放浪の殺し屋が奏でたボヘミアン・ラプソディー…ジプシー・ジョーはサンタマリアに抱かれて | KEN筆.txt

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鈴木健.txtブログ――プロレス、音楽、演劇、映画等の表現ジャンルについて伝えたいこと

ジプシー・ジョーさんの訃報が海外から伝わってきた。6月15日(現地時間)、82年間に及ぶ放浪の旅を終えたという。哀悼の意とともに、最後の来日となった2010年12月に取材したリポートを加筆・修正しここに再録する。SMASH公式電子書籍『SMASH×SMASH No.2』に掲載されたものだが、ジョーさんの伝説を一人でも多くの方に知っていただくべく編集を担当した佐久間一彦・元週刊プロレス編集長から承諾をいただいた。



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「おい、昨日は凄かったよ! ジプシー・ジョーっていうやつがいるんだけどさ、そいつがイスで背中をバンバン叩かれても全然平気でさ、相手に向かってに気をつけするんだぜ」

曖昧な記憶をたどっていくと中学生の頃、クラスメイトのそんな言葉に突き当たる。当時、私はジャイアント馬場とアントニオ猪木、そしてジャンボ鶴田。“ガイジン”ではアブドーラ・ザ・ブッチャーにミル・マスカラスといった名前を知る程度のプロレスとは縁のない日々を送っていた。

教室の中で男子が繰り広げるプロレスごっこを横目で見ているような生徒だったのだが、そのうちのひとりが会場まで足を運ぶほどのファンで、前日に見てきた報告を始めたのだ。彼は「マスカラスが来る!」と興奮していたが、第一声で聞かれたのは別のリングネームだった。

ジプシー・ジョー――顔や姿を見ていないのに、名前のインパクトは強烈だった。それまでの知っていた外国人選手のリングネームとは明らかに匂いが違った。

「おまえさあ、マスカラスが見たいからいったんじゃないの?」「マスカラスもカッコよかったけど、驚いたのはジプシー・ジョーの方だよ。ありゃあ、本物のジプシーだな」

くだんの友人は、その後もジョーについて熱く語り続けた。口に鉈(ナタ)のようなものを加えて入場してきたこと。髪はおよそ手入れなどされていなさそうで、小さい体を猫背にして見上げるように相手をにらむこと。そして背中をイスで叩かれるや一転して背筋を伸ばし、今度は頭を殴ってみろと言わんばかりにアピールすること…。

数日後、全日本プロレス中継にチャンネルを合わせると、ジプシー・ジョーを名乗る男がブラウン管の中にいた。友人の言っていた通りの風貌で、この日は脳天をイスで一撃され流血しながらも、やはり気をつけしてみせた。

現在、30代後半から40代後半にかけた年代のプロレスファンは、みな同じような原体験を持っているはずである。ブッチャーは毒針エルボードロップ、マスカラスは空中殺法を連想するのに対し、ジョーは自分の技ではなくやられる姿がサムネイルのように植えつけられた。

当時、そうした価値観で認知されたプロレスラーは、ジョーだけだったように思う。みんなが相手を攻めることで地位を確立していた日本のプロレスシーンにおいて、まったく逆の方法で記憶に刻まれた。

時は流れ、私は週刊プロレスの記者としてリングの神々たちを追うようになった。もう、すっかり過去のスターとして思い出の中の住人と化したジョーの実像を目の当たりとしたのは1991年8月、W★INGの旗揚げシリーズだった。

6年ぶりに来日する直前、ジョーはテネシー州ナッシュビルのバーで腹部を銃撃されるアクシデントに見舞われるが、手術で縫合した箇所を写真に撮り、それをW★INGへ送りつけ「俺は大丈夫だ。試合に出るとファンに伝えてくれ」とアピールしてきた。イスはおろかピストルで撃たれてもリングに上がろうとする彼を、人は不死身と表す以外になかった。

W★INGと、その後のW★INGプロモーションにも上がり続けたジョーは、10年ぶりの金網デスマッチに身を投じ“極悪魔王”の異名をほしいままにするミスター・ポーゴと激突。敗れたものの、ここでも脳天へのイス攻撃を何発も受けてはマニアのファンを狂喜させた。

ボサボサに痛んだ髪と、血でグシャグシャになった顔面。まさにボロボロなその姿には、昭和のレスラーからしかにじみ出ない哀愁があった。こうしてジョーは平成のインディーシーンにも名を刻み、2002年8月のIWAジャパン川崎球場大会にて引退セレモニーをおこなう。

ジョーを招へいしていた故ビクター・キニョネス(プエルトリコのプロモーターで、当時はIWAジャパン代表)のはからいによるものだった。これを最後に来日は途絶えたが、アメリカ国内ではインディープロモーションのリングにスポットで出場しているとの話は風の便りで伝わってきていた。

とはいえ77歳となった今、約8年ぶりに来日するばかりかプレイヤーとしてリングに上がり、しかも現役バリバリのTAJIRIとシングルマッチで対戦すると発表された時はさすがに驚いた。誰よりも、ジョー自身がこのトシになって日本に来られるとはまったく考えてもいなかったという。

「俺が今までやってきたようなスタイルからレスリングは変わった。今のボーイズには、今のレスリングがある。そういう中で自分が呼ばれて、いったい何ができるのだろうかと考えたよ。でも、気持ちだけは18歳の頃とまったく変わっていない。周りはそのトシでできるはずがないと言うだろうが、俺に言わせれば年齢は関係ない。むしろレスリングが移り変わってしまったことの方が俺にとってはクリアすべきテーマなんだ。俺の血の中にはレスリングが染み込んで体中を循環している。体を血が巡るかぎりは、レスリングを続けるのが当然だと思っている」

無事日本へ着いた翌日、新宿歌舞伎町にあるホテルのロビーへ現れた放浪の殺し屋は、Tシャツ一枚にスソのあたりが破けたジーンズ、そしてキャップというスタイルで取材に臨んだ。そして、こちらが聞くよりも先に77歳の現在もプロレスを続けている理由を口にした。

年老いたからやめるのではなく「自分がサンタマリアに抱かれる時まで」当たり前のようにあるもの。それがジョーにとってのプロレスだった――。

ジプシー・ジョーこと本名ヒルベルト・メレンデスは1933年12月2日、南米の楽園プエルトリコにて生を受けて、5歳の時に家族でニューヨークへ移住したというのが“史実”とされている。本人に確認したところ「記憶が曖昧」とのことだったので、一応それに基づいて話をたどるようにした。

家族でアメリカへ移ったのは、極貧だったからにほかならない。このままプエルトリコへいるよりも大国の方が、まだ可能性があると思った。

「何しろ家にテレビがないほどだったから、テレビでレスリングの番組を見るという習慣がなかった。はじめてレスリングを見たのは、ガキの頃に地元の鳥小屋みたいなところでやったのを覗き見した記憶がある。きっかけは忘れたが、会場にいったらドアが少しだけ開いていて、そこから覗くことができたんだ」

それが原風景として残ったため、ジョーの中にプロレスはスモールビジネスという認識がこびりついてしまう。貧困からの脱出を夢見る少年にとって、大金をつかむ夢の世界は野球だった。

16歳になると、ジョーはフロリダへ移りプエルトリカンが働くトマト農園で生計を立てるようになる。来る日も来る日も枝についた実を収穫し、いつしか大リーガーになって裕福な生活をすることだけが希望だった。

でも、なんのきっかけもつかめぬまま時間だけが過ぎていく。いつまで経っても赤いトマトは白いボールに変わらなかった。3年間、農園で働いたジョーは環境を変えるべくニューヨークへ戻る。

「そこに団体名さえ忘れてしまったプロモーションがあって、レスラーになるためのトライアウトを実施するという話を聞いたんだ。試しに受けてみたら、合格してしまった。力仕事をやっていたから、それが役に立ったんだろうな。そうでなければ、俺のような小さな体で受かるはずがない」

プロレスラーになりたいとの願望はまったくなく、むしろ少年時代のイメージがあったからとても稼げる職業ではないと思っていた。けれども、またトマト農園で働くよりはいいだろうと、とりあえずやってみることにした。

同じプエルトリカンのペドロ・モラレス(第4代WWE王者)やカルロス・コロン(カリートの実父で、プエルトリコの団体WWC=ワールドレスリングカウンシル主宰者)とトレーニングを積み、1963年にのちの名物マネジャーであるルー・アルバーノを相手にロングアイランドでデビュー。ただ、リングへ上がるようになってからもどうにも芽が出ない。

技術云々以前に、当時のレスラーたちの中に入るとジョーは小さかった。今のようにジュニアヘビー級が独立したクラスとして認知される時代ではなかったから、闘う相手はみんな自分よりもビッグガイばかり。

当然のごとくプロレス一本では食っていけなかったため、ジョーはレストランでコックをやりながらリングへ上がっていた。その後、オクラホマへ移りダニー・ホッジにレスリングを学ぶ。

ホッジも小さい体ながら、ヘビー級の相手とやって負かしていた(NWA世界ジュニアヘビー級王者として有名)。だからなのか、いつもデカい男にコテンパンとされていたジョーへ目をかけた。

オクラホマにいた2年間で、ジョーはレスリングのベースを身につけた。そしてホッジに別れを告げてこの地を出たところからプロレスラーとしての放浪の人生が始まったといえる。

「俺の足跡は鉛筆で書いた文字のようなものだ。大して活躍しなかったから、何も記録が残っていない。“ジプシー・ジョー”という名前が書かれても、消しゴムで消されて何も残らない。だから、100%正確なジプシー・ジョーのヒストリーを追うのは誰にも不可能なんだ。『おい、昨日までいたジョーがいないぞ。どこにいったんだ?』『知るかよ。あいつは家もないから連絡がとれない』…そんな会話がドレッシングルームではおこなわれていたんだろうな」

どこかに定住せず、リングを求めてアメリカ、カナダ、メキシコ、そして日本を50年近くも流浪してきた。今でもジョーは、実生活もジプシーそのもの。

18歳のひ孫に一番下の弟が生まれ、この1月で1歳になった。4世代に及ぶ家族たちがいながら、一緒には住まずにいる。そもそも、自宅にあたるものを持っていないのだ。

現在は「マイ・ガールフレンドとルームシェアして」テネシー州ナッシュビルの郊外にあるライルスという街に住んでいるそうだが、3カ月前までは別の友人宅に居候していた。こうして、知り合いのところを転々とするジプシー生活を続ける。

「一個所でじっとしているのは性に合わなくてな。俺はトラディショナル・ジプシーだ。それにしてもアメリカの政府は立派だ。俺のようなジプシーにも年金をくれるんだから。ハッハッハ」

少年時代に夢見ていた億万長者にはなれずとも、食うには困らぬ環境の中で好きなレスリングを続けていられるのはしあわせだとジョーは言う。

消しゴムで消した鉛筆の文字には、いくつものリングネームが記されている。最初のうちは、テリトリーを移るごとに“ジョー”は同じでもファーストネームの方を替えられた。

「メキシコではアズテック・ジョーを名乗れと言われた。アラスカでは“チーフ”ツナ・ジョーと名づけられた。俺が魚? おかしな名前をつけるなと思ったんですぐに飛び出した。ボボ・ブラジルが『ツナ、ツナ』って俺をからかった。あの時は今よりも金がなかった。その後、どこかのテリトリーで“ジプシー”を名乗れと言われた時、今までの俺の足跡と合っているなと思って定着させた。そこからカナダに渡りモーリス・バションというタフ野郎に出逢った。彼との出逢いが、俺の運命を変えた」

元AWA世界ヘビー級王者マッドドッグ・バションとして知られるモーリスの当時の主戦場は、少年時代に過ごしたカナダ・モントリオールだった。そのライバルとして、ジョーは名を馳せるようになり、地元のタイトルであるGWA世界ヘビー級王座を獲得する。

激しい抗争を繰り広げながら、小さくとも無類のタフネスさに手こずったバションは「こいつとなら日本のファンが驚くような試合ができる」と、国際プロレスへ売り込んだ。初来日となった1975年9月に、その後のジョーの運命を決定づけるイス攻撃との邂逅は訪れていた。

「あの頃、場外戦でイスを使う時はみんなが相手に投げつけていた。それを見て、投げるよりも叩く方が凄いだろうと思った。でも待てよ、叩くよりも叩かれてそれでも平気な方がプロレスラーらしいじゃないか。そう思って、仲間のレスラーに『俺の背中を叩いてみろ』と言って叩かせた。そのあと、トーキョーでモーリスとビッグマッチを闘った時、俺がイスで叩かれたことを当時のマガジンのライターが大きく扱ってくれた。そうか、俺はこれが評価されているのかとわかったんだ。それでカナダに帰ってからも同じことをやったら、案のじょう大ウケさ」

それからのジョーは、毎日のように背中や脳天をイスで殴られ続けた。なぜ耐えられるのかという素朴な疑問を向けると「俺は叩かれるのが好きだし、叩かれても平気なんだ。耐えているのではなく、まったく苦痛に思わない。なんで頑丈なのかと聞かれたら、それは俺にもわからないがな」が返答だった。

国際に来なければ、もしかすると自分の体をイスで叩かれるという“見せ場”に気づかぬままのレスラー人生だったとも考えられる。もっとも、殴られるばかりでは勝てない。そこで得意技として使うようになったのがコーナー最上段からのダイビング・ニードロップだ。

「ニードロップを使い始めたのがいつだったのかは…思い出せないな。ただ、ひとつ確かなのは、当時は誰もそれをフィニッシュに使っていなかった。キラー・コワルスキー? 確かに彼もニードロップを使ってはいたが、あれはスネやカカトが当たる時がある。俺のニードロップは、必ずヒザを相手に突き刺す。その意味では別の技だと思っている。

ヨシワラカンパニー(国際の社長は吉原功氏)でキムラさん(ラッシャー木村)とケージマッチをやった時も、コーナートップからニーを落としたら観客が大興奮した。ほかにもへッドバットを多用してみたんだが、どう見てもニーの方が興奮している。そのうちジプシー・ジョー=ニードロップというイメージができたから、それはもう使い続けるしかないだろう。客はそれが出るのを見に来ているんだから」

彼を知る者であれば誰もが代名詞と認識するイス攻撃受けとニードロップは、いずれも日本における試合が大きく影響していた。このような過程を経てジョーは全日本の常連外国人となり、記憶に残るレジェンドの仲間入りを果たした。

ここから先は、TAJIRI戦をリポートした私のブログに加筆・修正したものを転載することで、ジョーの過去と現在を結びつけさせていただく。2010年12月11日、我々がSMASHで聴いた、放浪の殺し屋が奏でるボヘミアン・ラプソディーを――。

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大会前々日の記者会見で、ジョーさんは右ヒザの負傷と右足小指の切断について明かした。まず、TAJIRIもいきなり見せられ息を飲んだ足の小指は2年前に化膿した。試合中のケガによるものではなく、なんらかの原因でばい菌が入り、年齢による免疫力の低下で思いのほかヒドい状態となってしまったらしい。

ジョーさんがジョーさんらしいのは、大きく腫れあがった指を見て「これは中に血が溜まっているんだな」と思い、病院へいかず針で小指をグリグリとやったこと。想像しただけで痛みを覚えるが、それで治るならばと無茶をした。

ところが、血も膿も一滴たりと出ない。おかしいと思いようやく病院へいくと「これはとんでもない状態ですよ! 小指を切断しなければ、ここから全身にウィルスが回って確実に死にます」と診断された。

さすがの放浪の殺し屋も、まだプロレスを続けたいのに死ぬわけにはいかない。「OK、ひと思いに切ってくれ」と言って、切断手術を受けた。現在もその個所が痛むらしく、一日1粒の鎮痛剤を常用している。

ジョーさんが痛み止めに頼るもうひとつ理由が、右ヒザだ。韓国での試合中に攻められてジン帯がイカレてしまった。それは、十八番であるダイビング・ニードロップを打つ方。常識的に考えたら、もう出すのは不可能となる。

にもかかわらず、今もニードロップをフィニッシュとしている。「観客が“ジプシー・ジョー=ニードロップ”というイメージを持ち続け、見られるのを期待するかぎりは出さなければならない」が、そのプロレス哲学だからだ。

「そうはいっても、ヒザの負担をできるかぎり抑えるために今はセカンドコーナーからしか出せなくなった。ヨシワラカンパニーで試合をした時、ケージの最上段からニーを落としたが、今の俺にはハッキリ言って無理だし、それどころかトップコーナーからもやれなくなっちまった。でも、客がそれを望んでいるならば、たとえ最上級のものではなくとも現時点での最高なものを出さなければならない。タジリとの試合で俺は、セカンドコーナーから最高のニードロップを突き刺してやるよ」

日本のファンはダイビング…つまりはコーナー最上段からのニードロップを見たいと思うだろう。その願いに応えるべく、ジョーさんは狙う気でいた。

TAJIRIとのレスリングによる会話に何かを感じ、セカンドではなくトップまで登り出したら…もう、その時点で観客は涙腺が決壊するに違いない。

プロレスのリングは、そしてファンの声援は時として選手自身が想像し得ない力を与える。ジョーさんだって、あの頃のようにトップコーナーからニーを落とせたらと願っている。TAJIRIと観客と、本人の思いが結集した瞬間、奇跡は起きる。

たった数十センチの違いであっても、ジョーさんが登るセカンドコーナーとトップコーナーの間には、これほどの大きすぎる違いが存在する。1992年2月、W★ING後楽園ホール大会でおこなわれたポーゴとの金網デスマッチのタイトルは「ジプシー・ジョー10年ロマンス」だった。

TAJIRI戦でジョーさんが、トップコーナーまで登ってダイビング・ニードロップを成功させれば「77年ロマンス」が現実のものとなる。放浪の果てに、ジョーさんは夢を見るか――。

そして当日。開始前にSUNAHOリングアナウンサーが「ジプシー・ジョーさんの試合を見たことがある方はどれぐらいいらっしゃいますか?」とアンケートをとったところ、手を挙げたのは600人(主催者発表)中20~30人ほどだった。つまり、新宿FACEへ足を運んだ方のほとんどは放浪の殺し屋を情報でしか知らない。

まさに伝わった説…伝説としての対象であり、深い思い入れを持たず「いったいどんなものなのだろう」という感じで臨んでいたはずだ。だからこそ、そうしたジョーさんを知らない現在のプロレスファンが見た時に何を感じるのか、さらに興味が増した。


TAJIRIの入場後、流れてきたのは5月に他界されたラッシャー木村さんが国際末期と新日本に乗り込んだはぐれ国際軍団時代、そしてファミリー軍団でも使っていた『Rebirth of the beast』だった。このチョイスは素晴らしい。

私は、W★ING参戦時の曲を予想したのだが、TAJIRIは当時を知る識者にいろいろとリサーチした結果、この曲をかけようと思ったのだという。確かに、木村さんのテーマであると同時に国際プロレスのイメージにも合っている。アントニオ猪木と抗争を繰り広げていた頃、毎週金曜の夜にかかっていたほどだから、そうした印象が強く残っているのも当然だった。

木村さんと金網デスマッチで壮絶なる激闘…イマっぽい言い方をすればハードコアな試合を繰り広げたジョーさんは、そのテーマが流れる中を放浪の殺し屋よろしくしばしリングサイドを徘徊し、ロープをくぐる。イスを1脚持ちながら姿を現した時点で、腕や脚が少年のように細くなっているのがわかっても、たたずまいはプロレスラーのそれだったから観客はどよめいた。



77歳の肉体ながら眼光は鋭く、構えにスキがない。そして開始のゴングが鳴らされると軽く体の前に伸ばしていた両腕でロックアップにいき、TAJIRIの腕をむんずとばかりにハンマーロックで捕える。そこからグラウンドに移行するとアームバーへつないだ。



29歳でデビューし、48年間もの歳月をかけて体に染み込ませてきたレスリングによって、ジョーさんはTAJIRIと時空を超えた会話をしていた。2日前に取材したさいは少しばかり耳が遠くなり、古い記憶が消えていて言葉が出てこないところもあったのだが、声を発するより何倍も雄弁に見えた。



スタンドに戻るとTAJIRIの胸板にチョップを放ち、その後は場外戦へ。SMASHでは旗揚げ以来、欠かさずキニョネスさんの遺影が本部席へ飾られている。

そのビクターが微笑む背中越しに、TAJIRIとジョーさんが乱闘を繰り広げている。SMASHだから、3人が同じ空間に集えた。

場外戦から戻ると、ジョーさんはコーナー下に置いてあったイスを持ち込み、振り上げる。TAJIRIが距離を広げ攻撃を受けないようにすると、すべてを理解しているかのごとくスペシャルレフェリーを務める遠藤光男さんがそれを取りあげ、相手に渡した。

ジョーさんにとって、イスは使うのでなく使われるためにある。そしてTAJIRIは…思いっきり振りかぶり、その脳天へ振り下ろした。



「世界に一羽しかない朱鷺(トキ)を扱うような緊張感でした。やっぱりそれ(イス攻撃)によって死ぬ可能性があっても、ジョーさんはやると思った。だから僕も、覚悟を決めないといけない」

考えてみてほしい。誰が愛してやまぬ77歳の頭をイスで貫けるだろうか。たとえジョーさんがプロレスラーであり、今なおそれをウリにしていると理解はできても、ためらいがあって当然だ。

それでもTAJIRIはイスでぶっ叩いた。そこで手を抜いたら、ジョーさんの伝説に泥を塗ってしまうからだ。文字で書けば「プロレスラーがプロレスラーの頭をイスで殴った」と簡単に済まされてしまうが、言葉などでは表せぬ凄みが、2人にはあった…そんな瞬間だった。

ジョーさんは、2脚のイスの底を抜いてしまった。それでも倒れることなく「もっとやって来い!」とばかりに身構えた。



「この前、試合をやったばかりなんだが、その時もアタッシュケースの角で頭を殴られた。でも、血は出なかった。それで大丈夫だったのかと思って頭をかいたら、バラバラッと肉片のようなものが落ちてきやがった。頭を殴られること自体は耐えられるが、さすがに最近は歩く時に体のバランスがとれなくなってな」

取材時に私へ見せた頭頂部の傷はこの攻撃によりパックリと開き、血が湧き出てきた。長年のダメージが脚の神経に来ているのと、右ヒザの負傷によって歩くのもシンドい現実を、TAJIRIは前々日の会見へ向かうさいに偶然目撃してしまったと言っていた。

「ジョーさんはニードロップをやるって言っていたんですけど、ヒザがボロボロで…サポーターも僕が貸しました」

「トップコーナーは無理だが、セカンドコーナーからだったら…」と言っていたものの、TAJIRIの話を聞くと本当はそれさえも出せる状態ではなかったのだと思う。しかし日本のプレスの手前、観客が期待してやまぬニードロップを打てませんとは、口が裂けても言わない。

最後の最後まで、放浪の殺し屋の得意技はニードロップだと言い張るのだろう。

イス攻撃を受けきり驚愕させた直後に、ジョーさんはグリーンミストを浴びて丸め込まれた。ニードロップ・ドリームは見られなかったが、TAJIRIの呼びかけによってリング内へ上がってきた選手たちがスタンディングオベーションで称えるその空間には、77年ロマンスが確かに在った。



私は、プロレスが好きでもレスラーになろうと思ったことはない。あんなに厳しくて辛い練習など、自分のような人間には到底不可能であるのがわかっているからだ。

そんな私でも、プロレスラーが心底羨ましく思える時がある。この日のTAJIRIのように、自分が愛したり影響を受けたり、あるいは心の底から尊敬したりする先人と直接肌を合わせることによって会話ができる特権。

こればかりは、数えきれぬほど試合を見てこようが、フロントとして団体に携わろうが不可能。同じプロレスラーだからこそ、このような形で敬い、輝ける舞台をプレゼントできるのだ。

TAJIRIは、SMASHという自分の器を作ったことでファンの頃に感動を与えてもらった神々たちを迎え入れられるようになった。2008年のレッスルマニア24で引退したリック・フレアーを、翌日のロウにおけるフェアウェルセレモニーで進行役を買って出て盛大に送り出したのは、トリプルHだった。

心を揺さぶられてたまらなくなるぐらいに愛する人間国宝級のレジェンドに対し、そこまでやれるのはプロレスラー冥利に尽きる。あの日のトリプルHが、ジョーさんを抱き締めるTAJIRIと重なった。

サポーターが施されていない方のヒザをキャンバスにつけて、ジョーさんはTAJIRIとSMASHと、日本のファンに感謝の意を述べた。そして、まだまだやれると言わんばかりに、か細くなった右腕で力こぶを作ってみせた。



本当にカッコいい人間とは、こういうことをいうのだろう。この日、有明コロシアムで開催されたK-1グランプリでは、40歳のピーター・アーツが決勝戦まで進みファンを熱狂させた。西の大阪府立体育会館ではIWGPヘビー級王者の小島聡が、中邑真輔と激闘の末に防衛を果たした。

それぞれに、それぞれの満足感や感動があったと思われるが、ジョーさんが奏でたボヘミアン・ラプソディーを聴けたのは、新宿に集った600人だけのかけがえのない宝物だ。肩車されるとスポットライトが浴びせられ、スクリーンには放浪の足跡をイメージした映像が流れる。TAJIRIは、マイクを握らなかった。

思いのたけはいくらでもあったはずなのにアピールをグッと抑えた。観客のひとりから贈られた花束を受け取ると、ジョーさんは座り込んで両手を合わせ、天を仰いだ。 

「日本のファンは、もう俺がサンタマリアのところへいったと思っていただろう?」

2日前の取材における第一声がそれだった。この時も同じように、ジョーさんは手を合わせていた。

どうやら、長きに渡るジプシー人生をこのトシになっても続けていられるのは、マリア様のご加護を受けているからだと信じているらしい。家族のもとにさえ留まらずに流浪を続けたジプシーが、最後の安住の地として選んだのはSMASHだった。

バックステージでのコメントを終えると、報道陣から自然発生的な拍手を贈られた放浪の殺し屋。それから30分ほど経って、会場を出るべく控室のドアが開けられたままとなっている前を通り過ぎようとしたところ、こちらへ気づいたジョーさんはイスに座ったまま寄りかかっていたカベに後頭部をガンガンと打ちつけ始めた。

慌ててスタッフがやめさせたが「俺はまだ耐えられるぜ!」とのアピールだったのは明白だった。観客が見ていないところでもジプシー・ジョーであり続けようとするそのプロ意識…世の中にはこんなにもカッコいい77歳がいることを、プロレスというジャンルは誇るべきなのだ。

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「今のレスリングスタイルがベストだとは俺は思わない。何よりオリジナリティーがないな。俺が若い頃は手本となるものがあったとしても試合の中でほかにないものを求めたものだった。高い服を買っても似たようなものだったら個性など出ない。俺なら自分だけ安い服を買う。その方が目を引くからだ。レスリングがショービジネスなのは理解しているが、ショービジネスはグッドとバッドの2つで測れるようなものではないのだ」

ジョーが滞在した間に聞いた言葉の中で、なんとなく引っかかった一節が今も脳内でゆっくりと旋回し続けている。彼は、オリジナルであり続けるために人生を放浪してきたのではないか。

そんな結論めいたものが浮かんできた。かくしてジプシー・ジョーは、他の誰にも描くことができぬ一代限りの壮大な大河ドラマとなったのである。サンタマリアの御加護を――。