「戦後日本の記憶と記録」(全307回)66“九州大学生体解剖事件”昭和23年3月11日軍事裁判”、1945年に福岡県福岡市の九州帝国大学(現九州大学)医学部の敷地内においてアメリカ軍捕虜に対する生体解剖実験が行われた事件。ただし九州帝国大学が組織として関わったものではない(#九州帝国大学の組織的関与についてを参照)。相川事件ともいわれる。
太平洋戦争末期の1945年5月、福岡市を始めとする九州方面を爆撃[1]するために飛来したアメリカ陸軍航空軍のB-29が、熊本県・大分県境で第三四三海軍航空隊所属の19歳、粕谷欣三一等飛行兵曹が操縦する戦闘機紫電改の体当たりによって撃墜された。機長のマーヴィン・S・ワトキンス(Marvin S. Watkins)中尉以下、搭乗員12名が阿蘇山中に落下傘降下した。3名は現地で死亡[2]。生き残ったのは9名であったが、東京からの暗号命令で「東京の捕虜収容所は満員で、情報価値のある機長だけ東京に送れ。後は各軍司令部で処理しろ」とする命令により、機長のみが東京へ移送された。残り8名の捕虜の処遇に困った西部軍司令部は裁判をせずに8名を死刑とすることにした。このことを知った九州帝国大学卒で病院詰見習士官の小森卓軍医は、石山福二郎主任外科部長(教授)と共に、8名を生体解剖に供することを軍に提案した。これを軍が認めたため、8名は九州帝国大学へ引き渡された。8名の捕虜は収容先が病院であったため健康診断を受けられると思い、「サンキュー」と言って医師に感謝したという。
生体解剖は1945年5月17日から6月2日にかけて行われた。指揮および執刀は石山教授が行ったが、軍から監視要員が派遣されており、医学生として解剖の補助を行った東野利夫は実験対象者について「名古屋で無差別爆撃を繰り返し銃殺刑になる」との説明を受け、手術室の入り口には2名の歩哨が立っていたという[3]。
その後GHQがこの事件について詳しく調査し、最終的に九州大学関係者14人、西部軍関係者11人が逮捕された。なお、企画者の一人とされた石山教授は「手術は実験的な手術ではないのでその質問には答えられません、私が行った手術のすべては捕虜の命を救う為だったと理解していただきたい」と生体解剖については否認し続け、独房で遺書を書き記し自殺した。
最終的なGHQの調査で、捕虜の処理に困った佐藤吉直大佐が小森軍医に相談し、石山教授に持ちかけ実行されたことが判明したが、企画者のうち小森は空襲で死亡、石山は自殺したため、1948年8月に横浜軍事法廷で以下の5名が絞首刑とされ、立ち会った医師18人が有罪となった。