五山送り火の起源の謎に挑む | 西陣に住んでます

五山送り火の起源の謎に挑む

西陣に住んでます-五山送り火



今夜はいよいよ五山送り火大文字焼き)ですね[→五山送り火鑑賞ガイド]


ところで、意外なことに

五山の送り火って実はその起源がよくわかっていないって知ってました~?


5つの送り火は、東から


右矢印大文字(右大文字)

右矢印妙法

右矢印船形

右矢印左大文字

右矢印鳥居形


と呼ばれています。


京都五山送り火連合会[website] を要約すれば、
これら5つの送り火の起源についてそれぞれ次のような諸説があります。



メラメラメラメラメラメラメラメラメラメラメラメラメラメラメラメラメラメラメラメラメラメラメラメラ



1大文字(右大文字)


右矢印弘法大師(空海)説(平安時代初期)

大文字山麓の浄土寺が火災のとき、本尊・阿弥陀佛が山上に飛翔して

光明を放った故事を模した儀式を、弘法大師が大の字形に改めた。


右矢印足利義政説(室町時代中期)

足利義政が近江の合戦で死亡した息子の義尚の冥福を祈るために始めた。

大の字形は山の斜面に白布を添え付け、

その様子を銀閣寺から横川景三(相国寺の僧侶)が眺め定めた。


右矢印近衛信尹説(江戸時代初期)

1662年刊行の「案内者」に「大文字は三藐院殿(信尹)の筆画にて」

との記述がある。



2妙法


右矢印日像上人説(鎌倉時代末期)

日蓮聖人の孫弟子である日像上人が、村人に法華経を説き、

一村をあげて日蓮宗に入った(涌泉寺の寺伝)。

そのとき日像上人が西山に「妙」の字を書いた。

また東山の「法」の字は、それより遅れ江戸時代に日良上人が書いた。



3船形


右矢印円仁説(平安時代初期)

山麓の西方寺の開祖の円仁が唐留学からの帰路、

南無阿弥陀仏と名号を紙に書き、これを海に投げて祈ると、

暴風雨がやんで無事帰国することができた。

その故事にちなみ、船形の後光を持つ阿弥陀如来を西方寺の本尊に迎えた。

そしてその船形を模して送り火を始めた。


右矢印疫病対策説(平安時代初期)

疫病が流行した910年の盆に始められた。

東山の「大」に対して、「船」を「乗」と見なして「大乗仏教」をあらわした。


右矢印精霊舟説

水塔婆や供物をのせる燈籠流しの精霊舟を模してはじめた。



4左大文字


右矢印弘法大師(空海)説(平安時代初期)

1665年刊の扶桑京華志と1673~1681年刊の山城四季物語に記載がある。

「扶桑京華志」には「大文字,北山村の西山に火を以て大の字を燃す。

伝えるところ、これまた弘法の筆画なり、左大文字、

京の町より北山をのぞんで左にあるところなり」と書かれてている。



5鳥居形


右矢印弘法大師(空海)説(平安時代初期)

弘法大師が石仏千体をきざんでその開眼供養を営んだときに

点火したことが始まり。


右矢印稲荷大社の灯明説

伏見稲荷大社から見える事から、稲荷大社のお灯明として焚かれた。


右矢印鳥居本関係説

鳥居本にある愛宕神社の一の鳥居を模して始まった。



1660年の絵画「洛外図」には、

「左大文字」を除く「大文字」「妙法」「船形」「鳥居形」の4つが

「七月十六日山火」という記述と共にはっきりと記載されている。



メラメラメラメラメラメラメラメラメラメラメラメラメラメラメラメラメラメラメラメラメラメラメラメラ


・・・ということです。


さて、これら5つの送り火の他に

次のような送り火があったことが推定されています(Wikipedia他)。


「い」(左京区市原)
「一」(右京区鳴滝)
「蛇」(右京区北嵯峨)
「長刀(なぎなた)」(右京区嵯峨観空寺)
「竹の先に鈴」(西京区松尾山 or 左京区静原 or 左京区一乗寺)


これらを地図上にプロットすると次のような感じになります。


西陣に住んでます-五山送り火


ただし、「竹の先に鈴」は松尾にプロットしてあります。

これらの送り火は明治から昭和初期にかけて徐々に姿を消したそうです。


なので、「五山送り火」というのは、わりと新しい言葉であることがわかります。


ここで、これらの送り火の起源を考えるにあたって、

これらの送り火がどちらの方位を向いているのかを調べてみました。


まず、

右大文字については、横線に対する垂線と末広がりの二等分線の方位
から考えて、水色の線の方位を向いていると考えられます。



西陣に住んでます-右大文字


妙法については、文字の並びの線の垂線の方位から
↓ピンクの線の方位を向いていると考えられます。


西陣に住んでます-妙法


ちなみに、「妙」と「法」を別々に考えた場合、
」は、つくりの上端と下側の好転とを結んだ線から↓のようになり、


西陣に住んでます-妙


」はつくりの中心線から↓のようになります。



西陣に住んでます-法


このように考えると3本の線が南にある1点で交差することになります。


次に船形についてはマストの方位から
↓ピンクの線の方位を向いていると考えられます。


西陣に住んでます-船形


左大文字は、右大文字と同様に横線の垂線の方位から
↓ピンクの線の方位を向いていると考えられます。


西陣に住んでます-左大文字


最後に鳥居形は、中央にある横線の垂線の方位から
ピンクの線の方位を向いていると考えられます。


西陣に住んでます-鳥居形


このような条件のもとで各線を地図にプロットすると、
右大文字の線(水色)を除くの6つの線(ピンク)が
なんと!ある一点で交わるんです
また、右大文字だけは左大文字の方位を向いていることがわかります。



西陣に住んでます-五山送り火


このことから考えると、右大文字をのぞく4つの送り火は
各所の住民によってテンデンバラバラに山に描かれたのではなく、
何かしらの意図を持った人物がレイアウトしたと考えるのが自然と思います。


そして、その人物とは、
これらの線が交わる場所に関連深い人物に違いありません。


さらにその人物は

国家権力に結びついた天下人(てんかびと)と思われます。
なぜなら、都の山々に意味ありげな文字を書くなんて行為は
普通の民間人はもちろんのこと、
天下人の承認がない限りできるわけないからです(笑)。


したがって、

この線の交点の場所に関連深い天下の権力者が
盆に帰ってきた祖先の霊を送るためにこの送り火を始めた

と考えるのが自然であるかと思います。


ここで、その人物っていったい誰?ということですが、
2人の有力な人物が浮かび上がってきます。


一人は、平安時代にこちらの地にあった法住寺殿で院政を行った
後白河法皇です。保元の乱の勝者で、平清盛を従えた「時の権力者」でした。
ちなみに、この後白河法皇と平清盛のコンビは
お盆の主役である地蔵菩薩とめちゃくちゃ強いつながりがあります。
これについては、来週しっかりと触れたいと考えます。


そして、もう一人は、

桃山時代にこの地に日本最大の大仏殿をもつ方広寺を建立した
太閤豊臣秀吉です。この人物はもう説明が要りませんよね。


ここで、この二人のうちどちらかということを考える前に、
鍵は左右の大文字を結ぶもう一つの線について考えておきたいと思います。

このラインを詳しく見ると、この図↓のようになっています。


西陣に住んでます-五山送り火


このライン上には京都のスカイラインを構成する吉田山船岡山愛宕山
存在します。そういった意味でこのラインはもともと陰陽師などから

重要視されていた可能性があります。
また、弘法大師が修行した神護寺もこのライン上に位置しています。


ところで、いくつかの送り火に弘法大師起源説が存在しますが、
6つの線の交点に意味があるという考え方に立った場合、
右大文字をのぞく4つの送り火は弘法大師起源という可能性が消えます。
なぜなら、弘法大師の時代には、交点の場所には何もなかったからです。


さらにこのライン上には、相国寺、金閣寺、銀閣寺がならんでいます。
これら3つの寺院の深い関係については、[別記事] で深~く考えました。
ここではちょっとペンディングしておき、

後で私なりの解釈を紹介したいと思います。


実際ここで私が注目したいのは、この線の方位です。


この線は西から15度北に傾いていますが、
実はこの線の方位は送り火が行われてきた旧暦7月16日の
平均的な日の入りの方位とほぼ一致します。


ちなみに、旧暦は太陰暦なので
カレンダー上では同じ日でも年によって日の入りの方位が変化します。
その一方で、旧暦の7月16日はどの年でも必ず仏滅です。
私は、仏滅の日が送り火の日となっているのも偶然ではないと思います。
つまり、この日を境に「仏」がいなくなるからです。


ちょっと話は横道にそれましたが、
アマテラスなど太陽信仰が強い我が国では、
霊魂が去っていく方位としては、
日が沈む方位がもっともふさわしいような気がします。


また、仏教にも、西に浄土があるという「西方浄土」という考えがあって、
西に霊魂が去っていくというのは、ごく自然な考え方です。


さらには四柱推命という陰陽道の説によれば、
この方位は六合といって相性のよい関係とされています(↓下図参照)。
(正確には、相性のよい方向ベクトルどうしの差のベクトルらしいです)

西陣に住んでます-六合


この方位に注目して地図を見ると、ある関係が見えてきます。


西陣に住んでます-五山送り火


皇室と強い結びつきを持つ由緒正しき寺院(黄緑の点)と送り火とが
この方位の線によってペアとして結ばれているんです。
しかも線の間隔はほぼ等間隔です。


ここで、「由緒正しき寺院」という寺院を紹介しますと、
延暦寺最澄が建立した天台宗の大本山です。
曼殊院、銀閣寺が建立される前にあった浄土寺青蓮院
皇室や貴族が住職を勤める天台宗の門跡寺院です。
そして泉涌寺は皇室の菩提寺です。


これらの寺院は見晴らしの良い場所が近くにあり、
その場所からペアとなる送り火を実際に見ることができると思われます。


なお、「一」「蛇」「長刀」はどうなっているのかということですが、
実は対応する門跡寺院の候補があります。
「一」は仁和寺聖護院、「蛇」「長刀」は青蓮院の本院や知恩院などです。


ちなみに「長刀」の方位には祇園社(八坂神社)と神泉苑がありますが、
これってもしかしたら祇園祭つながり?とか思っちゃいます。
京都最大の夏祭りのフィナーレとして十分ありえるつながりだと思います。



さて、以上のようなことを参考に、

ここで、送り火の起源について大胆解釈をしたいと思います(笑)。



メモメモメモメモメモメモメモ



平安時代末期、保元・平治の乱後の時の権力者、後白河法皇は
盂蘭盆に戻ってきた皇室の祖先の霊を、

盆の終了とともに西にある浄土(西方浄土)に送るため、
平清盛に命じて京都の山々に送り火を灯す文字や形を描かせました。
もちろんその送り火については、

後白河天皇の住む方住寺殿からよ~く見えるように
描かせたことはいうまでもありません(笑)。


このとき描かせた文字・形は、東から
天台宗の聖典の法華経を意味する「妙法」、
賀茂川の上流には精霊を流す「船形」、
なんとなく「大」(笑)
京都の神門の愛宕山のふもとには「鳥居形」
などです。


これらの文字・形を東から西に時間差をつけて点灯することによって
霊を西方浄土に間違いなく送り届けるための誘導灯としたわけです。
特に後白河法皇としては、保元の乱で敗北して讃岐で亡くなった
崇徳上皇が怨霊となるのを恐れていました。
ちなみに努力むなしく(笑)、崇徳上皇は後に怨霊となって

日本の大魔王と呼ばれることになりますが・・・。


その後、時が経つにつれて、皇室ゆかりの寺院が、

送り火と六合の方位の関係となるなるようレイアウトされました。


室町時代になると、天皇になることを意識した将軍足利義満は、
そんなトレンドにインスパイアされて、
浄土寺と(左)大文字の間に相国寺を建立しました。
その際、しっかりと(左)大文字を見物できるよう
日本一の高さを誇る七重塔も同時に建立しました。
また、天皇になる準備が整うと、(左)大文字の麓に
北山山荘(今の金閣寺を含む)という政治の本拠地を建立しました。
ちなみに、足利義満は急死して結局は天皇にはなれませんでした。


その後、時代は進み、

足利義政は応仁の乱で焼けてしまった浄土寺の跡地に
東山山荘という自らの趣味の本拠地を建立しました。
また、応仁の乱の元凶となった息子の義尚が自分より早くなくなると、
その霊を弔うために、銀閣寺の裏山に大文字を描かせました。
ただし、このとき描かれた文字の方位は、法住寺ではなく、

相国寺と金閣寺が正面となる方位でした。


時は流れて桃山時代、派手好きの太閤豊臣秀吉は、
東大寺を超える日本一の大きさの大仏殿を京都に建立しようと考えました。


日本一の大仏殿です。
それなりの場所に建立したいと考えていたのではないかと思います。
選ばれた地は、太閤が京都の周りに造った城壁である御土居の中ではなく
その御土居に囲まれた京都を一望できる南東の地でした。


正真正銘の軍人で数々の戦場を眺めてきた太閤は
誰よりもグローバルな地勢を見てきた人物だと思います。
その太閤にとって、

多くの送り火を正面から見ることができるこの地を見つけるのは
そんなに難しいことではなかったのではないでしょうか。



メモメモメモメモメモメモメモ



といったような解釈、いかがでしょうか(笑)。


いずれにしても今となっては永遠の謎ですね。



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