継母に後押しされて | なぜぼくらはおいていかれたの 

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体調がよくない。今週の継母のショートスティ日には楢葉に給餌に行くつもりだったのだが、介護と犬猫たちもこなさなくてはならない身にはとても無理だ。

目眩がひどい。胸が締め付けられるように痛い。そして何より口中がどうなってるんだと思うほどの痛みが四六時中続いていることだ。この苦痛は食べ物も飲み物もいちいち苦痛を烈しくするものでしかないから辛い。食べ物が刺激して痛みを増すことを怖れて丸飲みしたりするからとうとう胃も慢性的にダウン気味である。

そんな中の昨日、継母がテレビを観ているそばで新聞や情報誌をパラパラめくっていたら、ある講座の記事が目にとまった。

「へぇ、こんな講座があるんだ、行ってみたいなぁ」と独りごとを言ったら、継母が即、「行きなさい。行くといいわよ」と言った。
「えー、でもショートスティがとれないし、お金もかかるし無理よ。それに夏には中国からお母さんの娘さんたちが見えるから準備もあるし、それにそなえてお金を少しでもためておかないといけないでしょ」と応えたが、「いいの、そんなの! 和恵さんは、今、自分が楽しめるやりたいことをやらなきゃダメなの!」とやけに真剣な調子で言う。

私はちょっと驚いて「どうしたの」と苦笑い気味で言ったら、継母はより真剣な口調で言ったのである。

「私は和恵さんに引き取られて一年が過ぎて、気がついてずうっと思っていたことだけど、和恵さんは、私の世話なんかで日を送ってはいけない人だとわかったのよ。ほんとよ。あなたは他の誰とも違う階段にいる。私はね、この人を自分の世話なんかで終わらせてはいけない、と思うようになった」。
「何言ってるのよ、私は何もできない知らない、むしろ無能な人間よ。お母さんのお世話だって最小限のことしかできなくて、申し訳ないって思ってるのに」
「違う! 世間がいいと思う出来ることや知ってることのことを言ってるのではないの。世間人はそういう出来ることや知ってることを評価していくでしょ。でもあなたはそういう階段にいない。そういうあなたが自分の楽しみを持たず世間の誰かのためだけに自分を使っているのが、私は恐ろしいほどいけないことだ、と思うようになった。もうほかのことにあれこれ気を遣わず好きなことに没頭してほしい!!」
継母の目に涙まで滲んできた。

私は本当に驚いた。父の後ぞいとしてこの人が私の継母になって以来、教養がなくて物質主義で好きになれない、と思いこんだ若い頃からその視線はあまり変わらず、運命のいたずらのように同居して介護することになったこの一年、一生懸命ではあったけれどもどこかクールだった。そうでなくては自分が壊れるとすら思っていたのだ。

「いやぁ、私はただの傲慢で無知なだけの人間よ」
私は無表情に答えた。実際自分はそうだ。
たが確かに継母のいう通り、いつも誰かや何かのために自分を使い、誰かや何かはそれが当然としかしなかった。私は全力で責任を全うするが、世間の価値する階段にいないゆえに常に見下されていた。それらの殆どをわかっていて、私は私の階段で独り生きていた。

あるキリスト教会の牧師に自分が孤独感と虚無感に苦しんでいることを訴えたら、「誰もあなたを理解していないのではない、誰もあなたが見えないのだ、わからないのだ、だから自分にわかるように、自分の欲望や思い上がりと同じところにあなたを置こうとするのだ、それでやっとあなたがわかったと思い安心するのだ」と応えられた。

私はこの時、心中深く、『もしこの牧師に世の苦難が襲ったら、私は命をかけて守る』と思った。

ナアンチャッテ、この成り行きの肝心なことはここからだけど、それは書くのはやめよう。


結論を言うと、継母が言ってくれた通り、私は自分が愉しいと思うことに没頭する道をいこうと思う。その時間の短さなんかどうでもいい。

一瞬の開放でいいのだ。


※それにしても継母の仏心に衝撃を受けた。継母こそ孤独な階段に独り生きてきたのだろう。はじめて気付いた。まこと私というやつは自己中心な階段にいるのだろう。