彦根市立図書館(国宝彦根城外堀内・石田三成の居城・佐和山城趾も見える)は、

徳川幕府時代の直参筆頭の伝統があるためか歴史的蔵書が抱負である。


最近、我が輩は、

『現代語訳徳川実記 家康公伝1 関ヶ原の勝利』(吉川真、ではなく吉川弘文館)等、3巻を借りた。

一挙に読んだのは、関ヶ原合戦前後の記述である。


日本史上最大の合戦は、関ヶ原の戦いであり、

同地は400年以上経った現代でも保存状態が良く、戦国ファンの聖地と化している。

JR関ヶ原から徒歩圏内、名神高速関ヶ原もあり誰でも容易にいける。

かくいう我が輩も、1ヶ月ほど前の第4回中部兼第9回愛知テコンドー大会終了後、

河ベンツ2代目で立ち寄ったばかりだ。


古戦場には不似合いなカップルが4組もいた。

最近、戦国武将ブームらしいのだが、

「硬派はブームに便乗しない!」

ためいささか醒めた眼差しで彼ら彼女らを見てしまった。

なぜなら、「戦国武将はみなイケメンのわけないだろ~うガンダム!」と叫びたいからである。

(石田三成がヘビメタの容姿で、銀髪なのは毛沢東もビックリだったよ)


関ヶ原を扱った小説も極めて多い。

しかし、「ろくなものがほとんど無い」のが現実だ。

かなり購入し読んだが、2冊除いては怒り心頭だったよ。

その中で燦然と輝いているが、やはり司馬遼太郎の『関ヶ原』。

怒り心頭だったのは、ほとんどの小説が、司馬のコピーといえるからだ。

「あぁ、我が輩が『新・関ヶ原』を出版し、司馬遼太郎に一矢報いたいものだ!」

と観じていることはすでにふれた。

秘策的構成もある。


かかる希望を抱いているが故、上記の家康公伝の原本=『徳川実記』を読みたくなった。

やはり原本=オリジナルを検証することが大切なのである。

『徳川実記』も彦根市立図書館が所蔵していた。

徳川幕府の公式史書であるがゆえ、その厚みは小沢一郎も真っ青だ。

もちろん現代文では書いていない。

字も小さい。

けれどもだ。

古典に挑戦するのは、教養人のたしなみでもある。

文武両道を旗印に掲げる武道家の常識でもあるのだ。


他方、頭が疲れたときに、読んでいるのが、最近発表された『大山倍達の遺言』(新潮社)だ。

これまた彦根市立図書館にあったのが嬉しかったな。

どうしてこの本を読んでいるかというと

GBR社長・吉倉君が

「河先輩のこともふれてましたよ」

と知らされたからだった。

246頁から始まる「世界大会の成功と城南支部の分裂」から数行、匿名で我が輩のことが出ていたな。


 廣重は信頼を寄せる、ある古参の弟子に相談を持ちかけた。

 弟子は言った(略)

 廣重が相談した弟子が(麗しの新日本人ではなく)在日韓国人であったことから、

 彼は松井の手先で、廣重を脅したという・・・・


この件については事実誤認があるので後日回想したいと思う。


我が輩は、極真空手の二大派閥の長である松井章圭君とも緑健児君とも旧知の仲ではある。

当時、世界大会を控え、八巻健二、数見肇、塚本等の有力選手を抱えていた極真会館城南支部の重要会議に参加したことも事実である。

会議の議題は、

 ー城南支部は、松井派の世界大会に参加するのか、

           支部長協議会(反松井派)に参加するのか

という二者択一を決定することだったが、

ほぼ

 ー反松井派の世界大会に参加する

ことが内定していた。


しかし、この流れを広重師範の要請に基づき古参OBとして参加した我が輩が逆転させた。

八巻健二や数見肇が松井派の世界大会に参加する上で決定的な役割を演じたのである。


しかし、それは旧友だった(過去形)・松井から頼まれたわけではない。

極真空手時代に教わった廣島師範を脅すという破廉恥な行為もしたこともない。

恩義のある廣重師範に援軍要請があっから、

三国志の劉備玄徳のように

「義によって参戦いたす!」

と重要会議に出席し、流れをひっくり返したまでだ。


結果としてこのことが松井派有利の状況を手助けしてしまったわけだが、

「城南支部は一致団結して松井派の世界大会に出たい!」

という、城南支部を創立し、有力選手を輩出した広重師範の意志だったのだから

我が輩としては

「義を果たした」

という自負は未だにある。


後述するが、この重要会議の前だったか後だったかは失念したが、

松井君と二人だけで帝国ホテルの地下1回のフランス料理店で会い

「広重師範が松井派に復帰すれば、大事に処遇するのか?」

と松井本人に言い

「もちろん大事にする」

と確約を得てもいる。

そしてそれを広重師範に伝えてもいる。

これも、

「戻ったとしても、松井に冷遇されるのでは・・・」

と懸念していた広重師範のためであった。


しかし、松井の指図で我が輩が会議の流れをひっくり返したわけでは6000%ない。

その証拠に、この会議から1週間後、

広重師範から電話をもらい次のように告げられた。

「入来達が、

  ーあの場に、破門(極真を辞めテコンドーに転向したため)された河がいたのはおかしい!

 と反発している。

 申し訳ないが、道場には顔を出さないでくれないか」

「わかりました」

ということになった。


もし仮に我が輩が松井から指示されたり、あるいは脅したりしたのであれば、

こういう冷遇を受けることはない。

なぜなら、これから戻ろうとしている組織の長の顔をつぶすことになるからだ。


そしてそれから1ヶ月も経たない内に、

入来君ら、ほぼ半分が広重師範と袂をわかち城南支部は分裂した。

彼らは反松井派の一員として世界大会に出場。


これが縁で、八巻君が我が輩のテコンドー道場に毎週1回出稽古に来ることとなり

黒沢の腹に我が輩が教えた後ろ横蹴りを2本もぶち込み

ギャリー・オニールの隠し技だった(ギャリーは城南支部に出稽古に来てわざと負け、手の内を見せなかった)

テコンドーの技・かかと落とし蹴りを辛くもかわし(我が輩の指導を受けていなければ顔面に直撃していた、と八巻本人が言ってたよ)、世界チャンピオンになったわけだ。

この事実は八巻君の自伝に出ているから確認して。


他方、反松井派の世界大会も、城南支部の塚本君が優勝した。

いずれも広重門下が世界を制したのだから、災い転じて福と成す、だったと思う。


ただ、極真分裂事件を書いている『大山倍達の遺言』を読みながら、

「欲は捨てないとダメだな」

と教訓を観じてもいるぞな(昔の松山弁)。


極真は

 押忍

が精神的支柱だったはずだが、

我が輩が理解するところの

 押忍とは、何事も押して忍

のはずだが、

本書に登場してくる人々は、誰も押して忍んではいなかった。

押忍の精神を守ったのは、まじめな末端会員だけだったような気がする。