「鶴田さんのようになりたい」――あの日、真正直に答えた男がジャンボ鶴田になった日 | KEN筆.txt

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鈴木健.txtブログ――プロレス、音楽、演劇、映画等の表現ジャンルについて伝えたいこと

BGM:ジャンボ鶴田テーマ曲『J』

 

 

 「なんであそこで『ジャイアント馬場さんのようなプロレスラーになりたい』って言わないんですかね? ジャンボ鶴田さんのようになりたいって…それ、ただの本音じゃないですか! 正直すぎるでしょ。せっかく似てるんだから、これからのことを考えたらあそこは馬場さんって答える方が正解なんですよ。なんですけど…まあ、そこがあいつの素直でいいところなんでしょうね。バカ正直だから苦労するだろうけど、あれほどのタッパがあるんだから頑張ればモノになるかもしれませんよ。やっぱり、最後にものをいうのは人間性ですからね」

2003年6月15日、横浜赤レンガ倉庫でスーパー宇宙パワーを相手にデビューしたソップ型の若者が、リング上から控室へ戻ってきてからもオイオイと泣き続けながら記者団の質問に答える姿を遠巻きに見つめてある先輩レスラーがそう言った。練習生の時点で石川修司は「ジャイアント馬場さんに似ているデカいのが入った」と評判だった。

当時は身も心も佐々木健介になりたかった藤沢一生(のちの健心)や、長州力をラーニングした泉州力といったところが“DDT内市民権”を得て「オマージュレスラー」なる新たなる分野を確立した頃。そこへ巨人の男が入ってきたものだから、高木三四郎の目がビンス・マクマホンばりにギラリと光るのも無理はなかった。

日本プロレス時代に馬場さんが着用した緑のショートタイツ履き日本テレビスポーツテーマのリミックスVer.が流れる中、デビュー戦のリングへ上がった石川は河津落とし、十六文キック、股裂き、ランニング・ネックブリーカードロップとジャイアント殺法を繰り出したが、しょせんは付け焼刃。宇宙の拷問のような逆片エビ固めで絞られるとギブアップの声もあげられなかった。

風貌は馬場さんに似ていても、石川は全盛時のリアルタイム世代ではなかったのでじっさいのところどんな技を使っていたかまでは知らなかった。もちろん、どれほど偉大なるプロレスラーなのかは理解していたが…。

 

「脳天唐竹割りにしても関根勤さんがマネしているのを見たことがあるだけで、オマージュしろと言われても大変申し訳なかったんですが、しようがなかったんです。それでYouTubeを見て研究して、初めて馬場さんの凄さが理解できました。やっぱり、大きくて動けるわかりやすさというのが武器なんだなと思って」

大きい人間は、こういう見せ方をすればいいというのを教えてくれたのが馬場さんの映像だったから、ちゃんと実にはなっている。その中で、自分の技に昇華できたのが三十二文ロケット砲(ミサイルキック)だった。

もともと鶴田さんが好きになったのは大きい以前に強さで知られるプロレスラーだったから。同じ理由で橋本真也さんにもあこがれた。そういう先人たちの動きを映像で研究するまでは、自分がやりたいことがなんなのかさえも定まらずにただやれと言われたことをやるしかなかった。

「面白いから」という理由で、デビューできるだけの技術もともなわぬままキャリアをスタートさせた。当時、毎週水曜の渋谷club ATOM定期戦ではエレベーターで上がり扉が開くと、そこへぬぅっという感じで “モギリ”をやらされる石川がそびえ立っていた。

今でも語り継がれる2009年のDDT両国国技館初進出のさいに、入り口でDVDを配る大巨人の姿はその時から私の中でつながっている。エレベータースペースのところだと通常はオールスタンディングのため人垣によってリングが見えないのだが、石川はそこからうつろな目で先輩たちの試合を眺めていた。

自分が何をやりたいのか、そして将来どうなっていくのか。その頃の石川には、物理的な距離よりもリングの輝きが遠く感じたはずである。そんな中、飯伏幸太が入門してともにフーテン・プロモーションの「BATIBATI」へ呼ばれるようになり、ようやく自分の目指す方向性がつかめた。デカいだけでなく、その上で動けるというイメージは前述の3人に加え、FMWなどで暴れていたザ・グラジエーターにインスパイアされた。

大きいながらもコツコツと。ユニオンプロレスに移籍したことで団体に対する思い入れと責任を背負ったのもリングに立つ上での意識改革へとつながった。すでに大巨人としての個は確立されつつあったから、デビュー戦で口にした鶴田さんの名を出す者も次第にいなくなった。

ユニオン在籍時は、自分より団体のことを先に考えた。大日本プロレスのデスマッチに参画したのも「ユニオンの名を売りたかったから」というシンプルな理由。雀卓を囲めるような広くて大きな背中に無数の傷を負ってホームリングへ戻ってくるたびに、ナオミ・スーザン代表はグッとくる思いをこらえていた。

ユニオンが解散し、石川はフリーの道を選択する。仲間たちや他者のためではなく、そこからは自分のためにプロレスをやろうと思った。その後の活躍ぶりは説明するまでもないだろう。昨年夏、DDT両国大会で竹下幸之介のKO-D無差別級王座へ挑戦するにあたりインタビューした時、その好調ぶりがどこから来るのか聞いたところ想定していなかった話を切り出された。

「去年、母親ががんになって入院したんです。それでお見舞いにいった時『あと何年プロレスをやるつもりなの?』って聞かれて。考えてないって答えたら『あと3年やるのは許すよ』って。そう言われると、3年経ったら43歳じゃないですか。それを考えたら、できることはやっておこうとなって。3年後にやめることを決めたわけではないですよ。でも、それによって意識が変わったのはあります。ユニオンが解散してフリーになろうと思った時点では、こんなに実績を上げられるとは思っていなかった。運もあるし人間関係によっても左右するだろうし。自信がなかったわけではないですけど、その時点ではそういう活躍できる機会が巡ってくるかもわからなかったわけですから。でも、どこで機運が来るかなんてわからないのであれば、自分の意識だけはちゃんと持っておこうって」

母の境遇と言葉によって残された時間を意識した石川は、両国で竹下から無差別級王座を奪取。ベルトを保持している時に、堂々と「俺がプロレス界で一番デカくて強い」と言い切った。自画自賛が性に合わないと一切口にしてこなかった男が、である。

一番ということはIWGPヘビー級王者、三冠ヘビー級王者、GHCヘビー級王者、あるいはBJW認定世界ストロングヘビー級の各王者と比較しても自分の方が強いと思っているのかと聞くと、石川は無言で頷いた。その言葉には「最強と口にすることで退路を断つ、自分に暗示をかける」意図も含まれていたのだが、あの時点ではいわゆる老舗団体のフラッグタイトルを獲得した実績がなかったので、中には「何を言っているんだ? インディーのレスラーがメジャータイトルを獲れるはずがないだろ」と、嘲笑した者もいたと思われる。

今回、チャンピオン・カーニバルを制覇したことで三冠ヘビー級王座挑戦への道が拓けたわけだが、じつはこの時点で石川の意識の中にはちゃんとあり、いつその日が来てもいいように心と体の態勢を整えていたのである。

チャンピオン・カーニバル優勝後、ニコニコプロレスチャンネルへ出演したさいにこちらから改めてジャンボ鶴田さんの名を出させてもらった。あこがれの人が現役時代に抱いた巨大な優勝トロフィーだけでなく、初代王者として名前を刻むタイトルに挑戦することを振ると「あっ! 今、気づきました。鶴田さんが三冠を持っていたという意識が強かったんで…そうですよね、初代なんですよね。ヤバ、緊張してきた」と汗をにじませた。

加えて5月21日は鶴田さんのご命日から8日後であり、この日は第2試合で大森隆男&井上雅央vsザ・グレート・カブキ&渕正信によるメモリアルマッチがおこなわれ、和田京平さんが裁いた。試合後には生前の功績を称えて10カウントゴングが鳴らされ『J』が流れ「オーッ!」の大合唱となった。

 


▲ジャンボ鶴田さんのメモリアルマッチをおこなった4選手と京平さん。鶴田さんの遺影とともに「ツールッタッ、オー!」

プロレスは過去や過程を物語とし、闘う上で武器にもできる表現ジャンルである。そして、その要素が幾重にも引き寄せられた時にこそ見る者の心を揺さぶり、とてつもないエネルギーとなって会場を包み込む。約14年前、記者に振られるがまま飾ることなく真正直に答えた名前がこのような形で“生きて”くるとは…あの場にいた一人として、感慨を超越したこの思いをどんな言語で表せばいいのだろう。

石川にプロとして必要なあざとさがあったら、求められるがままに「馬場さん」と言っていたかもしれない。でもそこで鶴田さんの名前を出した。生前の馬場さんだったら、後者のような人間に微笑んだはずだ。

そして…やはり三冠は鶴田さんの時代のイメージと直結する。それを四天王プロレスが昇華させた。石川は、馬場さんの存在に頼ることなく実力で鶴田さんの名前と結びつくステージへと立ったのだ。

全日本所属ではないにもかかわらず、石川に対する期待が後楽園ホール内には充満していた。それは、カーニバル開幕戦に匹敵する入りとなったことからも明らかであり、外敵に対する拒絶感はその空間に微塵もなかった。

 


▲東西のバルコニーこそ開放したなったものの1315人(満員)の観衆で膨れあがった後楽園ホール


これはセミファイナルで世界タッグ王座を奪取した真霜拳號にも言えるが、昨日今日このリングに上がったのではなく地道に団体を応援するファンの支持をファイト内容で高めてきたからこそ、これほど受け入れられた。関本大介も崔領二も、他団体の選手であってもフリーであっても、全日本を活性化させるだけのことを見せてきた男たちすべてが“全”日本なのだ。

 


▲前日の横浜大会で橋本大地&神谷英慶を相手に世界タッグ王座を防衛したビッグガンズに対し「明日、対戦する俺たちとベルトを懸けてやろう」と挑戦を迫ったKAI。これに対しパートナーの真霜は「勝手に決めんな!」とオカンムリとなったため、両者の呼吸はなかなか合わず誤爆も続いたが、ボディガーがザ・バウンスを狙ったところでKAIがスーパーキックを放ち、体勢が崩れたところで真霜が丸め込み逆転勝利! 勝ったのは真霜なのに、KAIも自分で獲ったかのように喜ぶ




▲一応、揃って勝ち名乗りをあげたものの、KAIの握手に応じると見せかけて真霜はスルー。それにしてもK-DOJO所属の選手が王道・全日本のタッグ最高峰のベルトを手にする日が来るとは…この日は、石川とともにインディードリームを見せてくれた


そこは立場が違うだけで、この1年ほどで積み重ねてきたものの価値は宮原健斗も石川修司も大差がない。中盤あたりから、石川を呼ぶ声が「イシカワ」ではなく「シュウジ」へと変わり、終盤には「シュージ!」とコールになった。下の名前で呼ぶあたり、DDTやユニオン、大日本などで応援し続けてきたファンも多く詰めかけたと思われるが、それ以上に“全日本の石川修司”を見てきた全日本のファンこそが、そう叫びたくなったのではないか。

 


▲石川の入場時には、ユニオンプロレスのロゴタオルを掲げるファンもいた

自分よりも大きな相手の打撃を受けまくり、投げられまくながらも宮原は立ち上がり続けた。関本や岡林裕二のように肉厚でどんな衝撃にも耐え得るボディーを持っているわけではないのに、大巨人を相手に好勝負ではなくド迫力勝負を展開しているのだ。

二十代にして1年3ヵ月間もこのベルトを守り続けてきた「最高」のチャンピオン。カーニバルのシングル連戦でも宮原は、行く先々でその日で一番「最高」な試合を生み出してはフラつく足でマイクを持ち「サイコーですか!?」と地方の観客と一体となるだけでなく、一秒でも早く控室へ戻りひっくり返りたいはずなのにリングサイド四方をゆっくりと歩いて押し寄せるファンとスキンシップを図っていた。

そんな日常を見ていたから、じつはこのメインで最初に涙腺が緩んだのは王者が入場した時の大「ケント!」コールだった。ここまで来るのに、どれほどのことをこの男はしてきたのだろう。

 

▲1年以上かけて熟成され、宮原の入場シーンは“商品”となった。一本化された三冠のベルトを誰よりも着こなした王者と言っていい


▲石川がコールされた瞬間、無数の紙テープが投げ込まれた



▲場外出鉄サクに振るシーンひとつをとってもダイナミック。前半の場外戦で石川がイニシアチブを握る


だが、そんな三冠王者に対する支持をもこの日のチャレンジャーに向けられた期待感は上回っていた。終盤に押し寄せた「これは来るぞ…」という迫りくる空気。来るとはもちろん、石川が勝つ瞬間である。

 

▲大巨人の顔面へブラックアウトを的確にヒットさせる王者。これを何発食らっても気を失わなかった石川も凄い


▲1発目のスプラッシュマウンテン狙いをウラカンラナで切り返した宮原。対策はしっかりと練ってきた

 

▲大巨人の体に、持ち上げていったん止めてからのジャーマン・スープレックス・ホールドを完ぺきに決めた宮原


▲相手を飲み込むようなジャイアント・ニーリフト。どんなに劣勢となってもこれがヒットすれば形勢をひっくり返せるのが石川の強み


スプラッシュマウンテンをカウント2で返され、ブラックアウトを2連発で食らったもののファイアーマンズキャリーの体勢で片腕を取ってから落とすファイアーサンダー(これが戦前に予告していた「宮原殺し」だという)で動きを止めると、ジャイアントスラムで後方へ叩きつけて3カウント奪取。

 

▲完全無欠のスプラッシュマウンテンをカウント2でクリアするや、場内には地鳴りが発生!

 

▲対宮原用に考案した「宮原殺し」とは、フェイントをかけてのファイアーサンダー。ここから一気にジャイアントトスラムへ

 

▲この技はフリー転身後に開発したもの。1年3ヵ月間ベルトを守り続けてきた宮原をついに王座から引きずり落とした


京平さんがちょっとだけ背伸びするようにして石川の手をあげ、鶴田さんが持っていた時は3本だったのが一本化された三冠のベルトを、その大きな胴に巻いてやった。もはや「シュージ!」コールが鳴りやまない。

 


▲少年ファン時代にテレビで見た鶴田さんの試合を裁いていた京平さんに手をあげられたのも、深い感慨があったはず

「ジャンボ鶴田さんにあこがれてプロレスを好きになって、鶴田さんが統一した三冠ヘビー級を巻くことができて本当に嬉しいです! 最高のチャンピオン・宮原さんから奪ったベルト…鶴田さんから始まった歴史も含めてすごく重いです。応援してほしいとは言いません。でも、このベルトを懸けて、魂を懸けて闘っていきたいと思います。僕も鶴田さんみたいになりたいと思って、やっとここまできました。皆さんもデカい夢を持って、毎日みんなで頑張りましょう!」

 


▲若干、声が震えるところもあったがしっかりとした口調で涙を流すことなく言葉を伝えた第56代三冠ヘビー級王者

あの日、スーパー宇宙パワーの前で大泣きした青年は、生涯で最高の晴れ舞台に立っていても泣かなかった。なぜなら、強くなったから。弱くて、自信が持てなくて、それなのに鶴田さんの名前などよく出せたものだと自分に腹が立ちまた泣いた石川修司は、そこにいなかった。

 


▲最後は「3、2、1、俺たちはデカい!!」で締め。利き腕を上げるその姿が「オーッ!」に見えた


14年かけて、泣きじゃくる石川を眺めていた先輩の言葉が現実のものとなった。三冠ヘビー級のベルトを巻いた新弟子の大きな姿を見たら、あの日のように微笑んでくれるだろうか――。

 

▲数々の実績をあげてきた石川だが、特筆すべきは王道の象徴である三冠ヘビー級と、真逆とも言えるデスマッチの最高峰・BJW認定デスマッチヘビー級の両方を巻いた史上初の男になったことではないだろうか(三冠統一前にアブドーラ・ザ・ブッチャーがPWFヘビー級と、UNヘビー級を別時期に奪取しその後、第4代デスマッチヘビー級王者になっている)