ポーゴさんのことを“放っておけない”者たちが集った「Mr.ポーゴお別れ会」 | KEN筆.txt

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BGM:ミスター・ポーゴW★ING時代のテーマ曲『Get Up』

 

 

7月27日に「Mr.ポーゴお別れ会」が執り行われると発表された時点で、当日は手を合わせにいくつもりでいた。そんな中、2週間後に迫った頃に上林愛貴から「ご協力いただきたく連絡させていただきました」とFacebookのメッセージが届いた。

 

上林と豊本明長さんが6月24日に催されたお通夜に参列し、そのさいWWS(WORLD W★ING SPIRIT)のラーメンマンから東京でお別れ会を開催したいとの意向を聞き、運営を担うことになった件については、週刊プロレスモバイルのコラム『火曜女子プロレス』803回にて須山浩継さんが書いているのでご一読いただきたい。WWSは生前のポーゴさんが一人で会場の手配、運営等を仕切っていたため、他の選手やスタッフに興行を開催するノウハウがなく、それでラーメンマンは相談したのだ。

 

そうした事情を聞いたため「それならリングアナウンサーやレフェリーは本職の方しかできないけど、チケットのもぎりなどの会場スタッフはできると思うからなんでも振ってください」と返答。裏方をやれる人数も限られるだろうからと思い、そのつもりでいたのだが何度かやりとりするうち「松永光弘さんと、ポーゴさんの思い出を語っていただけますか?」と振られる。

 

もちろん、それは光栄なことでありなんら問題はなかったが、スタッフまわりは大丈夫なのかと再度聞くと「WWS勢とお手伝いでやります!」とのこと。そして当日、会場へいくとWWS勢とトークに出演する選手以外のプロレスラーや関係者の顔がいくつもあった。みな、なんらかの形で携わることにより、ポーゴさんの力になりたいと思って集まったのだ。

 

上林は当日券売り場で、御香典の受付にはラーメンマンがつきファン・関係者を迎えた。開場後、入り口に立ちチケットのもぎりをしたのはサバイバル飛田。藤田ミノルは開始前、休憩時、そして会終了後とそのたびにステージ上へつき、ポーゴさんとの別れを惜しむファンの皆さんに立ち会い、佐野直が音響を手伝った。

 

戸井克成は一般参列者として喪服で来場。チケットの製作をおこなった豊本さんは当初、サムライTV『バトルメン』の生出演が入っているため来場できないと上林から聞いていたが、いられるところまでいたいとの思いで駆けつけた。

 

 

献花台にはFMW時代、世界ブラスナックル&世界ブラスナックルタッグ2冠王となった時のポーゴさんの雄姿と、先日のFREEDOMS後楽園大会で藤田ミノルも使用したエイリアン鎖鎌が置かれた。それとともに、現役時代に使用したコスチューム、愛用のジャンパー、週刊プロレス提供のパネル、写真等が陳列されファンが見つめ、そして手を合わせる。

 

 

この日、おこなわれた試合はWWS全選手によるバトルロイヤル1試合のみ。WWSによるお別れ会なのだから、これでよかったのだと思う。遺影に見守られる中、11人が出場。その中にはグレート・ポーゴとして当時のペイント&コスチュームを継いだ島田宏の姿もあった。

 

 

最後は高瀬直也がダイアモンドカッターを決めて北爪秀俊に勝ち、バトルを制す。2人は、遺影に向かい「ポーゴさん、ありがとうございました」と、深々と礼をした。

 

 

続いてサムライTV提供秘蔵VTRがスクリーンを通じて上映。ポーゴさんを追いかけてきた『インディーのお仕事』で放送された伊勢崎暗黒街計画、伊勢崎市議選選挙活動、ポーゴサンタなどポーゴメイニアにとってはたまらぬ映像が流される。

 

 

選挙に立候補するとあって顔の半面にペイントを施し、ミスター・ポーゴと関川哲夫を同時に宿したポーゴさんのアップを見て思った。なぜ、極悪魔王として恐れられる一方でみんながポーゴさんを愛したのか。

 

よく見ると素顔から伝わる照れを隠しきれぬ目線に、大森隆男さんと通じるものがあった。なんというか、それが人々に「放っておけない」と思わせる目なのだ。これはひとつの人徳である。

 

上映後、サムライTVキャスターの三田佐代子さんが進行を務めリッキー・フジとミスター・ポーゴ2世としてその名を継承する保坂秀樹によるトークショーへ。保坂は前日のGPSプロモーション新木場大会の試合中にアゴを骨折し、本来ならば話せない状態であるにもかかわらず動かせる範囲で声を出して参加。

 

 

いくつか出た微笑ましいエピソードの中で、リッキーさんが「なぜかポーゴさんは俺のことをずっと『リッキーさん』って呼んでいたんだよね」と明かしていたが、いつかのバックステージコメントでポーゴさんが「リッキー大先生のおかげです!」と当時、言ったことがあった。それはいわゆるプロレス言語ではなく、普段の呼び方から派生したものだったのだ。

 

2ヵ月ほどリッキーさんの方がFMWへ定着した時期が早く、ポーゴさんはキャリアも年齢も上でありながら、それが団体では先輩となるリッキーさんに対する礼儀だったのかもしれない。トーク後はミルホンネットのタダシ☆タナカさんがリングへ上がり、ポーゴさんの著書について語り休憩へ。

 

休憩明け、WWSの高瀬直也とラーメンマンがリングへ上がり、11月12日に伊勢崎市でポーゴさんの追悼興行をおこない、それを一区切りとして団体を解散すると発表。極悪魔王が病魔に打ち克った時、帰って来られるリングを守るべくやってきたが「僕らに力がないばかりに…ポーゴさんにいつも甘えていたんで…」と、高瀬はその場で泣き崩れた。

 

他者のために何かをやりたいという思いを持ちながら、その力が及ばぬ時の悔しさ、無念さは自分に対するそれの比ではない。今回、お花代として集められた入場料金は、この11・12追悼興行の運営費に回される。

 

続いてミスター・ポーゴにとって大仁田厚と並ぶ最大のライバル・松永光弘さんによる弔辞へ。その中で聞かれた「ミスター・ポーゴなくしてミスター・デンジャーはありませんでした」の一節こそが、2人の物語そのものだったように思う。

 

そこからトークショーへ入り、話を聞かせていただく。改めて検証すると、松永さんとポーゴさんは本当に稀有な関係性にあったと実感させられた。まず、14歳も年齢差がありながら自他ともにライバルと認めていた点。

 

▲自分がリング上へいたため写真を押さえられず、週プロモバイルさんよりお借りしました

 

通常、ライバル関係とは世代が近い者同士で成り立つもの。「僕がふけ顔だったからポーゴさんも若造という感じがしなかったんですかね」と笑った松永さんだが、世代を超越しデスマッチファイターとして互いを高められる相手との認識をポーゴさんが早い段階で抱いたのだろう。

 

数あるシングルマッチの中で「もしもどこかでポーゴさんと再会したら真っ先に語り合いたい試合はどれになりますか?」と聞くと、松永さんは「スクランブルバンクハウスデスマッチ」(1992年3月8日、後楽園ホール)と即答。話題性では比べものにならぬほど大きかったファイアーデスマッチ(同8月2日、船橋オートレース場前駐車場=現・IKEA船橋があるあたり)や、週刊プロレスの表紙となったFMW大阪城ホール(1994年8月28日)の試合よりもビッグファイアーにより全身火だるまとされた初一騎打ちの方が強く心に刻まれていた。

 

「いろんな団体でデスマッチをやりましたけど、あれを超えることはできなかった。今、さまざまなデスマッチをやっていても人間の頭から灯油をかけて火で燃やすのはないでしょう」

 

ものすごいことを例の口調で淡々と話す松永さんに、集まったファンの皆さんがグイグイと引き込まれていくのがリング上からわかった。リッキーさんたちはポーゴさんの人間味あふれるエピソードを話し、松永さんはデスマッチの帝王の凄みを語った。

 

最後に登場したのは大仁田厚。そこで語ったのはデスマッチのライバルとしてだけではなく、WWSをけん引してきたプロモーター・関川哲夫の偉大さだった。

 

 

「足が悪くとも切符売り場にいて、今のインディーの中であれだけ動員する人はいません。自分でこまめに手売りしてちゃんとお客さんを500人、600人入れる。地方のプロモーターとして素晴らしい才能を持った人だと僕は思っています」

 

デスマッチファイター・ポーゴや人間・関川哲夫を語る者は多いが、そのいずれでもないポーゴさんの功績をしっかりと伝えたあたり、大仁田厚はさすがだと思った。ウソツキだなんだと言われようとも、この場で口にした言葉と姿勢は素晴らしかったと思う。

 

最後は10カウントゴングが捧げられ「デスマッチの帝王、ミスター・ポーゴ!」とラストコールがされるとサバイバル飛田はポーゴさんがコール時に見せていた腕でやるFUCK YOUポーズをやった。そしてFMW時のテーマ曲『スタフォロスの戦い』が流れる中、一人のファンが「ポーゴ」コールをいつまでも絶叫。ヒールを貫き通した極悪魔王へ捧げる万感のコールによって、その伝説は我々の中で永遠のものとなったのである――。