継母の娘さんから | なぜぼくらはおいていかれたの 

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今一緒に暮らしている継母には、実の娘さんが二人中国にいる。
戦争中に満州に行き、敗戦後いわば国に独り見捨てられ帰国できず、必死で生き抜いている中、中国人の男性と出合い結婚し、三人の娘に恵まれ、中国に骨をうずめる覚悟でいたが、中国の政権がかわり、日本人はみんな強制帰国を強いられ、幼い娘を置いて帰らざるを得なかったのだ。

私はこのことを2003年に父が他界して後継母から聞き、その運命の痛ましさにすぐに娘探しをはじめ見つけ、継母をともなって中国に行き、50年ぶりの母子の再会を果たす手伝いをした。
余談ですが、この時やぁ、大変だった。行く前から向こうの新聞などに報道されていたから、北京の空港に着いた時、まず超イケメンのパイロットに話しかけられサポートされ、新聞、テレビに騒がれ、疲れたのなんのって。

下のURLがその経緯です。
http://www1.odn.ne.jp/~kaze2005/02tyuugokumokuji.html

2005年には中国の娘さん二人とそれぞれの家族、計五人を日本に招き(三人の娘さんのうち長女とご主人は他界されていた)、京都見物などしてもらった。


このことはとても善いことで、私はこの時期夫の病状もよくなく介護に大変であったが、自分で自由にできるお金を文字通り一銭残らず継母と継母の娘さんたちのために使った。継母は私の父と結婚したあと、気難しい父のためによく尽くしてくれた人で、私は恩返しをしたかったので、本当に心から清々しい気持ちであった。


昨年の秋に継母が骨折をし、自立が困難になった時、法律的には父亡きあと私と継母は他人であり、私のほうは継母をお世話する責任や義務はなく、継母のほうも私に相続する義務もないとわかっていたが、継母のほうの法律的に引受人になる弟家族に世話はできない、何も出せない、とにかく関係ないと拒否をされ、私が駈けつけた時継母はほんとに不安そうであった。
私のほうも、30匹の犬、猫と同居しているし、また福島にも通いたいし、生活費もおぼつかないし、どうすりゃいいんだと頭をかかえる心境だった。

でも、骨折した足にギブスをつけた継母のベッドの下で夜を明かした時、継母が夢を見たのだろう、両手を前に延ばし、何かを叫びながら大声で泣いたのだ。
私はすぐに、中国で背中に背負った生後七か月の一番下の娘を役人に無理やりむしり取るように奪われた時の夢を見ているのだと察知した。
可哀そうで可哀そうでどうしようもなかった。
翌日の朝、「お母さん、病院を退院したらうちに来る? 一緒に暮らしましょう。二人の年金でつつましく暮らせばなんとかなるわよ」と言ったら、継母はぱあっと表情が明るくなって、「いいの!?」と言った。

あれから一年経った。

そして今日、中国の娘さんから荷物が届き、その中に日本語の手紙があった。継母の中国のご主人だったかたの姪になるのかな、わかちゃんという女性がいて、その人が日本語の教師をしているので書いてもらったのだろう、来年の7月に日本に行きたい、ついては1月に手続きをしたい、と言う旨であった。


今回は、正直、心臓を金棒で殴られたような思いであった。
私には死ぬほどの重荷だ。もう何もないのだ。継母と暮らすために30匹の猫犬が中心になっている家ではとても住めないと、近くの空き家に住まわせてもらうことにしたのだが、そのために息子に少しは遺しておきたいと思っていた生命保険を解約し、私を生んでしばらくして他界した実母の遺したものを全部手放した。幸い親族がその地元で力を持つ人なので、事情を話したら手配してもらえたのだ。私一人だったらどうにもならなかった。


もう本当になにもないのだ。私の体力もなくなっている。精神も追い詰められている。

「絶対、前世に何かやったんだよね、だからいつまでも荷物を背負わされる」と笑おうと思って呟いてみたが笑えない。


これまでも絶体絶命の危機を、のほほんと乗り越えてきた。無い知を絞り、工夫し、ほんとに暢気に乗り越えた。なんとかなる。

思えば、継母が元気なうちに娘さんにあわせてあげるのは当然のことだ。その思いは頭や心にしゅっちゅうよぎっていた。だから私がなさねばならぬことなのだ。
何をオタオタすることがあろうか。
なんとしても果たさなくては。

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こんなことをうだうだ書くのはどうだかなぁと、何事にも誰にも無防備な私もさすがに躊躇したが、話す相手もいず、ちょっとばかり荷物を軽くしたくて書いちまった。ま、いいか。
とりあえず今夜は何も考えずこれからすぐ寝る。朝になったらもう愚痴らない。