幸せ感の喪失 | なぜぼくらはおいていかれたの 

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地球はみんなの星 猫も犬も大きな動物も小さな生き物も人間も 心に感じる思いをまげず ゆうゆうとのうのうと生きる星 

女子生徒や少女ら270人以上が誘拐されたという。
国や世界に対しての不満、自分たちのイデオロギーの主張などのためにこんな恐怖が平然と行われる。
その底辺には、こうした行動をとる側の人間自身にもその正当性を論ずることもできなくなっているほどの”人間がこうなってきた政治や宗教、あるいは根源的に人間それぞれが持っているのかもしれないそれぞれの違いのための何かが、何が正しくて何が真実かもわからぬ気の遠くなるような冷たい世にしてしまったのだろうか”とすらもはや言えぬ混沌が世そのものになっている、そのことに思い至ると絶望感しか覚えない。

クリスチャンでありながら、生徒たち、少女たちの恐怖を思うと祈ることすらできない。でも祈らなくては。それしか出来ないのだから。どうかみんなが一人残らず家族のもとに無事に帰れますように・・・・・。


韓国の修学旅行の生徒たちが長時間恐怖にさらされ、死に至ったことも生涯忘れることはないだろう。
事故の悲劇、結果への痛烈な悲しみを。
そして救うべきことに全力をあげるべき大人たちへの言葉に尽くせぬ、燃え上がる火のように鎮まることのない暗い思いに対して。


日本の原発事故のあとの実状を通して、『もう私たちは幸せになれない』と来る日も来る日も思った。感じた。全ての”力・・・現実的に国民のためにやるべき機関が持つ力”への決定的な失望感ばかりがつのった。今もそれは続いている。・・・どれだけの人が見捨てられた存在のむごたらしい現実を知っているか・・・人もどうぶつも含めてだ。


幸せ感の喪失ということは夢や希望も失うということだ。
そんな自分がどうやって生きればいいのか。
私の場合は、自分の抱えた現実を放棄してはならない、という責任感でかろうじて生きながらえている。

やるべきことと思うことに取り組むところに夢と希望を持ち、それができることへの幸せ感、達成感、自信が生じてきたらどんなにいいだろう。

祈りにさえ敗北感のような虚無を感じつつ生きているのは本当にしんどい。

明日楢葉に行く。
そのために継母は先ほどショートスティに行ってくれた。

私たちはこうしてささやかにささやかに、やるべきことをやっている。いつかこれが光になったらどんなにいいだろう。(涙 痛み)