母にエホバが入ってきて、私にエホバが入ってきた原因は、母親の弱さにあり、私にもエホバに反抗しきれなかった弱さがあったのだと思う。
人間なんて、実は受け身の生き物。
魂の入れ物にすぎない。周りの世界をいっぺんに変えるほどの大きな力を持っているわけでもない。
ゆえに何を選び、何を捨てるかを、自分で判断できないこともあっただろう。
だが、そんな判断さえできないほどに、理性的に狂っていたのも、当時の母の責任であり、やがて、エホバを受け入れるかどうかを検討し、受け入れるかどうかを決断する時期を迎えたのに、エホバを受け入れてしまったのは、息子である自分の責任である。
なので、エホバに関わる全てに恨みをぶつけるのではなく、エホバを受け入れてしまった、当時の自分自身にも、それなりの弱さがあったのだ、と今は思う。
しかし、今は、エホバよりも、ずっと大きな世界を受け入れている自分がいる、そして、世界に生かされ、こうして情報発信をしている自分がいる。そのことに大きな喜びを感じる。
そして、私が何かをやって、世界を変えてやろうではなく、私の中に愛が入ってきて、私が変わるから、周りも変わっていくという見方をしたいと思う。
結局「自分は絶対に間違ってはいなくて、相手が絶対的に間違っている」という考え方は、他者をコントロールしようとする点において、極めて暴力的な考え方であり、極めてエホバの証人的考え方でもある。
そして、究極的には「自分が自分であろう」とすることの欲望こそ、人間の最大の欲望である。
一方で、自然に生かされる自分は、時とともに必ず移り変わっていく。
だから、「自分はこうだ、こういう人間だ、変化することはない」と強く自己規定して、殻の中に閉じこもってしまうのは止めよう。
それが人間の大きな欲望であり、苦しみでもあるからだ。
だから、本当の「私」は常に受け身で、そこにいろんなものが影響してきて、それによって一歩づつ前に進んでいるのだ。
そういう「受け身」の考え方こそが、真に積極的な姿勢であり、他者や世界に対して、開かれた存在となりうるのではないか、と思う。
他者への非暴力や寛容の思想を取り入れていくことは、世界に開かれる存在となる、と同時に、自分の欲望にメスを入れていく、ということにもなる。