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鈴木健.txtブログ――プロレス、音楽、演劇、映画等の表現ジャンルについて伝えたいこと

BGM:串田アキラ『キン肉マン Go Fight!』

 

いつかいきたいと思いつつも、思い切りを要すためなかなかたどり着けない店がありました。それが東新宿駅副都心線口から徒歩3分、明治通り沿いにある「にんにく焼肉プルシン」でごわす。

店名にある通り、ここはにんにくを避けて通れぬ焼き肉店です。焼き物に関しては焼く前からにんにくダレがたっぷりと絡んでおり、そのまま焼いて、つけダレにもにんにくが入っていて、さらには一皿ごとに必ずにんにくが丸のまま添えられているという、にんにくの三段逆スライド方式(©ハトヤ)だよ。

つまり明日、誰とも会う予定がないタイミングを計らなければいけなかったわけです。ラーメンで言うところの二郎系…もっとも「にんにくマシマシ!」とコールすることなく、テーブルにはにんにく塩ダレが置いてあるので、好きなだけ増せます。

それにしても禁断だろ、これは。間違いなくにんにくはどの部位にも合うのだから。いや、禁断を超越して背徳感に満ちた焼き肉です。

写真1枚目が「極ミックス」で和牛のカルビ&ハラミ&ロースの特上厳選三銃士。2枚目がタンの全部位が味わえる「タンミックス」。3枚目の「白ミックス」は小腸、ハチノス、レバー、ハツ、テールなど6種類がにんにくまみれ。4枚目の「和牛切り落とし」も十分うまいのにリーズナブル。

 


にんにくを絡めることで米泥棒から米大泥棒…いや、もはや米ルパンです。食している最中も、店前で立ち止まりながら中に入らず去っていく人たちがけっこういました。おそらく、心情的にはものすごく惹かれつつも、翌日の予定が頭に浮かび泣く泣く諦めたのだと思われます。

とはいえ、そんなにスメルが気になりません。なぜなら、ちゃんとしたにんにくを使っているからです(いいにんにくほど臭わない。これ重要、重要)。その筋では有名な、青森は田子町のにんにくだけに間違いないのだ。なので焼いたにんにくまでホクホクとおいしかった。

 



ちなみに「プルシン」とは“シンプル”を逆さにしたのが由来。メニューからして今どきなネーミングの部位(トモサンカクとかザブトンとか)はなく、すべてをにんにくの味付けで勝負といたってシンプルな方向性。

東新宿以外にも三田、中野、三軒茶屋、そしてもともとの拠点だった沖縄に2店あります。焼き肉はどの店もうまいものですが、いつもと趣向を変えてパンチの効いたシロモノが食いたい場合はこのプルシンをオススメします。

 

すBGM:Survivor『Eye Of The Tiger』

 

昨年の『アントニオ猪木をさがして』、現在公開中の『無理しない ケガしない 明日も仕事! 新根室プロレス物語』に続き4月5日よりプロレスを題材とした作品『アイアンクロー/原題:THE IRON CLAW』が全国ロードショー封切りとなる。12月22日より北米2774館で公開されるや3日間で505万ドル(約7億4200万円)のゲートをはじき出し、初登場で興行ランキング6位に。観客の満足度も96%と高評価された実績を引っさげて“来日”を果たす。

 



熱心なプロレスファンでなくともアイアンクロー(鉄の爪)がフリッツ・フォン・エリック、あるいはその家族を表す技名であるのは知っているだろう。この一家の歴史については、日本人が想像する以上にアメリカ国民の中へ深く刻まれた80年代の出来事なのだと、前述した数字を見るにつけ推測できる。

スポーツエンターテインメントとして、カルチャーとして身近にあるPRO-WRESTLINGは、アメリカの時代性や空気感とともに記憶の中へとアーカイブされる。本作の中で描かれるプロレスという魔物に憑りつかれたエリックファミリーの悲劇は、夢と成功を求める自分たちの人生と遠く離れたところで起こった“ニュース”とは認識されていないはずだ。

本作の監督・脚本を務めたショーン・ダーキンはカナダ出身ながら1980年末から1990年初頭の幼少時代をイギリスで過ごし、そのタイミングでWWF(現WWE)を入り口にプロレスなる沼へハマったという。同じ英語圏でありながらアメリカとは違った文化と環境にありながらどんどん浸かっていき、気がつけば“エリックランド”と称されたテキサスの団体・WCCW(ワールドクラス・チャンピオンシップ・レスリング=のちにWWFのライバルとなるWCWとは別のプロモーション)の虜になっていた。

ビデオを入手するのも困難な時代、ダーキンは数ヵ月遅れで書店に並ぶアメリカの専門誌「プロレスリング・イラストレーテッド」をむさぶるように読んでは写真一枚からパンパンに想像を膨らませていた。ある日、中華料理屋で食事をしながら最初のページを開くと、そこには「ケリー・フォン・エリック死去」とあった。

1981年よりダラスのローカル局がスタートさせたケーブルテレビ放送番組「ワールドクラス・チャンピオンシップ・レスリング」が録画されたビデオテープでテキサスの試合を見ていたダーキンは、ファミリーの大ファンだった。ショックと哀しみは深く、またそれがエリック一家探求の旅のはじまりとなる。子どもの頃に強く深く刻み込まれたアメリカ・テキサスの日常感と匂いは、やがて映像記録メディアやネットの発達によってより具現化され、脳内で育まれていった。

ダラスと7648kmも離れたロンドンに住んでいたダーキンが、あの頃のアメリカを忠実に描いているのは、このような原体験があったから。プロレス名門一家の史実に基づく、ドキュメンタリーに近いドラマというだけでなく、スクリーンに広がる情景によってファン以外もまず物語へ引き込まれるに違いない。

こうした監督自身の経歴を書き連ねると登場するプロレスラーたちの再現度の高さや、ダラスのプロレスのメッカ・スポータトリアム(映画字幕ではスポルタトリアム)が現代に蘇ったかのようなセット、ホンモノと見間違えるようなNWA世界ヘビー級のベルトといったマニアを唸らせるディテールも当然となる。中でもハーリー・レイスとリック・フレアーは“わかっていなければこうはならない”クオリティー。個人的にレイスが映画に登場するならジョン・C・ライリーしかいないと思っていたが、ほかにもハマリ役がいたのは衝撃だった。

だが、ダーキンが伝えようとしたのはそうした自身のマニア気質やプオタとしてのこだわりを満たすためのものではなかったことも、ストーリーを追ううちに伝わるはず。それらの列記したものは、すべてエリックファミリーを描く上で礼を尽くすためのパーツにすぎない。

物語はアイアンクローの元祖・フリッツの息子であり、デビッド、ケリー、マイクの兄であるケビンを主人公として紡がれていく。1959年、ケビンがまだ幼かった時に長男のジャック・アドキッセンJr(ジャック・アドキッセンはフリッツの本名)が雨の日に誤って高圧電流に触れ、6歳で感電死。

そのことから、ケビンは大好きな弟たちのために長男のポジションを全うするのがアイデンティティーとなる。父に顔つきも気性も似ていた一つ下の弟・デビッドと比べると穏やかで堅実な性格、何よりもファミリー全体を考える姿勢が宿命づけられていた。

これまで「呪われた一家」として世界中で何度となくドキュメンタリー化されたが、それらは悲劇的な描かれ方だった。真実とされるものを忠実になぞれば、当然そうなる。

そうした中、ダーキンが映画の手法によるドラマ仕立てでエリック一家を伝えようとしたのは、真実に基づいた物語とすることでそこへ“救い”を描けると思ったからではないか。それが一家の中で唯一人存命するケビンと自身の間合いであり、子どもの頃に多くのポジティブな感情を与えてくれたエリックファミリーへの情愛によるものと思えてならない。

どのような映画にしたいかが固まるまでダーキンはケビンとコンタクトをとらず、自分の中で方向性が決まったタイミングに連絡をしたというから、その点に関しては最初から最後までブレなかったはず。デビッドの来日中の急死、マイクの服毒自殺、ケリーのピストル自殺と、史実に基づくだけにストーリーが進むごと華やかさや栄光(ケリーのNWA世界ヘビー級王座奪取)との対比が凄まじすぎて重く突き刺さる。

事実としては映画に登場しない六男のクリスも自ら命を絶っているが、そこは描かれていない。作品としての尺の問題もあっただろうが、ダーキンの中で心のブレーキが働いた部分もあるだろう。

独り残されたケビン――そこで終わっていたら、これまでのドキュメンタリーとさほど変わらない。ファミリーとしての悲劇を題材としながら、ダーキンが“救い”を託したのは…家族だった。

愛する兄弟を次々と失ったケビンには妻と2人の息子がいた。これも史実的な話だが彼らはやがてロス・フォン・エリック(長男)&マーシャル・フォン・エリック(次男)としてプロレスラーの道を歩み始める。

叔父の悲劇を知っているにもかかわらず同じ道を選択した彼らも、想像を絶する葛藤を超えてきたと思われる。それを頭の片隅に置いて本作を見ていただければ、また受け取り方が違ってくるはずだ。

リアルをそのまま描いていたら、悲劇のままだった。そこにダーキンは映画ならではのリアリティーを持ち込んだ。事実とは違う時系列、記録に残っていないエピソードによる脚色はドキュメンタリーとかけ離れるが、大きな問題ではない。

リアルとリアリティーはよく混同されるが、リアルをより際立たせるのがリアリティーの正しい用い方である。それを誤ると、事実をスポイルしてしまう。

そして、誤ることなく用いれるかどうかのカギは、対象への愛だ。ロンドンの自宅で、本屋でダーキンはエリック一家によってたくさんの夢とLOVEをもらった。

制作に関わったスタッフや出演者たちにもそれが伝わったから、ここまで作品とファミリーに対する愛に満ちた仕上がりとなったのだろう。クルーの面々はスポータトリアム(2003年に解体されたので跡地)だけでなく家族が実際に暮らした農場など、ケビンたちの息遣いが残る地をロケーションしたという。

また、出演者たちも監督からリクエストされるまでもなく肉体改造に励み、元WWEスーパースター、チャボ・ゲレロJrの指導のもと技を受けまくり、バンプをとった。中でもケビン役の俳優、ザック・エフロンは「過酷なトレーニングと食事制限は辛かったけれど、それによってケビンとは何者なのかという深い洞察につながった。彼が自身の運動能力やプロレス、肉体に捧げようとしたものや、完ぺきを求める姿勢が見えてきたんだ」と語る。

役を全うしようとする姿勢によって、その人生の一端を疑似体験し、より自身をケビンへ近づけていった。それが、スクリーンの中で躍動するケビン・フォン・エリックとなって表れたのだ。

自身もザ・シーク役として登場するチャボは、通常の試合とは違い何テイクも撮る必要がある映画ならではのファイトシーンの過酷さを知った。そこまで俳優たちが没入したからこそ、スポータトリアムにおける毎週金曜夜の定期戦の熱狂ぶり(4500人のキャパシティーが常にフルハウス)を再現させるに至った。

プロレスファン的には、WWFによる1984年の全米侵攻開始前のテリトリー時代(それまでは各地のプロモーターが仕切っており、そのカルテルとしてNWA=ナショナル・レスリング・アライアンスがあった)の古き良きアメリカンプロレスの風景に郷愁を刺激されるはず。TVショーならではのプロモ(アナウンサーが差し出すマイクに向かって相手を挑発、罵倒する)、ガランとした冷たいドレッシングルーム、出待ちするグルーピー…ダーキンの頭の中を覗いているような気分になる。

 


プロレスファンは反射的にどのシーンも現実と結びつけた上で物語を追うと思われるが、それ以外の層がこの作品を見て何を感じるか実に興味深い。また、これを機にエリックファミリーというこのジャンルに殉じた家族が存在したことを知ってもらうのも、感慨がある。

私はケリーと父・エリックの死去をアメリカで知った。いずれも週刊プロレス在籍時代、何年に一度あるかどうかの海外取材中にその報を聞いたのだ。1993年2月、フロリダへ“プロレスの神様”と呼ばれたカール・ゴッチさんのもとを訪れたさいに、ケリーの訃報が飛び込んできた。

4年後の1997年9月11日には、ダラスと同じテキサス州のアマリロへいた。テリー・ファンクの地元引退興行前日にフリッツが死去したと大会当日の朝に聞かされたのだがその日の夜、会場内はそうしたものを感じさせない雰囲気で、テキサスらしく「アマリロにプロレスが帰ってきた!」と言わんばかりにショーがスタートする前から熱気に包まれていた。

そうした喧騒が、フリッツの名が告げられるやまたたく間にやんだ。驚きの声がなかったところを見ると、多くのファンはすでに知っていたようだった。たった今までビールをあおっていた男たちが、紙コップを置いて直立し始めた。

十数秒前と同じ場所とは思えぬほど、水を打ったように静まり返る中、追悼のリングベル(ゴング)が打ち鳴らされていく。この黙とうをもって、フリッツの死が現実のものであることを知らされたのだ。

 

テンカウントゴングが終わると、一人の観客がキャンバスへ向けてテキサスの象徴である黄色い薔薇を投げ入れたが、無常にもそれは届くことなくリング下へ落ちていったのを今でも憶えている。

デビッドの代わりにテキサス・スタジアムで3万2123人の大観衆の後押しを受け、一家の悲願だったNWA世界ヘビー級のベルトをケリーが獲得した時も(1984年5月6日)、ダラスは黄色い薔薇で包まれた。セピア色とイエローに染まったあの頃の追憶…ショーン・ダーキン監督にとって『アイアンクロー』は、どんな彩りで紡がれているのだろうか――。

 

【公式サイト】映画『アイアンクロー』

各TOHOシネマズ、kino cinema新宿ほか4月5日(金)より全国にて上映

BGM:James Brown『Sex Machine』

 

代々木駅周辺にはいわゆるチェーン店ではないハンバーガーショップが点在しており、YouTuberの皆様もよく紹介されているようです。自分もサザンテラスにある「Shake Shack」にはよくいくのですが(こちらはチェーン店か)、駅の方まで足を伸ばすことはありませんでした。

そうした中、ひょんなことから見つけて猛烈にいきたくなったのがJR駅前すぐのところにある「JB's-TOKYO」です。デッカい餃子がウリの餃子屋さんの並びで、前を通りすぎることは何度もありながら、利用したことはなかったんです。

オーダーを受けてから焼き始めるパティはビーフ100%で、一枚113gあるとのこと。私はトリプル★トリプル(パティ3枚×チーズ3枚)を注文したので339gと、ステーキ一枚分のヴォリュームでがす。

 



これがつなぎなしで調理されるわけでして、憎々しさならぬ肉々しさでいったらクアアイナやバーガーキングを遥かに超えています。ハンバーガーを食べているというよりも、完全に肉料理を味わっている感覚になります(写真の断面図を見よ)。

 



メニュー上の最大はJB'sマウンテン(プロレスの技名みたい)でパティ4枚(452g)ですが、トリプルでもまったくお腹がもたれなかったのでいけそう。一番安価のスタンダードハンバーガーは390円で「大手チェーンのパティ約2枚分」が味わえます。

一応トマトとピクルスもはさんであったのですが、あまりに肉らしげなため存在感がありませんでした(いい意味で)。なので、野菜も摂っている感にこだわる方には「+ベジタブル」オススメします。あと、はさむパンは丸パンと食パンから選べます。

 



パティはもちろん、バンズやマヨネーズ、ケチャップ、ピクルスとすべての食材が手作りというこだわりで「パンさえ小麦粉から手作りするハンバーガー専門店は国内だけでなく本場アメリカでもほぼ例がありません」だそうです。ポテトも揚げ置きをせず、注文が入ってから一食ごとに揚げるんだって。ここまで徹底していてもそんなに待たされなかったです。手際がいいんだろうね。



セットで頼んだ自家製コーンスープ(ラスクつき)もコーンがどっさりでおいしかったー。JB'sというだけあって、店内の壁にはジェイムス・ブラウン御大の絵が描いてありました。窓からは代々木駅前の交差点が望めます。

BGM:Luis Miguel『Separados』

 

11月23日(木=祝)神奈川・鶴見青果市場にておこなわれる「東京女子プロレスで感動させてよ!'23」について、大会前に伝えなければならないことを書きます。通常興行とは異なり「有志の皆さんが主催者となって、東京女子プロレスを10年前の旗揚げから応援してくれた方に贈る、当時の雰囲気を織り交ぜたメモリアル特別興行として開催されます」とのリリースが、団体サイドからありました。

 



本大会が開催されるにあたり、一人の人物について知っていただきたく思います。名前は巴明日香(ともえあすか)さん。東京女子が小さなライブハウスでマットプロレスをやっていた頃から熱心に足を運び続けていたファンであり、私の友人でもあります。なので、ここからはいつも呼んでいた「あすかくん」で進めさせていただきます。

あすかくんは2020年4月4日、新型コロナウイルス感染により旅立ちました。世の中にその影響が及び始めたばかりの頃で、本人もまさかコロナだとは思わなかったと推測されます。

誰にもさよならを告げることなく、あすかくんは我々の前からいなくなりました。コロナの状況を鑑み、御仏前と対面できたのは半年後の10月でした。

 

そのさい、友人たちとともに東京女子の初期メンバーと甲田哲也代表、そして東京女子同様あすかくんが愛した地下セクシーアイドル、ベッド・インの益子寺かおりさんと中尊寺まいさんもマネジャーさんとともに手を合わせるべくあすかくんの自宅を訪れました。

あれから3年半が経過し、我々はあすかくんが望んでいたであろう声を出してプロレスを楽しみ、ライブに参加できる世の中を取り戻すことができています。そんな今だからこそ彼が愛したあの頃の情景を、ともに共有したファンの皆さんと楽しもうと友人有志…つまりは主催である「感動させてよ実行委員会」は動きました。

したがって追悼興行的なものではありません。東京女子が10周年を迎えたタイミングで、旗揚げの頃から応援してきたあすかくんのことを選手たちにも思い出してもらうメモリアルな一日とするのが主旨です。

突然の別れは東京女子勢も同じであり、だからこそどこかで気持ちの整理をつけられる場を持っていただきたい。そのような思いからまず、高木三四郎CyberFight社長に相談したところ、二つ返事で快諾していただきました。

 

▲大社長はあすかくんのことを「スカパー!の人」と認識しつつ、ファンとしてDDTに来てくれることをありがたがっていた

高木社長もあすかくんとは付き合いがあったので事情を理解し、東京女子とつないでくださいました。団体サイドも主催者の希望に対し真摯に向き合い、卒業を目前に控える坂崎ユカ選手の出場も認めていただけました。

ここからは、私とあすかくんが出逢った頃まで話をさかのぼらせていただきます。1989年9月、当時在籍していた週刊プロレスで「ファンのファンによるファンのための渾身討論会」という企画がありました。抽選で選ばれた読者がベースボール・マガジン社に集まり、一つの大会について激論を交わすというものです。

 

▲左列一番手前が私で右列手前から3人目があすかくん。ちなみに山根淳さんとも第3回のUWF東京ドーム大会討論会で知り合いました

 


▲17歳のあすかくん。「どの団体も見にいきます」の言葉通り、その後に訪れる多団体時代は彼の独壇場となった

ネットなどなかった時代、プロレスファンは自身の思いを出力する場を欲していました。第2次UWF8・13横浜アリーナ大会(前田日明vs藤原喜明、髙田延彦vs船木優治=現・誠勝の2大カードがおこなわれる)が第1回の議題で、そこで語られたことは誌面にも掲載。これが好評だったため、第2回として新日本プロレス9・21横浜文化体育館大会(橋本真也vsビッグバン・ベイダー2度目の一騎打ち、星野勘太郎と獣神ライガーのケンカマッチ=ノーTV)をお題とし、おこなわれました。

これに参加した13名の一人が17歳のあすかくん。私は誌面用の書記として出席したため、同じ場にいたこととなります。なぜあすかくんが選ばれたかというと、読者投稿ページ「あぶない木曜日」の常連投稿者で、その珍しい名前を憶えていたからです(ちなみに、この時期の同じ常連投稿者に甲田代表がいる)。

もっともそこで友人になったわけではなく、その後はなんの接点もないまま10年ほどが過ぎていきます。ただ、彼の存在は否応なく認識していました。

というのもかなりの頻度で、試合会場で姿を見かけたから。しかもあすかくんは声援にしてもリアクションにしても目立つ観客だったのです。当時で言うなら“百田男系”、今でたとえると俄然さんやハトえもんさん的ポジションと言ったら、わかる人には伝わると思われます。本人にその気はなくとも、たったひとことの声援で一瞬にしてその場を持っていってしまうタイプのファン。

▲2008年8月15日、G1クライマックス両国国技館大会場内にいたパンダ(映画『カンフー・パンダ』のプロモーションか何か)と嬉しそうに記念撮影。まだ世にアンドレザ・ジャイアントパンダが出現する遥か前にパンダとのツーショットをいいトシして実現させていた

入場してきた金村キンタローの後ろでブリブラダンスを踊る姿を見る時があれば、漏れすぎだろと突っ込みたくなるような心の声が後楽園ホールのバルコニーから聞こえることも。ただ、いわゆる悪質ファンではなく場内の雰囲気を悪くするような野次や行動はなかったと思います。

だから記者席から微笑ましく見られたものでした。そんなあすかくんとの距離が縮まったのは、1998年ぐらいだったと記憶しています。共通の知り合いと場をともにしたのがきっかけだったか…細かくは憶えていないのですが、とにかく彼のプロレスの見方や楽しむスタンスが面白かった。

それまでの私は「プロレスマスコミという仕事に携わる限りは、ファンとの距離が近すぎてはならない」という凝り固まった考えでいました。もちろん誌面を作る上で最重視していたのはファンの気持ちや思いでしたがその一方、特定の人とナアナアになってしまうことで他の読者から共感されなくなることを警戒していたのです。

あすかくんは、こちらの“身構え”を取っ払ってくれました。ユニバーサルプロレス時代から見ているザ・グレート・サスケの大ファンということで、まずはそこから話が盛り上がったのだと思われます。もちろんみちのくプロレスになってからも応援し続け、ムーの太陽が出現するよりも遥かに前からサスケ信者でした。

 

▲どんなに親しい関係になってもサスケとはファンと選手の関係でいた。大会後のマスターの売店にも律義に並び、念を入れてもらっていた(2014年10月16日、新木場1stRING。列前から3人目)

私がみちのく担当として石川一雄カメラマンと毎週末のように東北へ通っていた頃、あすかくんとその仲間たちも車に相乗りし東京から遠征していました。時たまそこへ同乗させてもらうことで、プロレス観戦における旅の醍醐味を味わわせてもらったのです。大会の取材が終わると、盛岡駅前にあった牛たん屋さんで彼らとゲハゲハやるのが本当に楽しかった。

もうひとつ、私があすかくんから教わったのがアメリカンプロレスの面白さ。時はWWF(当時)で“ストーンコールド”スティーブ・オースチンが大ブレイクし、日本国内でもアメプロファンが激増していた頃。週プロにはフミ・サイトーさんというその筋の第一人者がいたこともあり、自分が関わらなくても…と興味を持っていませんでした。

それが、あすかくんが語るアメプロ話が抜群に面白くてもっと知りたいと思うようになり、ついには2001年の「レッスルマニア17」の現地取材に手をあげるまでになったのです。まだWWFのなんたるかもわからぬままにいったためチンプンカンプンでしたが、その時に味わった自分の至らなさをバネに学んでいきました。

ザ・ロックが初来日し、WWF(WWE)日本公演が定着するようになったのはその1年後、ギリギリのところで“対応”できるまでになれたのは彼のおかげでした。翌年1月には一緒に韓国公演へ。初めていく国でも行動派のあすかくんが一緒だと不安がなかったです。

 

▲2006年2月5日、横浜アリーナにおけるWWE日本公演でジ・アンダーテイカーに恐れをなして客席まで逃亡するJBLとともに墓掘り人へ向かって「やめろ!」というポーズを見せ、絶妙な表情で写り込むあすかくん

気がつけばあすかくんは、いつの間にか放送業界の人になっていました。サムライTVを放送するスカパー!の社員でありながら、部署としてはプロレス担当ではなかったため変わらずチケットを買い、客席から見ていました。一度、その筋の人間として入ろうと思えばできるのでは?と言ったところ「それじゃコールもできないし、一緒にポーズもとれない」と、関係者ヅラすることを拒みました。

 

▲唯一立場の特権を利用するのはサムライTV収録スタジオに訪れて親交のある選手とわちゃわちゃするぐらい。サスケもあすかくんのことを「兄弟!」と呼んでいた

彼にとってのプロレスは、仕事としてお金を払わずに見るものではなく、チケットを買ってその分思いっきり楽しむものだったのです。そうですね…あすかくんから受けた一番大きな影響はそこかな。全力で楽しむという姿勢。

 

▲2010年9月10日、マッスル最終公演記者会見がスカパー!本社でおこなわれたため、社員というだけで当日に進行役を押しつけられたあすかくん。今林久弥、血圧タカシ氏(現・大日本プロレス映像班)、大家健、今野利明サムライTVプロデューサー、坂井、高木大社長と、そうそうたる出役の中に入ってもそん色がないのはさすが

2006年4月30日、新潟フェイズでサスケと佐藤秀(のちのバラモンシュウ)によるチェーンデスマッチがおこなわれ、当たり前のようにあすかくんも来ていました。この試合、会場外に出て隣の信濃川にかかる萬代橋上まで移動し乱闘は繰り広げられたのですが、映像を見るとなぜか調子の狂ったブブセラの音が外で鳴っております。

そのためだけに、わざわざ東京からブブセラを持ってくるあすかくん。ヨネ原人のコスプレで本人…いや、本原人と記念撮影をしたり、サスケがSASUKEとして頭に鰯(弱い魚とスペル・デルフィンを揶揄するための所業)をつけたのにならい、自作の魚を頭に乗っけたりするような人ですから、要は独自性に富んだ参加型のファンだったわけです。

 

▲こちらは2006年10月8日、盛岡・岩手県営体育館までザ・グレート・サスケvsスペル・デルフィンの決着戦を見にいった時のあすかくん。この一戦はおそらく彼にとって生涯のベストバウトの一つ。サスケとデルフィンが歴史的な握手を交わす現場にしっかりいるあたり引きが強い

あすかくんのツイッター(現・X)のヘッダーには2019年8月4日、鶴見青果市場でおこなわれた辰巳リカvsデモニオ戦で「ゴートゥジャスコ!」(現在はイオンですが)を嬉しそうに追いかけていく自分の写真が使われています(ただし顔は隠している)。今大会では同会場で、同一カードがおこなわれます。もう一度、あすかくんに辰巳選手を追っかけてもらうためです。

 

▲公式サイトの試合結果にも思いっきりさらされる(でも本人は大喜び)

いいトシになって体そのものが膨張し、より目立つようになってもあすかくんは17歳の頃に見た時と変わらぬスタンスでプロレス会場へいました。スカパー!社員ということでみちのくやDDTの選手・スタッフと仕事上の結びつきができても、です。そうした中で出逢ったのが、東京女子プロレスでした――。

 


▲本大会で一日復活を遂げる桃知みなみリングアナウンサーと(2014年4月27日、幕張メッセ)


2020年6月、世界中がコロナの影響に苦しむ真っ只中、一冊の本が出版されました。『仕事本 わたしたちの緊急事態日記』は、普通の毎日が一変した2020年4月に、各仕事へ就く人々は何をしていたかをまとめたものでパン屋、タクシー運転手、ミュージシャン、ホストクラブ経営者など多岐に渡る職業の中、女子プロレスラーとして執筆したのがハイパーミサヲ選手でした。

そこでミサヲ選手は、名前を伏せつつあすかくんについて触れました。その点に関し、私はミサヲ選手に対し感謝の思いがあります。また、昨年3月26日、大手町三井ホールで現役を引退した天満のどか選手は、セレモニーの中で同じく個人名を出すことなくあすかくんへの思いを口にしました。

「もうすぐ2年ぐらい経つんですけど、コロナが流行り始めた頃、東京女子プロレスをずっと応援してくれているファンの方が突然なくなっちゃいました。その人が私とか(小橋)マリカとか、もう一人の同期で優宇…私たちのこともずっと練習生の頃から応援してくれていて。人一倍声援を出して会場を盛り上げてくれる人でした。今でもその人が、こういう時だったらこういうふうに声出してくれるんだろうなとか、選手のみんなの頭の中に流れるように…そんな体になっているんです」

会場でその姿を見届けた界隈で高名な山根淳さんより、のどかねえさんは東京女子へ入団する前からあすかくんと顔見知りだったことを聞きました。それはもう、心の底から応援したでしょう。今年に入り、妹の愛野ユキ選手にそのお礼を伝えると「させてよさんには、本当に私たちのみんなが応援してもらいました。落ち込んでいる時も売店に来て、とにかく『大丈夫だから、○○は大丈夫だから!』って励ましてくれた。みんな、それによって頑張れたんです」と言っていました。

そうか、東京女子の選手の間では「させてよ」と呼ばれていたのか。これは、あすかくんのツイッター上の名前です。元ネタが、週プロ・宍倉清則次長(当時)の人気連載コラム「感動させてよ!」であるのは言うまでもありませんが、それを知らずに呼ぶ選手もいたと思われます。あすかくんは週プロ読者というより宍倉さんの大ファンで、おそらく本人よりも書いたことや文章の一節を細かく憶えていました。


mixi全盛期には宍倉さんのコミュニティを立ち上げ管理人を務めただけでなく、返す刀で“次長主義”と記されたTシャツを作り、宍倉さんが退社した時に有志を集めて「宍倉顧問(当時)を囲む会」を催し、本人から「選りすぐりのシッシーマニア」の称号も頂戴したほど。実行委員会が今回の大会名を「感動させてよ!」にしたのは至極当然なのです。

 

▲こちらにおられる皆様が「選りすぐりのシッシーマニア」

 


▲自作の次長主義Tシャツを着てマッスル坂井と戯れる。確かこのTシャツはご本尊様(宍倉さん)にも渡したはず


もっともっと東京女子を応援して、団体が大きくなっていく姿を見て感動したかった。あの日から約2年後、彼女たちは夢の両国国技館進出を果たしました。初期メンの木場千景さん、KANNAさんがオープニングに姿を見せ、あすかくんがイチ押しだったという中島翔子選手がメインイベントを務める…まさに“させてよ得”なあの空間に、彼の姿はなかった。

もちろん、姿はなくてもあすかくんはあの場にいて彼女たちの晴れ姿を見守っていたのだと思います。私は「ねっ、俺が言った通り東京女子はみんな大丈夫だっただろ? 俺は昔からいつか両国にいけると信じていたから!」という彼のドヤ顔を思い浮かべながらリング上を見ていました――。

 


▲2010年4月30日、私と共通の友人の結婚披露パーティーに出席。結婚式プロレスをおこなうべく登場した男色ディーノによって、嬉しそうに凌辱される。自分がやられることで笑いを生むことを理解していた


全4試合、東京女子勢以外に組まれたスーパー・ササダンゴ・マシンvs今成夢人vsアントーニオ本多の3WAY戦は「マッスル」が好きだった、そして結果的に最後の現地観戦となった「まっする」にゆかりある3人が出場します。そして、東京女子とともにその関係性をお伝えしなければならないのが、スペシャルライブに出演するベッド・インです。

 


▲放送関係者と映像スタッフのつながりで今成夢人とも交流があった。市屋苑にて安生洋二をはさみスリーショット


東京女子同様、あすかくんはベッド・インがまだ無名の地下アイドルだった頃からライブに足を運んでいました。その存在は、メンバーとスタッフにとっても特別なものでした。

 

あすかくんは体のサイズがXXLのためベッド・インのTシャツが欲しくても買えませんでした。それを知ったメンバーとスタッフは毎回、彼のために特注で製作した世の中でたった一枚のアイテムを渡していました。一人のファンのために、そこまでやってくれるアーティストがどれほどいることか。

 

▲あすかくんの大きなお腹へ面白がってサインするかおりさんとちゃんまいさん。ライブにとどまらずこうしたインストアイベントも皆勤級の出席率

2020年5月、ベッド・インはツアーファイナルの渋谷TSUTAYA O-EASTライブをDVD化するためクラウドファンディングを実施。あすかくんはステージ上で「メンバーと一緒にジュリ扇を振れる権」を選びました。

ベッド・インを応援し続けてきた者が、二人と同じステージに上がれるなど夢以外の何ものでもありません。ところがコロナの影響でライブそのものが延期となり、あすかくんも…。

半年後の11月22日、日を改めて開催されたそのライブでかおりさんは特に言及こそしなかったものの個人的な思いから、あすかくんに渡すはずだったXXLのTシャツをひっそりとステージ上に飾りました。その上で、終盤のMCタイムにて「今日は、本当なら大事MANな性徒諸クンの一人が踊ってくれるはずでした」と、涙を流しながら触れました。

 

▲あすかくんも支援したクラファンによりリリースされたDVD『ベッド・インSPECIAL BUBBLE NIGHT 2020』より、性徒諸クンとともにステージへ立つシーン。かおりさんの向かって右後方に、あすかくんへ渡すはずだったTシャツが掛けられている

非日常を提供するステージで「コロナ」というワードは出したくないという葛藤から詳細は語りませんでしたが、その思いの深さはオーディエンスに伝わっていました。常にベッド・インを全うする彼女が個の感情をステージでさらすのは、あとにも先にもこの日だけと思われます。

後日、かおりさんからあすかくんの代わりにステージ上へ立った特注のTシャツを託されました。それは、私にとってもっとも愛したヴォーカリストである中西俊夫さんが在籍したプラスチックスのTシャツとともに現在も、そしてこれからも自宅の壁に飾ってあります。

 



ただ、サイズが大きすぎてシャツ型の額に入らず、裏の押さえフタが盛り上がっており、あすかくんのデカさを物語っています。前述した通りかおりさんとまいさんは手を合わせるために自宅を訪れ、ひとり残されたお母様に何度もお礼を伝えていました。

闘道館におけるトークイベント「鈴木健.txt対決シリーズ」では2度、かおりさんに出演していただきました。いずれもあすかくんが楽しめるような内容を考え、当日はTシャツを最前席に置きました。

3年半が過ぎても、ベッド・インの中であすかくんはあすかくんのまま息づいています。今回オファーした段階で、まいさんのご懐妊と年内で産休に入ることが発表されました。イレギュラーのライブは避けてしかるべきという状況にも関わらず、出演してくださるのです。

ここまでの長文を読んでくださり、ありがとうございます。ゆかりのない皆さんにとっては無関係なことを連ねてきましたが、当日はあすかくんを知らない方々も楽しめるものになると確信しています。東京女子とベッド・インと、マッスル勢なんですから。

同時に、本大会へ参戦する選手たち、スタッフ、実行委員会の皆さんを突き動かすものが個人的な思いであったとしても、それが一つになればとてつもないパワーになりお集まりいただく皆様の心に刺さるはずです。11月23日、自分の中で芽生えた動機に対し正直な者たちの描く空間が、鶴見青果市場で現出します。

 

【関連記事】

朝日新聞デジタル「息子の30年、聞きたかった コロナに消えたある母の夢」(要登録)

※あすかくんとお母様のことが書かれたものです

 

「東京女子プロレスで感動させてよ'23」

★11月23日(木=祝)神奈川・鶴見青果市場(12:30開場/13:00開始)
〔入場料金〕感動シート完売、自由立見席4000円(サイン入りポスター付き)
〔販売場所〕公式チケット購入フォーム、チケットぴあ、ローソンチケット、イープラス
〔主催者〕感動させてよ実行委員会
〔問い合わせ〕saseteyo.forever@gmail.com

〔当日の対戦カード〕

▼山下実優&乃蒼ヒカリ&愛野ユキvs坂崎ユカ&瑞希&ハイパーミサヲ
▼中島翔子vs原宿ぽむ
▼辰巳リカvsデモニオ
▼3WAYマッチ◎スーパー・ササダンゴ・マシンvs今成夢人vsアントーニオ本多
・ゲストアイドルとして益子寺かおり&中尊寺まいの2人組セクシーアイドル「ベッド・イン」がリング上でミニライブをおこないます
・リングアナウンサーは初代リングアナの桃知みなみが一日復活します
・試合中、一眼レフなどレンズのついたカメラでの撮影は禁止とさせていただきます。カメラを持参された場合、お帰りになるまでカメラをお預かりさせていただきますのでご了承ください。なお、スマホやタブレットでの写真撮影やSNSへの投稿はOKです
・動画での撮影は通常の興行と同じルールとなります
・グッズ販売はおこないますが、試合後の特典会は開催しません
・自由立見席は自由席着席、または後方立見となります。購入した方には大会記念ポスターにランダムで1選手がサインを入れてプレゼントいたします

BGM:Héroes del Silencio『Entre dos tierras』

 

10月6日より公開された映画『アントニオ猪木をさがして』のパンフレット製作に携わった関係で、同作品を初号で見る機会に恵まれた。極私的な思いを書くと、何よりも嬉しかったのはプロレスマスコミとして長きに渡り現場で活躍されているカメラマンの原悦生さんがフィーチャリングされていたことだった。

プロレスラーや著名人が出演する中、業界内やファンの間では知られていても一般的には“有名人”とは違う。そんな原さんが俳優である安田顕さんのリクエストで対談し、猪木さんを撮り続けた立場から知られざる秘話を語っていく。

我々プロレスマスコミは聞く側が常だが、この作品の中では著名な安田さんの方が自身の興味あることを振り、それに原さんが答えるというシチュエーション。『アオイホノオ』で庵野秀明のエキセントリックさを見事なまでに演じたヤスケンさんの狂気性に惹かれた自分にとっては、とてつもない“絵ヅラ”がスクリーンに大映しとなっていたのだ。

同時に、原さんが世界中のどこまでも猪木さんを追い続けてきたことがこうした形で報われたと思うと本当に嬉しかった。イラクやキューバでのエピソードなど、写真家・原悦生以外のプロレスマスコミには語れない。それが映画を通じ、世の中に伝えられたのは意義があったと思う。

プロレスについて書いたり語ったりするにあたり、記者やライターがその役割を担う。取材のなくてはならぬパートナー・カメラマンは通常、写真を撮影するのみであり言葉で主張したり伝えたりする場はあまりない。

だがレンズを通じ、ある意味記者よりも至近距離からプロレスラーを見ているのだから興味深い出来事や貴重な経験を記者以上に刻んでいるはず。週刊プロレス時代から、カメラマンの話も、もっと表に出せたらと思っていた。

猪木さんの映画が公開されるのと時を前後し発刊された『プロレス熱写時代』(彩図社・刊/税込1980円)は、元週刊ファイト紙及び週刊ゴング誌でメインカメラマンとして活躍し、現在もリングサイドでカメラを構え続ける大川昇さんの著書。2021年に『レジェンド プロレスカメラマンが撮った80~90年代外国人レスラーの素顔』(同/税込1760円)に次ぐ“第2弾”となる。

 



大川さんはこの業界における同年代の先輩であり、週プロの人間である私にも当時から気にかけていただいた方。特に1997年9月、テリー・ファンクのアマリロ引退試合にハヤブサらFMW勢も参戦するとあり取材にいったさい、行程をともにし(この時のことは1作目の著書に記されている)慣れぬ海外において大変お世話になった。

週プロを離れたあと、現在も水道橋にて自身が経営するプロレスマスク専門店「デポマート」10周年記念興行「仮面貴族フィエスタ2011」後楽園ホール大会のサムライTV中継で、実況の村田晴郎さんとともにお声がけいただいた。立場上、本来ならばゴング誌にゆかりある記者さんへ振るはずだから恐縮したが、大川さんは私とハヤブサ選手の関係性を踏まえ起用してくれたのだ。

今でも心苦しいのだが私と違い、大川さんはハヤブサ選手を公私に渡りケアした。何しろ車椅子を押してメキシコまで同行し、道中常にサポートしたのだから。まさに選手とマスコミの関係を超えて、江崎英治のため親身になった。

それと比べたら、自分はなんの力にもなっていない。にもかかわらず…ハヤブサ選手が誰にも別れを告げることなく旅立った時、その後も不死鳥の功績を書き連ねる時、いつも大川さんの顔が浮かんでくる。

そんな大川さんから電話が来たのは、9月の半ば頃のこと。試合会場で顔を合わせればご挨拶をさせていただいているが、こうした形で連絡をもらうのは久しぶりなので何かと思うと「今度出版される著書の表紙がハヤブサなので、実家のお母さんにお送りしたいんだけど、住所知っている?」。

同時に「健にも送るからさ、見てよ」とお気遣いもいただいた。もちろんありがたかったが、それ以上に嬉しかったのはこの令和の時代にハヤブサが表紙のプロレス本が出るということだった。

その時点ではフォトブックの作りと思っていたのだが、いざ手にするとしっかりとした読み物であり、その上で大川さんの持ち味である写真がカラーページも含め半分近くを占めている。この2作目は、自身が思い入れを持ち続けてきたユニバーサルプロレス~みちのくプロレスの選手たちから始まり、老舗系のレスラー、もちろんハヤブサやデスマッチファイター・葛西純までと豊富なキャリアの中で出逢い、目撃してきたプレイヤーたちの人間臭さが克明に記されている。

プロレス本にありがちな事件性に特化した出来事の検証や裏話的なものはなく、マスコミとレスラーの間で紡がれるハートウォーミングな関係性を飾り気なく綴っているのは、大川さん自身のレスラーと向き合う上での姿勢によるものなのだろう。これほど膨大な情報が映像やテキストによってとめどなく流布される時代にあっても、初めて知るエピソードがいくつもあった。それもカメラマン目線だとライターが書くものとは違った角度で描かれ、新鮮なのだ。

前述した「仮面貴族フィエスタ」のエンディングでハヤブサが10年ぶりにリングの上へ立つシーンを、プロレスファンに提供することを大川さんは計画した。そのさい、新崎人生やザ・グレート・サスケ、NOSAWA論外など関係性の強い選手たちがいる中で解説席にいる本人を呼び込んだのは藤原喜明組長だった。

藤原さんは、表向きにはこれといった接点がないはず。にもかかわらずその役割を担ったのは何かしらの意味があるはずなのだが、現場では考えが至らなかった。それが本書で明かされており「そういうことか!」と合点がいった。

フジタ“Jr”ハヤトがデビュー直後、メキシコのウルティモ・ドラゴンジムへ留学した時、大川さんは現地で取材している。こちらは成田空港を出発するさい、父・孝之さんと見送りに来た母・薫さんがいつまでも泣きじゃくる姿を見ていたがその後、ご両親は海を越えてアレナ・メヒコまで応援にいったことを本書で知った。

お二人が海外へいくのがどれほど大変か。その事実だけでも親子の絆の深さが伝わってくる。ナウカルパンで撮影された高校を卒業してすぐのハヤトのショットは、現在の境遇の中で闘い続ける姿と照らし合わせるとどんな言葉でも表現できぬ感慨がある。

何よりも電話越しに大川さんが言っていたハヤブサ表紙の写真を見た瞬間、ノドの奥から熱いものが逆流してくるような感覚となった。それは、新生FMWのエースとなって最初に迎えた後楽園ホール(1995年5月28日)で初披露した、フェニックス・スプラッシュのショットだったからだ。

今でもリッキー・フジが「俺はあの技を世界で初めて受けた人間」と誇りに思っている正真正銘の“初モノ”。よくぞこれを表紙にしてくれた、ハヤブサも喜ぶだろうな…と思ったところ、大川さんいわく自分でセレクトしたのではなく担当編集者さんから「これにしましょう」と提案されたらしい。

本書を作るにあたり、大川さんは「自分で選ぶよりも、自分のことを見てくれている編集さんに選んでもらった方がいいものになる」と考えた。担当の権田一馬さんは小島和宏・元週プロ記者が書いた『FMWをつくった男たち』も手掛けており、90年代インディーの情景が追憶に刻まれている。

だから大川さんとの絶妙な呼吸が自然…いや、必然的に生まれたのだろう。デポマートを訪ねたさい、そのような話を聞かせていただく中で「表紙カバーを取ってみて」と言われた。

カバー下にある本体表紙は表裏で見開きになっており、いつぞやかのみちのくプロレスの会場全景が斜め花道から撮影されていた。パッと見た瞬間、山形・酒田市営体育館だとわかったがそれが重要なのではない。

当時のみちのく名物である愚乱・浪花のコール時に、甲子園球場よろしく観客の用意した風船が舞う瞬間。そこにはニュートラルコーナーに控えるテッド・タナベレフェリーと、その足元のリングサイドに週プロ・石川一雄カメラマンの姿が写っている。

10月15日、矢巾町民総合体育館でハヤトと髙橋ヒロムが闘う姿を、本部席からそのお三方も見守っていた。まさに大川さんと私が見たあの頃の風景が、カバーの下に在った。


大川さんでなければ書けないこと、大川さんならではの写真を、あの頃を知る者であれば共有できる喜びが詰まった一冊。同時に、若い世代のプロレスファンには独特の熱量があった90年代インディーの実像を知り、現在の業界を担う者たちの素顔を垣間見られる一冊となっている。

こうした書が多くの人々の目に届けば、もっともっとプロレスカメラマンが報われる。みんな、写真集になるほどの作品を数え切れぬほど世に残しているにもかかわらず、そうしたチャンスに恵まれるのはほんの一握り。たとえば週プロのカメラマンであればその誌面に載ることでしかフォトグラファーとしてのモチベーションを満たせない。

もっと違う形で表現の場を持ち「この仕事をやってきてよかった、プロレスを見続けてきてよかった」と心から思えるカメラマンが今後も増え続けるためにも、原さんや大川さんがその先鞭的存在になれば同じ業界の人間として嬉しい。レジェンド外国人、日本人選手と来てご本人の願望である「第3弾」が実現したら、それがどんなものになるのか心待ちにしています。

 

[内容]
ジャイアント馬場、アントニオ猪木、長州力、藤波辰爾、天龍源一郎、闘魂三銃士、プロレス四天王、ユニバーサル、みちのくプロレス、ハヤブサ、……その熱い闘いをリングサイドで撮影してきたプロレスカメラマン・大川昇が、秘蔵写真ととっておきのエピソードでつづる日本プロレス黄金期。プロレスカメラマンの楽しさを教えてもらったジャパニーズ・ルチャ、特別な縁を感じたメキシコでの出会い、引退試合で見せた素顔、レジェンドたちの知られざる逸話、そして未来のレジェンドたち……。「ブッチャー・フィエスタ~血祭り2010~」など数々の大会を一緒に手がけた盟友・NOSAWA論外との対談、さらに伝説の「天龍殴打事件」の真相が語られる鈴木みのるとの対談の二編も収録! 「あとがき」は『週刊ゴング』の元編集長のGK金沢が執筆! 本書を読めば、プロレスに夢中になったあの時代が甦る!
[目次]
第一章 我が青春のジャパニーズ・ルチャ
ユニバーサル・レスリング連盟
みちのくプロレス
ザ・グレート・サスケ
4代目タイガーマスク
スペル・デルフィン
フジタ“Jr”ハヤト
第二章 メキシコに渡ったジャパニーズレスラー
ウルティモ・ドラゴン
グラン浜田
ハヤブサ
邪道・外道
獅龍(カズ・ハヤシ)
BUSHI
磁雷矢
ザ・グレート・カブキ
【特別対談その1】NOSAWA論外×大川昇
第三章 格闘写真館
『週刊ゴング』表紙物語
第四章 去る男たちの素顔
天龍源一郎
佐々木健介
小橋建太
武藤敬司
第五章 レジェンドたちの肖像
ジャイアント馬場&アントニオ猪木
長州力
藤波辰爾
初代タイガーマスク
前田日明
獣神サンダー・ライガー
藤原喜明
蝶野正洋
スーパー・ストロング・マシン
佐野直喜(佐野巧真)
第六章 未来のレジェンドたち
永田裕志
天山広吉
棚橋弘至&中邑真輔
内藤哲也
オカダ・カズチカ
葛西純
【特別対談その2】鈴木みのる×大川昇
あとがき(元『週刊ゴング』編集長 金沢克彦)