皆さんおはようございます、菊澤多門です。

戦時中、沖縄は日本に見捨てられた。
なんて言う方々がいらっしゃる。

そんなわけがありません。
沖縄は日本であり、運命共同体です。

72年前の今日は沖縄を守る為に、
戦艦大和で有名な大和艦隊が出撃した日です。


それは天一号作戦という特攻作戦です。

特攻作戦というと、カミカゼ特攻。
飛行機を使った、決死の体当たり攻撃を思い浮かべる方が多いでしょう。

それは菊水作戦という作戦として、
同時に敢行されました。

特攻とは、やられてしまうことを前提に、それでも突っ込んでいく攻撃です。

天一号作戦とは、
なんと世界最大、世界最強の
戦艦大和を 帰りの燃料も積まず、
特攻に使うという作戦です。

戦艦よりも飛行機の方が有利になってきているのに、戦艦大和は飛行機と戦って、みすみす沈められた。

こんな話を聞いた方は、
へぇ〜、そんなこともわからないなんて、
日本海軍はマヌケだったんだなぁ。

と、思われるかもしれません。

大東亜戦争末期、
大日本帝国は、
虎の子であり切り札の、

大日本帝国海軍の大和、矢矧、そして駆逐艦8隻の、計10隻全艦艇を特攻に投じます。

矢矧(やはぎ)?聞いたことないぞ。
と、思われるのは当たり前です。

矢矧は「最後の新鋭巡洋艦」ですが、
機密保持の為に極秘とされていました。

矢矧のスペックには何かと目をみはるものがありますが、中でも、
矢矧が誇る、最高速力 37.5ノット。
これは世界最速レベルだそうです。

大和、矢矧、駆逐艦8隻は特攻作戦を敢行します。

そこにはどんな意味があったのでしょうか。
投げ槍だったのでしょうか?
ヤケクソだったのでしょうか?

この答えは、戦後、奇跡的に生き残った戦艦
長門(ながと)を見るとよくわかります。

長門は、

陸奥と長門は日本の誇り

と謳われたほどの銘艦で、
当時の日本人がこよなく愛し、憧れ、
とても思い入れを持っていました。

1946年つまり戦後、約一年後に、
アメリカがビキニ環礁で、
クロスロード作戦という核実験の

標的艦として

つまり、無残に破壊する為の実験台として、
長門は沈没船にされてしまいました。

とっても大好きな、
貴方のお母様が、
あるいはお父様が、

モルモットのように、

無残に殺す為の実験台として、
扱われたらどんな気持ちになるでしょう。

戦艦大和、矢矧、もちろん駆逐艦にも、
そんな未来が待ち受けていたのです。

また、日本人も敗戦後にどう扱われるのか、
楽観することが、到底出来ない状態でした。

意見は二つに分かれます。

①「航空機の援護がない、いわば裸の艦隊を出撃させるのは自殺行為である」

②「大和を温存したまま敗れるのは無念であり、
また国民の批判も免れない。港に停泊したまま、
敵機の標的になるよりも、出撃して最後の死に場所を与えるべき」

そして、①を理解した上で、②を選ぶという結果になりました。

この時の国の判断を批判する声も聞こえてきます。

私は、
当時に生きた尊い先人たちが、

現代では想像もつかないほどの愛国心を持って、

沖縄の為、遺される我々の為、国を護ることを
考え抜いて導き出した答えをよく噛み締めるべきだと思います。
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矢矧(やはぎ)