理解をしない。
中核にあるものを観ようとせず、話を聞かない、という姿勢は其れを生み出す。
自分の経験と価値観だけを元に、上部だけで物事を汲み取り、知らない世界を理解しようとせずに『自分は正しく捉えてわかっている』と自身の過不足を疑わず、間違った考えを一方的に押し付けること。
不条理な答えを正しいとし、無理矢理押し付けてくる。
真剣に自分と向き合って、闘い生きているひとにとって、それって暴力でしかない。
社会的に理解者のように見られがちな立ち位置の人に、そういう暴力性を持っている人がとても多いと眺めていて思う。
それは極めて日常に散乱していて、
また、そういうことが起こったのか…。
また、そういうことが起こったのか…。
起こるのか…。
と恐怖で背筋の凍る思い。
上記の様に具体的に、5W1Hをここには書かない。
そして、5W2Hも書かない。
いつでも消すことができて、無かったこの様に(実質無かったことにはならないけれど)出来るこういう場所に書くことに抵抗がある。
ノンフィクションって、
名も顔も出して、
一度書いたら無かったことには出来ない。
というスタイルで書くことが、表現の自由と責任の取り方だと私は思うし、
自分に都合が悪くなったら消すという逃げ道を作るとか、
好き放題やっておいて、無責任で野暮な行為に映る。