私は医者という仕事をまっとうしたいので患者の立場には立ちません 獨協医科大学神経内科 小鷹昌明 | kempou38のブログ

私は医者という仕事をまっとうしたいので患者の立場には立ちません 獨協医科大学神経内科 小鷹昌明

私は医者という仕事をまっとうしたいので患者の立場には立ちません

獨協医科大学神経内科
小鷹昌明 (おだかまさあき)


難病の患者から、「あんたみたいな健康な医者に、俺の苦しみや恐怖がわかっ
てたまるか」というようなことを言われたと仮定する。そんなとき私はこう答え
るであろう。

「おっしゃるとおりです。私は健康ですし、あなたではないのですからあなた
の苦しみや悲しみを体験することもできないし、本当の意味ではわかりません。
しかし、私もこの世界で十何年生きてきて、自分なりに過去の悲しい経験を基に
あなたのつらい気持ちを推測するべく日々努めています。医師とはそういうもの
であると、いつも自分に言い聞かせています。しかし、仮に私があなたと同じ気
持ちを体験できて、同じくらいに苦しんでいたら、きっと私はあなたのために知
恵を絞ることも、悩みを聞いてあげることも、優しくすることもできなくなるで
しょう。"一肌脱ごう"という気持ちの余裕もなくなるでしょう。それこそあな
たと同じ、自分のことで精一杯になります。だから今の私は、あなたより苦痛が
軽くなくては使命を果たせないのです」

また、脳卒中で入院した患者から、「たばこを減らせ、酒をやめろと言う医者
には腹が立つ。もしやめることによって、俺の命が1年延びることが保障される
のならやめてやってもいいが、その保障もできないくせに何度も同じことを言う
な」というご指摘も受けたことがある。まったくその通りである。医療が不確定、
不確実であることを逆手に取って批判される。医療行為に確実性がないのであれ
ば、仮に医療を厳守したからといって病気が回復する可能性もまた未知なのであ
る。そんなとき私はこう答えるであろう。

「おっしゃるとおりです。たばこを吸うと一定の割合で脳卒中再発の危険が増
えることは証明されています。しかしながら、私も過去の経験において、治ると
思っていた患者が急死したり、もうだめだと思っていた患者がすっかり良くなっ
たりする人などを診るにつけ、仕事柄、科学というものがいかに頼りないかとい
うことを身をもって体験しています。したがって、あなたがどうなるかは誰もわ
かりません。医者の責任逃れと都合で、"たばこは減らした方がいいですよ"と
言っているだけです。守るか守らないかはあなた次第です。しかし、病気になっ
たことでひとつのけじめを付けてもいいのではないかと考えています。たばこや
お酒を今まで通りお続けになれば、以後のあなたの人生はきっとどこかで投げや
りな気持ちになり、安易な方向に流れやすく、いざというときに、"どうせ"と
思う気持ちになってしまうような気がします。それは、人間の営みから感激や情
熱といった包容的な要素が欠落してしまうような気がしますから、ここはひとつ
騙されたと思って、禁煙に取り組んでみる価値はあるのではないですかと提案し
ているだけです。ちなみに私は、若い頃はたばこを1日40本くらい吸っていまし
たが、医者になってから肺癌患者を診てやめようと思いました。息ができないで
苦しそうにしている患者と何日も過ごしたことで、考えを変えました。今はとて
も健康的でいられます。」

私は、患者に対して同情することはあっても、その一方で「基本的には悪くな
る病気なのだから、現状が維持できるのならばそれでいいではないか」とか、
「現状を受け入れないとその先には進めないではないか」と思うことも多い。実
際にその旨を告げることもある。理解が得られるように、伝えるための様々な思
考を凝らす。が、しかし、最終的には身も蓋もない発想にしかならない。

一方、医師に対して患者が要求することは、「患者は医師にとって回答し難い
(すなわち、治る見込みのない)不安や悩みに対する質問もするが、医師からは、
ごまかしのない率直な人情味のある答えを、しかも悲観的でなく絶対的な希望の
もとで語って欲しい」と思っている。ごまかしがなく人情味があって、しかも悲
観的でない、というところがややこしい。医師は、このややこしさに正面から向
き合って試行錯誤している。

とはいえ医師の大半の日々は仕事に追われている。医療の中での自分の立場な
どという抽象的な話題には興味はないし、本来考えたくもない。忙しい医師にとっ
て限られた時間をどう使うかといえば、自分が本当に興味のあるものにしか取り
付かない。新聞や本などもろくに読まない。基本的にリラックスできる環境を持
ちたがるために、テレビは深夜放送かスポーツかバラエティーしか見ない(私は
ひねくれているのでテレビは1週間で2時間くらいしか見ないが)。医療事故や医
療訴訟など所詮他人事である。こういう感覚の医師がマスコミ報道を見て何を感
じるかといえば、特別なことは何も感じない。ただ国民に不安を煽っているとし
か思えない。不眠症の訴えでくる患者の気持ちなど、疲労困憊して今にも倒れそ
うな内科医には所詮理解できない。

私は、大半の医師は普通の人間であるということを特に強調したい。聖人君子
たる人格を求めることはしない方がいい。それを求めたい気持ちはよくわかるが、
あまり大きな幻想は抱かない方が身のためである。その一方で、私が見る限り今
の医師は昔に比べれば驚くほど頭の良い連中が多く、道具も器用に使いこなす。
彼らは技術を磨くことに関して精一杯の努力をしている。だから、昔だったら思
いもよらない術式をあみ出したり、難易度の高い手術をこなしたりする医師が登
場しているのである。そのように技術を磨くことに躍起になっている医師から聖
職的な人格を求めることは不可能である。それは、昼夜を問わず新製品の開発に
明け暮れている技術者に、「営業の一線に立って顧客の心理をつかみ、社内一の
営業成績を上げろ」と言っているのに等しい。でも安心して欲しい。そんな研鑽
を積んでいる医師は、自分の技能が最大限に発揮されて、最大の効果を患者に還
元できることを最大の喜びとしているのだから。

さて、医師にとっての目標というのは何であろう。会社員であれば売り上げを
30%伸ばすなどの明確な目標を掲げやすい。私は考え込んでしまう。"売り上げ"、
そんなことを言ったら非難される。"病気をすべて治す"、そんなことを考えて
いたら、自分の無力感ですぐに潰れてしまう。"業績"、それもあるがすべてで
はない。"患者の立場に立って考える"、なんとなく正解のような気がする。

では、"患者の立場に立つ"ということについて考えてみる。確かに、研修医
の頃「患者を自分の親か兄弟だと思って診察しろ」と教育された。指導医から
「大丈夫?」と尋ねられて、てっきり自分の体調を気にして言ってくれているの
かと思い、「ありがとうございます。自分の体調は悪くないっス」と返答したが、
「お前の体調ではなく、患者の具合だ」と言われてがっかりした記憶がある。し
かし、その一方で、「自己管理もできないのに、患者のための診療なんかできる
か」とも注意された。

両者は矛盾するような気がする。先に、「医療の中で自分の立場などには興味
がない」とも述べたが、患者の立場に立つのが先なのか、自分の立場を確立する
ことの方が優先されるのかわからない。最近では、"患者の立場ばかりに立って
いたら決定的な決断はくだせない"という考えに落ち着いている。患者の気持ち
をすべて理解することはできない。医師に重要なのは、患者の立場に立つことで
もないし、自分の立場だけを優先するものでもない。"自分の立場で全力を尽く
すこと"、ただそれだけである。その代わり、"患者の立場にはけっして立てな
い"ということを自分自身に言い聞かせている。それができれば欺瞞にはならな
い。

私の診療科であつかう神経難病の中には、アルツハイマー病や筋萎縮性側索硬
化症など、現代の医学ではどうしようもない疾患がある。そうした患者の苦痛は
大変なものである。難病患者は受け入れるしかないことも事実である。医師側か
らしてみると、もう諦めた方がいいと思う患者が実際に存在する。死を受け入れ
る心構えの涵養は、本来医師の仕事ではないし、政治や経済の仕事でもない。
「手助けはするが、患者自らが学んで行くことである」という立場で医療を考え
ている。

「患者の心理を汲み取れないような医者はダメだ」と思われた読者がいたかも
しれない。そんな医師を否定する人もいるであろう。私もこんなご時勢だから保
身に走り、いろいろと医療の負の側面に目を向けることがある。でも、最終的に
私の気持ちに芽生えることは、「でもやるんだよ」という意志である。単純かも
しれないが、「医者の端くれなんだよ」という気持ちに突き動かされている。
0.169 / Virus Database: 270.6.21/1677 - Release Date: 2008/09/17