昨日までの私のライフストーリーに、そして、私の母親像に深いショックを受けた方々がいるかもしれないが、全ては事実なのであり、仕方がなく変えがたい現実だったのである。
私の母親は、JWになる以前から少しも母親らしいところがなかったので、私と血は繋がっていたが、私にとっては「本当の親」などではなく、赤の他人のようだった。
いやむしろ、世間に野放しにされ、好き放題に子供を暴行する単なる虐待者でしかなかった。
たまに、私が怪我をして帰ってきても、母親から手当をされたという記憶はほとんどない。
そして、たとえ手当をしたとしても、傷口にしみる薬を強く塗りつけたり、包帯で強く締め上げたりして、後から非常な痛みが伴ったので、それ以来、私は自分の体を母親に一切触らせないようにしてきた。
そして、どんなに大きな怪我をしても、手当や包帯を巻いたりすることは、いつも自分でするようになった。
また、母親は子供のために、三時におやつを作ったりすることはほとんどなかったので、よく自分自身でおやつを作っては空腹を満たしていた記憶がある。
なぜ、母親が幼少期の無力な自分のことを、あれほどまでにひどく憎んでいたのか、その理由はずっと分からず仕舞いだ。
そして、私の中にこの母親と同じ血が流れていると思うだけで、私は大変に嫌な気分になるし、願わくばそうでなければいいのに、とさえ思ってしまう。
またかつては、この母親の元に産まれずに、友達の母親のように優しい別の母親の元に、産まれてくれば良かったのに、と思うこともあったが、そればかりは願っても変えられない自分の運命であり、仕方のないことだった。
ただ、この母親に対して、自分を産んでくれたことにだけは感謝している。
それによって、私は今でもこうしてなんとか生きる喜びを見出していて、それなりに人生に幸せを見出せてもいるわけなのだから。だが、それ以外の感情は一切ない。
何しろ産まれた頃から、私は母から愛情を一切受けてこなかったわけだし、ましてや母がエホバの証人になってからというもの、常に「神の王国」が生活の中で、第一位の位置を占めるようになったので、その傾向はなおさら強化されていったからだ。
私は、過去において母から見せかけの優しさを示されたことはあったが、心のこもった本当の優しさを感じたことは一度もなかった。
ある人は、私を寂しい生い立ちの人間だと思うかもしれないが、自分の世界には最初から、どこにも母親の優しさなんてなかったのだから、寂しいとは思わなかった。
ただむしろ、JW以外の他人の家庭を見ては羨ましく思ったり、自分自身の辛い境遇に悲しみを覚えたりすることはあった。
私が幼子だった当時、自分のことを守ってあげられるのは、非力な自分だけだったのだが、それがいつもうまくいくとは限らなかった。
母親が強い力で私の体を引っ張ったり、叩いたりしてくる時は、全く無抵抗で無防備な状態だったので、いつもされるがままだった。だから、母親から暴行されるのをただただ黙ってずっと耐えていくしかなかったのだ。
ただ、こうして誰にも守られることなく、常に自分の身が危険にさらされることは、日常においては、当たり前のことだったのでそれをひどく辛いと思ったことはあまりなかった。
親からの暴力を受けた後は、ある程度、怪我を負いはしたが、大怪我をしなかっただけでも、むしろラッキーだったと自分で思っては喜んでいた。当時は、自分の中の幸せのレベルが極めて低かったのである。
だが、母からどんなに虐待されても、へこたれない私の姿が、母親にとってはかえって気にくわなかったらしく、虐待がさらにエスカレートすることもしばしばだった。
そういう時には、私はただただ、その時間だけでも早く過ぎて行きますように、と心の中で祈っていた。
こんな境遇で育った私は、大人になってからも、他人を心から信頼することができなかったり、他人の優しさや愛情を素直に受け取ったりすることができず、咄嗟に遠慮して跳ね除けてしまったりしてきた。
そういう癖は、未だになかなか治らないものなので大変に困りものである。
こうした幼少期の辛い経験は、エホバの証人を母親に持つ2世の方々に共通しているのではなかろうか。
JW2世の他の皆さんは、幼少期に幸せだったという体験はあったのだろうか。機会があれば各人に尋ねてみたい。
あの辛い時期を生き抜いた、というサバイバーとしての共通の体験がベースとなって築かれるJW2世同士の親交というものも実際にあった。
私と同じ世代のJW2世たちのかなりマイコンな母親たちは、皆さんだいたい怖そうだった。
だから、JW2世で集まるとたいていは親から受けた異常な懲らしめについての話題になり、その場に、変な連帯意識というものがよく生まれたものだ。
他のクリスチャン二世達から、母親の懲らしめの厳しさを聞くにつけ「あぁ、この人も自分と同じような境遇で育ってきたんだな」と変に共感したり、安心したりしてしまうことはしばしばであった。
だが、それも極めて歪な共感なのだ。
それらの体験も、エホバの証人の親元に生まれて来ることさえなけば、決してしない体験でもあるわけなので。