映画「昼顔」のエピローグに代えて | 映画探偵室

映画「昼顔」のエピローグに代えて

Möbius strip(メービウス・ストリップ)

Mobius strip 読者の皆さんが感じた 謎は解けただろうか? ブニュエルは数々の謎を投げかけて読者に挑戦しているが、文章化(命題化)できる形では決して回答を与えていない。左に掲げたメービウスの帯のごとく、辿っていけば答えはいつか反転してしまう。そして、この環が数学では「無限大」の記号に使われているのだ(注1)。

ここでエピローグに代えて、探偵の感じた主な謎と、その答への推理を疲労、じゃない、披露したい。これは探偵からの読者への1つの問いかけでもある。



1.馬車は何処から来て、何処へ行ったのか?

  狐右近氏が指摘している通り、この馬車が人間の、特に女性の一生を象徴するものであることは疑えない。黒人霊歌「Swing low, sweet chariot]の馬車であり、Oh when the saints go marchin’ inで歌われているお迎えの馬車である。しかし、この映画に限って言えば、それだけではない。なぜ最初に若夫婦が乗っており、最期には2人ともいなくなっているのか。そしてそれを見ているのがセヴリーヌだけなのは何故か。

ヒントはあの馬車の出発点となった館である。おそらくパリ近郊の有名な公園の直ぐ傍にある館、から判断すれば、元貴族(あるいは現貴族)もしくは大ブルジョアの館であると想像できる。探偵の疑いは、それはピエールの実家ではなかったか、ということだ。だとすれば、若い夫婦が何を言われてきたかは想像がつく。「子供はまだか?」であろう。 そして、最期に空の馬車を見るセヴリーヌが満ち足りた表情をしているのは、単に自分の運命を受け入れただけでなく、おそらく妊娠に気づいていた(あるいは実現可能性を強く信じた)からであろうと察せられる。つまり、夫婦から新しい生命へのリンクが出来上がったのだ。大げさに言えば、これで輪廻が成ったのである。
血の轍 キリスト教ではこのような仏教的「業」を「血の轍」と呼ぶ。知る人ぞ知る
Bob Dylanの有名なアルバム名である


馬車が通り過ぎた後、FINのマークが消えたあとも延々と続くこの画面は「血の轍」そのものではあるまいか?


注1:Wikipediaメビウスの帯

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%93%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%81%AE%E5%B8%AF

さらに数学的に極めたい読者は下記を参照ください。

http://mathworld.wolfram.com/MoebiusStrip.html

3.靴下の穴の意味するもの

  靴下の穴が心の「空白」もしくは「欠損」を象徴していることは大方の読者の予想どおりと思われる。しかし、わたしはブニュエルの旧来からの思想と、セヴリーヌが乗り越えなければならない壁もしくは溝という観点から、別様というか、直接的に解釈した。映画の中でセヴリーヌは明らかにマルセルに恋している。幸いなるかな心貧しきものよと聖書には書いてある。「心貧しきもの」とはイエスの教えが心の中にない、最も不信仰なもの、という意味である。イエスは、そういう人から真っ先に救われる、と言っているのである。親鸞の「悪人正機説」である。全共闘時代のわたしの古い友人はこれを資本論の言葉と解釈した。「幸いなるかな、銭(ゼニ)貧しきものよ」。つまり、マルセルはセヴリーヌの世界にはいない男で、プロレタリアあるいはそれ以下のアウトサイダー、下衆(げす)(2)だったのである。セヴリーヌの側からみれば、そのような男に身を任せることが、自分という壁を乗り越えるために必要だったのだ。欧州世界は未だに強固なブルジョアジーの世界である。イギリスやフランスで実際に生活した人には分かる。


2:マルセルが義歯であるのは、「歯に注目せよ」というブニュエルのサインだと思う。フロイドの夢解釈では「噛む、噛み付くという行為」あるいは「歯そのもの」が性行為を意味するとされている。

  日本人はバブルがはじけるまで自分たちは中流だと錯覚していたらしいが、ブルジョアジーの訳語が「中産階級」であることをご存じないと見える。日本にはその正しい意味での階級社会はない。日本の金持ちなど、世界の富豪に比べればタカが知れたものである。欧州は依然として階級社会だ。ブニュエルは死ぬまでブルジョアジーを敵と看做し、ひるむことなく戦い続けた。同じことはジョージ・オーウェル、アラン・シリトーやDH・ロレンス、ヘンリー・ミラーなどについてもいえる。わたしには身分というものの上に立ってふんぞり返るブルジョアジーを敵と思わない芸術家がいるとは思えない(注3)。高度資本主義の時代とはいえ、それは変らない。ブルジョアジーに属するピエールでは、セヴリーヌは決して本物の愛をまっとうできなかったのではないか。わたしの考えは古いかもしれない。しかし、この映画の制作は1967年であり、当時世界中で「社会主義的な」学生運動が展開されていたころである。スペインはまだフランコ体制(ファシズム)の下にあったのである。もちろん、これは1つの解釈に過ぎないが。


3:過去にブルジョアジーの財力で支えられて来た芸術が無価値だ、と言っているわけではない。作品がブルジョアジーに捧げられたのでは意味がない、と言いたいのである。映画中マルセルが腹いせ壁の絵を叩き壊すシーンがあったり、ピエールの家の壁にさりげなく現代絵画がかかっていたりするのを見ると、ブニュエルの気持ちが表れているような気がする。同じスペイン人のホアン・ミロはかつてこう言ったことがある。「僕の絵は人民が歩く道や、生活の場に置いてもらいたい。彼らがその上を歩いたり、触れられるように。僕はすべてのブルジョア的なものに糞っ、と言って死にたいね。」

4.セヴリーヌはなぜ刺繍をしていたか?

  結婚を控えた女性がその夢を託して刺繍し、それに周囲の人間がひとつずつ針をいれて祝う、という千人針のような風習が欧州では古くからある。また、出産の準備として母親になる女性が刺繍をする習慣もある。映画では単に暇つぶしのように描かれてはいるが、その背後にはこんな意味も隠されている、と私は言いたいだけ。「夢」として語られている数々の背徳的ともいえる性の領域もすべて、生命の連鎖を支えるトータルな女性の「性」、トータルな「生」だからである。たとえそれが昼間の意識からみれば「闇」の領域であろうとも。それらが全面的に解放される、つまり自由にならなければ真の平等社会は生まれないだろう。女性は子宮で思考する、と誰かが言った。子宮は内在する宇宙そのものだ。それに比べれば男なぞ、タダのたねたね、もとい、赤ん坊に過ぎない。

5.ピエールはなぜ泣いていたのか?

 この問いは原作を読んでいない人には最も分かりにくいところだと思う。しかし、これを独立した映画としてみた場合も、恐らくその暗示は殆ど同じ意味なのではあるまいか。

冷感症を克服しようとして身も心も投げ打って努力する妻を前にして、あくまでも優しい夫であるしかなかったピエールの涙である。男と女の肉体的交わりを支配するのは交感神経である。生物学的に言えば、男性の性欲は攻撃本能であり、つまりは権力の行使であるほかはない。皮肉なことに、女性の側での快感の頂点、喜悦の本質は受動もしくは許容であるにもかかわらず、生理的ナメカニズム上は交感神経によるものであるという。これを悪として遠ざけたのでは、愛が成立しないのだ。なんという矛盾。ただただ優しいピエールではセヴリーヌを頂点まで導くことはできないことになる。それに気づいてピエールは泣いたのだ、と探偵は推理する。「性」は動物的な自然本能ではなく、常に「人間の性であり、意識」だからである。もう1つの矛盾は、絶頂感が死と同義であることにある。人間存在である「自我」が消滅する際の快感(つまり、タナトスである。セックスにおいてはもちろん、擬似といわなければならないが、しかし限りなく近い代理体験)である。あらゆる背徳的な、自己毀損的な衝動もここにこそ原因がある。「死ぬほどの屈辱、汚辱にまみれたときに快感が訪れるのである。映画では謎の箱をもってくる東洋人が登場するが、その含意はバタイユの言わんとすること、「塗れ(まみれ)なければならない」と同じであると思う。

 しかし、映画ではもう一段階反転されている。そこまで自分を低くするのは快感を得たいためでなく、その自己犠牲をピエールに対する愛の証としていることである。低くすることの要素の中にはマルセルへの恋心さえも犠牲にすることも入っている(と思う)(注4)。ユッソンの役割が「導師」であるのはわかるが、メフィストフェレスである可能性もある。いずれにしろ、わたしの深読みかもしれない。

4:自分を徹底的に貶め、辱めることがある唯一者への愛の証である、という論理は「O嬢の物語」(渋沢龍彦訳)でのテーマである。通常「犠牲」とは至高者に捧げられるものであり、他者を(自己をではない)宗教的に救済するための手段の1つとされているが、神なき(あるいは神を否定する)時代にあっては、愛の対象である人間に向けられることもある、のかも知れない。仏教での「捨身」はこれとは少し違い、宗教的な救済を得るために仏の化身に身を捧げることである。同じく澁澤龍彦の幻想小説「高丘親王航海記」では、この化身が虎になっている。

5. リンクする作品群

1)もし女性が得て勝手な男性を決して許さないと決心した、という話が同じカトリーヌ・ドヌーブの「哀しみのトリスターナ」(原題はズバリ「トリスターナ」、ルイス・ブニュエル監督)である。ここでは最早ドヌーブが微笑む場面はない。彼女は若い男と駆け落ちした後、片足を失って昔の横暴な男のもとに帰っていく。復讐のために。

) マゾヒズムにどのような意味があるのか、を問うたのが「O嬢の物語」である。この初版本にはマルキ・ド・サドの「ジュスティーヌ」に対するオマージュが描かれている。

) 冷感症よりもっと進んだ「男性拒否症」を描いたのがやはりドヌーヴの「反発」である。

性への恐怖・嫌悪から主人公の若い娘は狂っていく。ロマン・ポランスキー監督。後の「ローズマリーの赤ちゃん」に話は引き継がれる。

) 同一のテーマであるが性への賛美に重点を置いたものにDH・ロレンスの「チャタレイ夫人の恋人」がある。ここでも、ブルジョア性は厳しく「自然」と対峙している。