「これは来るぞ…」という迫りくる空気。来るとはもちろん、石川が勝つ瞬間である。

 

▲大巨人の顔面へブラックアウトを的確にヒットさせる王者。これを何発食らっても気を失わなかった石川も凄い


▲1発目のスプラッシュマウンテン狙いをウラカンラナで切り返した宮原。対策はしっかりと練ってきた

 

▲大巨人の体に、持ち上げていったん止めてからのジャーマン・スープレックス・ホールドを完ぺきに決めた宮原


▲相手を飲み込むようなジャイアント・ニーリフト。どんなに劣勢となってもこれがヒットすれば形勢をひっくり返せるのが石川の強み


スプラッシュマウンテンをカウント2で返され、ブラックアウトを2連発で食らったもののファイアーマンズキャリーの体勢で片腕を取ってから落とすファイアーサンダー(これが戦前に予告していた「宮原殺し」だという)で動きを止めると、ジャイアントスラムで後方へ叩きつけて3カウント奪取。

 

▲完全無欠のスプラッシュマウンテンをカウント2でクリアするや、場内には地鳴りが発生!

 

▲対宮原用に考案した「宮原殺し」とは、フェイントをかけてのファイアーサンダー。ここから一気にジャイアントトスラムへ

 

▲この技はフリー転身後に開発したもの。1年3ヵ月間ベルトを守り続けてきた宮原をついに王座から引きずり落とした


京平さんがちょっとだけ背伸びするようにして石川の手をあげ、鶴田さんが持っていた時は3本だったのが一本化された三冠のベルトを、その大きな胴に巻いてやった。もはや「シュージ!」コールが鳴りやまない。

 


▲少年ファン時代にテレビで見た鶴田さんの試合を裁いていた京平さんに手をあげられたのも、深い感慨があったはず

「ジャンボ鶴田さんにあこがれてプロレスを好きになって、鶴田さんが統一した三冠ヘビー級を巻くことができて本当に嬉しいです! 最高のチャンピオン・宮原さんから奪ったベルト…鶴田さんから始まった歴史も含めてすごく重いです。応援してほしいとは言いません。でも、このベルトを懸けて、魂を懸けて闘っていきたいと思います。僕も鶴田さんみたいになりたいと思って、やっとここまできました。皆さんもデカい夢を持って、毎日みんなで頑張りましょう!」

 


▲若干、声が震えるところもあったがしっかりとした口調で涙を流すことなく言葉を伝えた第56代三冠ヘビー級王者

あの日、スーパー宇宙パワーの前で大泣きした青年は、生涯で最高の晴れ舞台に立っていても泣かなかった。なぜなら、強くなったから。弱くて、自信が持てなくて、それなのに鶴田さんの名前などよく出せたものだと自分に腹が立ちまた泣いた石川修司は、そこにいなかった。

 


▲最後は「3、2、1、俺たちはデカい!!」で締め。利き腕を上げるその姿が「オーッ!」に見えた


14年かけて、泣きじゃくる石川を眺めていた先輩の言葉が現実のものとなった。三冠ヘビー級のベルトを巻いた新弟子の大きな姿を見たら、あの日のように微笑んでくれるだろうか――。

 

▲数々の実績をあげてきた石川だが、特筆すべきは王道の象徴である三冠ヘビー級と、真逆とも言えるデスマッチの最高峰・BJW認定デスマッチヘビー級の両方を巻いた史上初の男になったことではないだろうか(三冠統一前にアブドーラ・ザ・ブッチャーがPWFヘビー級と、UNヘビー級を別時期に奪取しその後、第4代デスマッチヘビー級王者になっている)

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BGM:WATER MELON GROUP『Fly Me To The Moon』

 

『ベスト・オブ・ザ・スーパージュニア24』が17日、後楽園ホールにて開幕。A、B両ブロックの4公式戦計8試合が第1試合からメインまでおこなわれるラインナップ(スーパーJカップ1回戦と同じ)だったがオカダ・カズチカ、内藤哲也、棚橋弘至(18日に「右上腕二頭筋腱遠位断裂」による欠場が発表される。6・9後楽園で復帰予定)、ケニー・オメガをはじめとするヘビー級の主力勢が一人も出場しないにもかかわらず完売札止めとなるあたりにG1クライマックス、イッテンヨン東京ドームと並び新日本プロレスが誇るブランド品としての信用度がうかがえる。

 

 

これも24年という積み重ねがあるからこそ。最高の顔触れを揃え、最高の内容が期待される中でもやはり歴史を抜きにしては語れまい。期待感が膨らみまくる中でのオープニングマッチに、第1回大会(1994年)へ出場し、対戦している獣神サンダー・ライガーとTAKAみちのくが登場するあたり、若い世代だけでなく当時をリアルタイムで見ているファンにも響くプロレスでスタートさせようという意図がうかがえた。

 


 

第1試合のゴングが鳴らされただけで1729人の観衆による地鳴りのような歓声が沸き起こる。その中でオーソドックスな落ち着いたレスリングを見せる両者。

 

 

今年の初飛びはライガー。エプロンを走り、場外のTAKAにコンヒーロを見せた。今回が最後のスーパージュニア出場と宣言しているが当然のごとく動きはよく、衰えた感など微塵もない。

 

 

終盤はサブミッションでギブアップを迫り、耐える側の必死な姿に第1試合から盛り上がる。中でもTAKAのジャスト・フェースロックを1分近く耐え抜きロープへ脱したライガーへ拍手。

 

 

最後は空中胴絞め落とし、ライガーボムで追い込まれながらもTAKAがディフェンスされ続けたサミングをようやく決め、次の瞬間にはヘビーキラー1号で固めて逆転勝利。試合後、勝者は深々と一礼し先にリングを降りた。残ったライガーには万雷の拍手。

 

 

第2試合は一進一退の攻防の末、ボラドールJrがコーナーへ登ったタイガーマスクの動きをジャンピング・ハイキックで止め、スパニッシュフライにつないで勝利。ボラドールはヒザから先の脚が長く見えるので、飛び技を出すと独特の絵面になる。

 

 

第3試合はまったくカラーもファイトスタイルも違うタイチとリコシェ。例によってあべみほ嬢による色仕掛けがそこかしこと見られる。リコシェがそれに惑わされることはなかったが、トペ・スイシーダを食らったあと強引にリング内へ入れられたタイチが再び自分からリング下へ出て、あべみほ嬢を強引にリング内へ投げ入れ、リコシェが気を取られるスキにグルリと回って背後から近づき、マイクスタンドで首を絞めるという姑息な手段にはハメられてしまった。

 

 

それでも躍動感あふれるスワンダイブ式エルボーアタックで反撃し、最後もベナドリラー式ローリングハイキックからファーストクラスフライト(シューティングスター・プレス)につないで完勝。3年ぶり2度目の優勝に向けて好スタート。

 

 

第4試合は初出場とACH(本名Albert C. Hardie Jrの略)が登場。昨年はプロレスリングNOAHのリングで石森太二とのコンビで活躍し『スーパージュニアタッグトーナメント』に2人で出場して新日本ファンの間でも人気が高まったため、登場しただけで大きな歓声を浴びるほどに浸透していた。

 

開始のゴング前、BUSHIに握手を求められたACHは差し出された右手の裏を除き込むほどの慎重ぶり(そこを見たからといって罠なのかどうかは書かかれていないが)。綿密なる調査の結果、信用できると判断して握り返したが、案のじょう直後にドロップキックが飛んできた。

 

 

カウンターのマンハッタンドロップを決めてドヤ顔のACH。そんなにやり返したのが嬉しかったのか。さらには入場時にもやったコブシを突きあげるポーズを、技が決まるごとに見せると場内が一体化。

 

 

BUSHIのMXを下からのドロップキックで撃墜し、テキサススマッシュ(ラリアット)からのミッドナイトドライバー(みちのくドライバーⅡ)でACHの勝利。BUSHIはROHとの北米ツアー帰りのため、時差ボケが敗因と語っていた。次の公式戦まで回復するのだろうか。

 

 

休憩明けの第5試合はKUSHIDAvsエル・デスペラード。5・14フィラデルフィアでマーティ・スカルから奪取したROH TV王座のベルトを巻いて登場したKUSHIDAだったが、デスペラードが急襲をかけたため、ベルト姿お披露はちょっぴりの時間で終わってしまう。

 

 

この試合、デスペラードの開脚ムーブが唸りをあげた。バズソーキックもかわし、ホバーボードロックは巻き込まれたレフェリーが不在となりタップするも命拾いしたあと、美しいリバース・タイガードライバーで動きを止め、ギターラ・デ・アンヘルで3カウント奪取。開脚した時の体勢がまさにデスペラードの“ペ”の字を描く。

 

 

この日の大会は外国人ファンの顔が多く客席で見られた。南側最後部席に陣取った5人の海外プヲタの皆さんのお目当ては、このマーティ・スカル。「俺っちたちのスカルがニュージャパンのジュニアフェスティバルに上がったぜ!」と言わんばかりのワッショイぶりで喜んでいた。

 

スカルは鴉マスクをつけて登場。持ち込んだ傘を広げると、どうだ!と言わんばかりにデカデカとバレットクラブのロゴが入っている。5・12ニューヨークでバレットクラブ入りをアピールした時に用意したもの。キャッチフレーズの“Villain・ヴィラン”とは悪役の意。ちなみにこの方、昨年8月に数秒間だけアイアンマンヘビーメタル級のベルトも奪取している(第1142代王者)。

 

 

序盤は両手をヒラヒラするポーズを見せ合い場内を温めたスカルとウィル・オスプレイ。スカルはとにかく伝わりやすい表情が持ち味。これだけで日本のファンのハートをワシづかみにしてしまった。

 

 

ティヘラで振り回されず着地してしまうのは、もはやこうした高度な空間においてはデフォルトになっている。初対戦でもないのに、オスプレイの動きに初めて見たかのような驚きの表情を浮かべるスカル。

 

 

オスプレイのシューティングスター・プレスを剣山でカットしたあと、またしても得意げに両手をヒラヒラさせるスカル。この時点で、入場テーマ曲の合いの手で「Foo!Foo!」と合唱するのが定着しており、スカルが何をやっても場内に「Foo!Foo!」が響き渡る状況に。ちなみにリック・フレアーの「Woo!」より語尾上げです。

 

 

2・11大阪で柴田勝頼とブリティッシュヘビー級王座を懸けて闘ったオスプレイがこの技を。

 

 

これはありそうでなかった。ボディースラムでロープへ投げつける行為。

 

 

2連覇を目指すオスプレイは相変わらずの無重力プロレスを次々と披露。サスケスペシャルも絶品。

 

 

レインメーカーポーズからバックに回ったオスプレイのクラッチを外したスカルは、指をつかむ。オスプレイの「やめてよして!」という許しを無視し、引き裂くように力をこめると「パキッ!」という乾いた音が場内へ響き渡り、オスプレイは指を押さえて狼狽。試合後も左の中指は曲がったままだった。

 

 

それでもオスカッターで逆転勝利を狙ったオスプレイだったが、なんとスカルはこれを空中でキャッチ。そのままクロスフェース・チキンウイング(胴絞めチキンウイング・フェースロック)に持ち込みギブアップ勝ち。日本初戦で昨年覇者から勝利を奪うという満点デビューを果たした。

 

 

試合内容も見せ方もじつに個性的だったスカル。だが、これで全貌を披露したとは到底思えず、まだまだ“いいモノ”を隠し持っているように思える。残りの公式戦、誰と当たっても楽しみになってきた。

 

セミファイナルは田口隆祐vs金丸義信。立ち上がり、何度もグータッチを求める姿はまさに猫のような動きのプロレス。でも金丸は応じず。

 

 

この試合、金丸が徹底した田口ワールド封殺に出る。ヒップアタックも長嶋茂雄の4打席4三振ばりの豪快すぎる空振りっぷり。さらには「オヤァイ!」ポーズの途中で突進した金丸がドロップキックでカット。おかげで「オヤァ」までしかできない田口監督だった。

 

 

そんな田口監督、オーマイ&アンクルホールドで勝機をつかんだものの、鈴木軍のセコンド・TAKAがレフェリーの目を引きつける間に金丸が急所蹴りで脱出。ところが股間を押さえ悶絶して倒れた田口の右足がたまたま金丸の急所へ「コカーン!」と入ってしまったからタマらない。内股状態となった金丸をポーンと蹴飛ばすと、その勢いでエプロンに立つTAKAと激突。反動で返ってきたところをインサイドクレイドルで丸め込むという、絵に描いたようなエディ・ゲレロ殺法で田口が勝利をせしめたってぇの。

 

 

勝った直後の監督は痛めた股間にコールドスプレーを噴きかけられ、この表情。スクリーンへ大映しになると、場内がやたらしあわせなムードに包まれた。

 

 

そして股間を押さえながら勝ち名乗り。田口監督、試合後の談話は「(股間に入ったのは)たまたまです。今日の勝利はたまたま。目の前にボールがあったのでシュートを決めただけ。金丸選手は魅力的な選手。タグチジャパンにほしいです」

 

 

セミまではどれもカラーの違う試合となり、まったく間延びするところがなかった。グルーヴ感が充満する中、いよいよメインへ。高橋ヒロムとドラゴン・リーは2・11大阪のIWGPジュニアヘビー級戦に匹敵するダイナミックでスリリングな攻防を展開。言葉による表現を上回る場面が次から次へと現出する。中盤、ジャーマンで投げっ放されながらすぐに立ち上がりジャーマンで投げ返すラリーが、3往復見られる。

 

 

コーナーからダイブしてのカナディアンデストロイ。TIME BOMBを丸め込みで切り返そうとするリーを強引にぶっこ抜いてジャーマン・スープレックスに持っていく力技も見せた高橋。

 

 

最後は高橋の得意技であるターンバックル・デスバレーボムをリーが放ち、そこからドラゴンドライバー(フェニックス・プレックス・ホールド)で3カウント。日本マットでこの技を使う飯伏幸太以外の男がここにいた。

 

 

勝ち名乗りをあげたリーは、日本凱旋後シングル初黒星を喫した高橋を踏みつけ、その上を通過。最後もスペイン語でアピールし開幕戦を締めた。

 

 

これほどの内容を提供しながら21時少しすぎにはキッチリと興行が終了する進行も含め、完成度の高いスタートとなった今年のスーパージュニア。ここにアップした画像を見て想像が膨らんだら、ぜひ会場へ足を運んで生体感していただきたい。

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BGM:新生FMWテーマ曲『TEAM F.M.W』

 

本日5月16日は荒井昌一・元FMW社長の十六回目のご命日です。2002年のあの日から15年が経ちました。
 

今年もFMWにゆかりあるみんなのことを報告するべく、お墓に参りました。まずは何よりも3月に熊本で開催されたハヤブサ選手の一周忌興行について。ミスター雁之助選手をはじめとする仲間たちが江崎英治さんのために走り回って実現させ、あの頃のFMWの風景が蘇ったことを伝えるべく週刊プロレス誌に掲載されたグラビアをお供えしました。

 



そこから、今もプロレス界でFMWの三文字を胸に頑張っている者たちの近況を話します。雁之助選手のケガが早く治るようにお願いし、またFMWと直接的な関係はなくとも荒井さんが愛したプロレス界の戦友たち…本間朋晃選手、柴田勝頼選手、高山善廣選手をはじめ、ケガや病魔と闘いを続けている皆さんに力を与えてくださるよう、頼みました。

毎年そうなのですが、荒井さんを偲ぶというよりもプロレスに関する願い事ばかりを押しつけているような気がします。普通なら「来るたびに頼んでばかりじゃないか」と叱られるのでしょうが、荒井さんは笑顔で「私ができることであればいいですよ!」と言ってくれている…勝手にそう受け取っています。



▲写真は昨年のお墓参りでお供えしたもの。ハヤブサ選手が亡くなられた2ヵ月後だったため、当時のものを荒井さんへお渡しした。1997年、工藤めぐみさんの現役引退と山田敏広リングアナウンサーの退社の慰労会で、普段は落ち着いて全体を見守っていた荒井さんも、ハヤブサ選手のリクエストでカラオケを披露した

 

この日はご命日ということで何人もの方が訪れたのでしょう。供えられたばかりと思われる花が花立だけでは収まらず、水入れ2つ分もいっぱいになって置かれていました。私はこの地を訪れると荒井さんともう一人の方に花を添え、手を合わせます。

2009年9月、週刊プロレス編集部を離れる数日前に荒井さんのお墓の場所を知らせていただいた方がいらっしゃいました。これは当時の『週プロ野郎』で書いたのですが、じつは荒井さんが亡くなられてからその年まで、私は最後の地である水元の近くにある八潮市のお寺にいっていました。

 



でもそこは荒井さんのご先祖さんのお墓であり、現在のお墓ができた時点で移ったのですがそれを知らずに八潮へいっていたことになります。その記事を読んだ方から「私の弟のお墓がある場所へFMWのロゴマークが刻まれた立派なお墓があるんです。そちらが荒井さんのお墓だと思われます」と知らせていただいたのです。

 



退社して数日後、その方と落ち合い一緒に荒井さんと弟さんへ会いにいきました。その方も弟さんも以前からプロレスが好きで、FMWでリング撤収の手伝いをして荒井さんからていねいにお礼を言っていただいたという思い出話も聞かせていただきました。

もしも連絡していただいたのが数日遅れたら私はすでに編集部へいなかった。荒井さんがその方の弟さんを通じて本当のお墓の場所を伝えてくれたのだとしか思えなかったのです。

そんな恩人である弟さんは、今も荒井さんと同じ場所で眠っておられます。毎年感謝を伝えるとともに、荒井さんの話し相手になっていただくようお願いしているのです。

お二人が眠る場所は隣が竹やぶになっていて、本当に静かで心の休まるところです。お墓の前を離れるさいに、最後のおねだりをしました。「荒井さん、SHELLさんに翼をください」

 

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BGM:アントニオ猪木テーマ曲『炎のファイター』

 

 

「ハヤブサ一周忌追悼興行」の翌日1日、午前中から生前に江崎英治さんが兄のように慕った人物と八代市日奈久のご実家へと向かいました。もちろん、ハヤブサ選手の御仏前に手を合わせるためです。母・江崎千恵子さんと弟・貴範さんに手厚く迎えられ、お話をしました。その内容は広くプロレスファンにも伝えたいものでしたので、場を改めてお知らせしようと思います。

 

その後、熊本市内に戻りホテルキャッスルへ。前夜、一周忌追悼興行の会場でビアホールMANのスタッフさんから「明日、マスターの50周年を祝うパーティーをおこなうんです。もしお時間がありましたら、いらっしゃっていただけませんか?」とお誘いを受けていました。

 

ビアホールMANとは熊本のプロレスファンなら誰もが知っている社交場で、マスターの村田善則さんはハヤブサ&ミスター雁之助が熊本商科大学のプロレス研究会時代から面倒を見ていた方です。83歳となった今もご健在で、会場で再会するやとても高齢とは思えぬ俊敏な動きのシャドーボクシングを披露し、驚かされました。

 

▲ハヤブサ一周忌追悼興行を終えたあとも、もちろん店に立った村田先生。お祝いのケーキと花束を贈られた

 

若い頃からボディビルで体を鍛え、その縁あってアントニオ猪木さんとも知り合いとなり、昭和の新日本プロレスが熊本巡業へ来ると選手たちが店に顔を出していました。猪木さんに惚れたマスターはそのブロンズ像を作るようになり、当時の専門誌に広告が掲載されてファンの間でも知られるようになったのです。

 

▲昭和のプロレス男子ならば誰もがほしがった猪木ブロンズ像。「見るだけで勇気が湧いてくる!」という当時のキャッチコピーは秀逸だった(ビアホールMAN HP「MAN SPORTS BRONZE」より)

 

1992年2月、FMWでデビューした江崎英治&本田雅史(その時点でリングネームはミスター雁之助)が初めて熊本へ凱旋したさいマスターを紹介されたのですが、まさかそのお方があの猪木ブロンズ像の作者だとは…もっと職人気質のカタい人だとばかり思っていたら、初対面でいきなり「おー、二枚目!」ですよ。

 

「二枚目」というのはビアホールMANにおける挨拶代わりのようなもので、二枚目だというだけで「5割引き!」となるザル会計。ただし、マスターが進めたビールが飲めないと「なんだと? じゃあ5割増し!」となります。ノリだけで言っているのかと思いきや、よく見ると奥様(夫婦同い年。週プロの中嶋聖カメラマン似)はそのたびに伝票へ書いており、一応本当に計算をしているようでした。

 

▲パーティーで飾られた50周年を記念した奥様との似顔絵。ハヤブサ&雁之助にとってはもう一組の父と母だ

 

一度5割引きしたものを5割増ししたからといって計算上は10に戻らないので(1000円だったら750円)、これがどんどん進むとややこしくなります。最終的には正規の値段からどう変わっていようが、それを細かく言うお客さんもいません。

 

▲ビアホールMAN名物の馬力焼。馬肉とネギを炒めたシンプルなものだが、ここでしか食べられない絶品。ハヤブサも雁之助もこれを食べてプロレスラーになったのだ

 

そんなことより、そういったマスターとのやりとりを楽しみに来ているのですから。とにもかくにもブロンズ像作者ということで初めて出逢って以来、マスターを「先生」と呼ばせていただいてきました。

 

週プロ在籍時は熊本へいくと必ずMANに足を運んでいました。最後にお会いしたのは2006年6月、ハヤブサ選手が地元でライヴをおこなうというので仕事ではなくプライベートで訪れたのが最後だったと記憶しています。

 

なので今回は約10年半ぶりの再会となったわけですが、本当に形状記憶人間ではないかと思うほど風貌もノリも変わっていなくて安心しました。ところで50周年というのはなんのことなのか。スタッフさんに聞いたところ、こんな答えが返ってきました。

 

「じつはマスターによると、お店をスタートさせたのがいつ頃だったのかハッキリしないそうなんです。もしかするとまだ50年経っていないかもしれないし、もう50年を過ぎているのかもしれない。でも、それに関係なく今回はマスターにお世話になった人、マスターが好きな人たちが感謝の気持ちとしてお祝いをしたいという思いで開催しようと。だから50年というのはアバウトです」

 

以前は夫婦2人で店を切り盛りしていた先生ですが、この数年は奥様も次第に立ち仕事がキツくなってきたため、MANを愛する若者たちがスタッフとして働くようになりました。加えて常連客、世話になったプロレスラーや関係者などが秘密裏にプランを練り、当日まで先生には内緒で試合を見せて喜ばせたいとなりました。

 

▲試合のために入場してきた雁之助は、リングインする前に村田先生のもとへいきハグを交わす。先生も「雁之助、頑張れよー!」とばかりにゲキを飛ばした

 

会場に入るや、目の前にリングがデン!と組まれていたため先生は驚きました。猪木さんからはビデオメッセージが届き、さらにはサプライズゲストとして藤原喜明組長も熊本へと駆けつけたのです。

 

各団体やプロレスラーからの花も多数届き、丸テーブルには「馬力焼」「ちくわ」というようにMANのメニューの名前がつけられる趣向。何もかもに先生へ対する真心がこめられていました。

 

▲熊本出身・堀口元気H.A.Gee.Mee!!からも花が届いていた

 

▲広いパーティー会場がいっぱいになるほどの人数が村田先生をお祝いするべく出席。手前の席は「フランクフルト」でその向こうは「怪力焼」と、MANのメニューがつけられている

 

私が日奈久から会場へ滑り込んだ時点でパーティーは佳境へ入っており、雁之助vs宮本裕向のシングルマッチがおこなわれようとしているところでした。すでに試合を終えた選手たちもリング下で観戦。先生は、奥様と組長にはさまれながらテーブルから選手を見守っていました。

 

▲左の後ろ姿が藤原組長

 

▲観戦しているところを押さえるべく声をかけたところ「おー、二枚目! 来とってくれたんか―。ありがとう、ありがとう!」と話が始まってしまったため「せ、先生、試合中ですので…」

 

試合は蒼魔刀、ファイアーサンダーを繰り出した宮本がムーンサルト・プレスで前夜の6人タッグマッチで敗れた雪辱を果たしました。その後、出場選手がリングに上がり、先生を囲みます。だいぶ時間が押していたようなのですが一人ひとりと握手を交わし、言葉を投げかけるためなかなか段取り通りに進まず、司会の方の泣きが何度も入ります。

 

▲この蒼魔刀がマトモに雁之助の顔面を直撃。それでもピンフォールを許さないのだからプロレスラーはすごい

 

▲前夜のハヤブサ一周忌興行メインの6人タッグマッチでははやぶちゃ→雁之助の連係に沈んだ宮本だったが、シングルではキッチリと師匠に雪辱

 

▲熱戦を繰り広げた2人にスタンディングオベーションで拍手を送る村田先生

 

じつはこの時、雁之助は蒼魔刀を受けて顔面を痛めていました。あとになって病院で精密検査を受けた結果、顔面多発骨折で全治3ヵ月と診断される重傷…上顎と鼻骨と眼窩底が10箇所骨折していたそうです。

 

▲リング内へ呼び込まれた村田先生はまず何より先に、顔面へ痛みが走り立ち上がれない雁之助へ手を差し伸べた

 

それでも最後まで闘い続け、試合が終わっても先生に対し感謝の意を述べて記念撮影にまで収まったのです。欠場により決まっていたカードが流れるのは残念ですが、追悼興行の翌日には先生のために試合をするというスケジュールで激走する盟友に対し、ハヤブサ選手が「おっさん、そう急ぐなよ。ちょっとは休め」と言ってくれていたような気がします。

 

▲あの鬼神道も先生の前では深々と頭を下げる。長崎から熊本の大学にやってきた本田青年にとっては、本当に親代わりのような方だった

 

多くのかわいい選手たちに囲まれ、記念撮影に収まったあと猪木さんよろしく「1、2、3、ダーッ!」と力強くコブシを天に向かって突き上げた先生。『炎のファイター』と万雷の拍手の中、花道を去るさいにはそっとハンカチで目を拭っていましたが、扉を出たあとは例によって控室に戻らず立ち止まり、出席者の方々をつかまえては「ありがとー、ありがとー!」と喋り続けて止まりません。

 

▲83歳のダーッ!は猪木さんよりも高齢。このコブシを突き上げるポーズひとつをとっても、しゃんとしているのがわかるだろう

 

その横をすり抜けるようにして、私は東京へ戻るべく熊本駅へと向かいました。初めてお会いして26年後に、このような形で先生への感謝を伝え、皆さんにお祝いされる場へ立ち会うことができるとは想像していませんでした。これもハヤブサ選手や雁ちゃん、そしてMANスタッフの皆様のおかげです。そして先生にはあと100年、誰よりも二枚目でいていただきたく思います。

 

【関連リンク】アントニオ猪木ブロンズ像の製作者による オーダー注文&限定品の直売「MAN SPORTS BRONZE」

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BGM:ハヤブサ『一つだけの場所』

 

本日29日発売の週刊プロレスにて、ハチミツ二郎さんの隔週連載『プロレスばっかり見てたら芸人になっちゃいました』が最終回を迎えました。その中で1年前、ハヤブサ選手の最期を見届けた時のことが明かされています。

 

 

私は、ある方から二郎さんが第一発見者のひとりであることを聞いていました。いつもなら誰かが亡くなったという知らせを受けると、まずは「間違いであってほしい」と思うものですが、その時はストレートにズシンと来てしまいました。

 

なぜならあの日…二郎さんがハヤブサ選手と会う約束をしていた2016年3月3日に、新日本プロレス大田区総合体育館大会で顔を合わせたからです。二郎さんは会場でお会いすると控えめな微笑みとともに一礼をする方で、その日もいつもとなんら変わらぬ呼吸で挨拶を交わしました。

 

ハヤブサ選手のマンションは体育館の最寄駅・梅屋敷駅の近くにあり、その報を聞いた瞬間に「そうか、大会後に会う予定だったのか――」と、会場で見た微笑みが反射的に浮かんできたのです。期せずして第一発見者という身になった二郎さん…生きている中で、こんなにも重いシチュエーションなどあるものでしょうか。

 

このことを二郎さんが公にすることなく来たのは痛いほどわかります。ハヤブサ選手を思うあまり「もっと早く気づいていれば…」と自分を責めてしまうのではないか。1年の間、何度もあの日のことが浮かんだと思われます。

 

でもそこでどんなに泣いても他人には言えない辛さを、二郎さんはずっと一人で抱えてきたのだと思います。そのことを知っている関係者も、本人が言わないかぎりはと胸の中へ閉まってきました。

 

でも…あれから1年が経ちました。週刊プロレス・湯沢直哉編集長からの勧めが背中を押し、二郎さんは重すぎる思いを表に出しました。ハヤブサ選手も、これ以上一人で背負うのは決して望んでいないはずです。

 

私も「二郎さん、やっと話してくれましたね」という思いです。あの日以後も、会場で顔を合わせると同じ様子で接していただきました。たぶんお互いに、ハヤブサ選手の名前がノドまで出かかっていたのでしょうが、どちらも口にしませんでした。

 

おそらく、出したらあの日のことが蘇ってきてしまう。私は二郎さんが言わないと決めたのに誘発するようなことはしたくありませんでした。

 

ご自身の中で決心がつく日を待つ。それが唯一、できることなのだと思いました。この1年で何度となく私はハヤブサ選手について書いたり語ったりする機会を与えていただきました。

 

そのたびに「もっとふさわしい方がいるのに、自分でいいのだろうか」と思います。そのふさわしい方として二郎さんや、選手とマスコミの関係を越えて親身にサポートし続けたカメラマン・大川昇さんの顔が浮かんでくるのです。

 

ハヤブサ選手が定期的にライヴを演っていた『串猿』のマスターさんも、そしてあの日二郎さんとともに会う約束をしていた赤松さんも、同じ葛藤を秘めてこの1年間を過ごしてきたと考えられます。二郎さんが公にしたことで、少しでも重みから解かれたのであれば、それもハヤブサ選手は受け入れてくれるのだと思います。

 

気が動転してもおかしくないはずなのに、警察や救急隊を呼び関係者にも連絡して朝まで現場検証に立ち会い、霊安室までいってハヤブサ選手の最期を見届けた――もしも自分が同じ場に直面していたら、二郎さんたちのようにできたかわかりません。

 

二郎さんたちがいなかったら、ハヤブサ選手はあと何日も独りで寂しがっていたはずです。ご本人は「『二郎くん、俺はもうこのまま眠るからこっちに来ないで』と言われそうな気がして…」と書かれていましたが、信頼すべき友が駆けつけたことで喜んでくれたとしか私には思えないのです。

 

それをハヤブサ選手に確認するべく明日、私は夜行バスで熊本へと向かいます。26年前、博多へ出たあと川越のFMW道場を目指した2人の青年がたどった道筋を体感した上で、一周忌追悼興行へ――二郎さんの心が和らぐような報告をできたらと願っています。

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