ところがである。

加来耕三はこの本で「NHK堂々日本史(平成8月9月24放送)」にも出演し、自説を述べた

一坂太郎「薩長同盟の新事実ー坂本龍馬周旋説の虚実」(『歴史読本』平成8年11月号)

をわずか1頁で論破している。

「歴史学は専攻したことのない人の文なら一興の価値がある。

 が、高杉晋作ゆかりの記念館の学芸員が、

 歴史の方法論ー桂小五郎の記憶を整理し、その正否を問うという基本ーを用いなかったというのは

 いかがなものか(略)堂々日本史でも語り、薩長連合を龍馬が周旋したのは作り話だと語った(略)

 史料的裏付けのない我田引水の論は、当然のごとく多くの研究者から批判、反論が展開された。

 なかでも筆者がいまに教えを乞う、芳即正氏の『坂本龍馬と薩長同盟』は出色の出来であったと思う(略)

 龍馬周旋の正論はこの本に謙として」(前掲、」139頁)

としながら、

木戸の死後50年後に公開された『自叙』、

龍馬の日記『坂本龍馬手帳摘要』、

龍馬の友であり、お竜の行く末をたくした長州の三吉慎蔵の『日記』はともかく

あの田中光顕の『維新風雲回顧録』を史料として1頁にわたり紹介しているのがいささか奇妙である。


我が輩は、

「歴史家は、歴史の裁判官たらねばならない!」

と信じてやまない。

同様に、

 ー疑惑に満ちた歴史的通説
に対しては毅然とした態度で

「歴史家は、歴史の検察官たらねばならない!」

と北朝鮮の人民会議で叫ぶことができる。


裁判官は公平な裁判を担保すべく

民事裁判なら原告・被告、刑事裁判なら被告との間に

なんらかの利害関係がある場合、当該裁判を担当できないはずだ。

利害関係とは、親族だとか、友人だとか、元恋人だった等も含まれるはずだ。

検察官も同じだろう。

そうしないと私情がからみ公平な裁判ができないからだ。

たとえば、2人殺した刑事被告人が、

裁判官の高校時代の友人だった場合、

死刑か無期懲役かのきわどい判決を公平な立場で判断できるのであろうか?

無理だろう。

検察官だってそうだ。

裁判官も検察官も人間だからであり、とりわけ私情を公の場に持ち込みやすい日本人だからだ。


そろそろ「龍馬伝説」も、

坂崎の小説以来、100年以上かけて作り上げてきた「龍馬伝説」の「資料」を検証しなければならない。

そのためには、明らかに「龍馬伝説」を「ねつ造」した「前科」のある者の残した「資料」を排除せなばならない。

それが田中光顕の『維新風雲回顧録』だ。


日露戦争開戦時、明治天皇の妻の枕元に龍馬が立ち

「護国の鬼となって日本を守りますのでご安心を」

と龍馬が現われた、

という作り話が新聞紙上で取り上げられたことはすでにふれた。


この茶番を捜索したのが当時の宮内大臣・田中だったわけで、

彼は龍馬の兄貴分・武市半平太の門下であり、

武市切腹後は、中岡慎太郎の陸援隊に入り、

龍馬と中岡とが殺された時に近江屋にかけつけ

龍馬の死体を確認した人物だった。

つまり彼は土佐の志士たちのリーダーだった龍馬や中岡の弟分、もしくは友人、あるいは同志だったのだ。

そして二人の死に憤りを感じた人だった。

維新政府が薩長の天下になるや

「あぁ、龍馬や中岡が生きていれば、土佐は冷や飯を食わされずにすんだはずだ・・・」

と嘆いた一人だったことは疑いもない。

ゆえに、上記の「利害関係人」とみなせる。


そういう人物が残した「資料」にいったいぜんたいどういう価値があるというのか?

宮内庁に「龍馬の裏書き」が保管されているというのも奇妙である。

おそらく意図的に収集したのではないか。

そのような利害関係人の「資料」に対しては

むしろ検察官的立場となり、その論述を精査しなければならないと考える。

はっきりいえば、

「龍馬の功績を世に出したい!」

という部分については、逆にその論述につき疑念をもたねばならないのである。


だいたい田中の回顧録は、

証拠の類もなく自分だけの記憶をたよりに論述しているだろうし、

すでに「死人に口なし」のたとえ通り、

薩長同盟に立ち会った薩摩の西郷も大久保も小松も桂久武も、

そして長州の桂も、

みな死んだ後に回顧しているはずだ。


他方、加来は、薩長同盟締結後、龍馬が寺田屋で襲われた重傷については的確に記している。

「龍馬の多量の出血は容易にとまらなかった。

 右の親指は根本の肉が削がれ、中指の第一関節にも斬られた傷が残り

 左親指は関節部を、食指は付け根までそれぞれ斬られていた。

 とくに左手食指は二度と自由にまがることがなく、

 この傷を「外見見苦しき事」と思いこんだ龍馬は、

 以後、かならずこの左手の指を隠して写真におさまるようになったという」(前掲、151頁)


龍馬が両手の指に重傷を負ったことにつき争いはない。

たとえば、龍馬の「傷の場所と程度は? 左手の親指と人差し指、

            右手の親指の付け根と中指を負傷し、左の人差し指が重傷だった。

            腱を切断され思うように動かせなくなったという」(『坂本龍馬歴史大事典』39頁)


このように両手の指、なかんずく筆を持つ際に重要な左右の親指、右の中指、左の人差し指を

刀で斬られて出血が止まらなかった龍馬が、

襲撃されて僅か12日後に(当時は痛み止めの薬の効果が低いのでかなり痛い)

龍馬としては「達筆」で(他の手紙と比べれば一目瞭然)

桂=木戸の求めた薩長同盟の内容確認の手紙に裏書きするのは無理!

とすでにこのブログ(10/16)でも叫んでいる。


もちろん同じ土佐出身でも客観性のある証言史料もある。

「東洋のルソー」

と呼ばれた土佐出身の中江兆民(こういう優れた人物も土佐=高知県は生んでいるだから宣伝すべきだ!)

の龍馬観である(伝記『兆民先生』の著者は公徳秋水)。


中江は長崎留学時の慶応3年(1867)の春から初夏にかけて龍馬と接したらしい。

中江は龍馬をみて「何となくエラキ人なりと信ぜるが故に」心酔し、

龍馬「に「中江のニイさん、煙草買うて来てオーせ」などと命ぜらるれば、

快然として使いせしことしばしばなりき」という間柄であった(前掲、坂本辞典、54頁)。


その中江が、龍馬の「目が細くして、その額は梅毒のため抜け上がりおりたりき」(同54頁)と証言している。

当時は、コンドームが日本にはなく、

遊郭に通い女遊びをするのが普通だったため梅毒はめずらしい病気ではなかった。

ゆえに中江も嫌悪感を示していないのだ。


中江が指摘した

 ー龍馬の額の髪の毛が抜け上がっている!

というのは梅毒の第二期の症状=梅毒性脱毛症らしい。

確かに、上野彦馬が撮ったあの有名な「ブーツをはき両手を隠している写真」(以下写真A)の龍馬の頭髪と

慶応3年10月頃、

生前の龍馬が最後に撮った「縁台に座りながら左手を隠している龍馬」の写真(今井家所蔵、以下写真B)

の頭髪とを比べてみると「明らかに生え際が交代しているのがわかる」(前掲、龍馬辞典、55頁)。


梅毒よりも重要なのは、

龍馬の友人かつ寺田屋で龍馬とともに幕吏に襲われた護衛・三吉槙蔵の子孫が所有する

「ブーツをはきイスに座りながら指を隠している龍馬の写真」(写真C)

をみれば明らかなように、寺田屋襲撃以降に撮られた龍馬の写真は

写真A、写真B、写真Cのいずれも、龍馬が手か指を隠し、隠そうとしている点だ。

(『坂本龍馬の真実ー 一個人別冊』平成22年1月、KKベストセラーズの17頁、19頁、25頁を見よ)

つまりそれほど重傷だったのだ。寺田屋で受けた傷は。


こんな大けがをしていながら12日後に筆で、しかも「達筆」で裏書きが書けるのでしょうか?

外科医のみなさん、医学的見地および当時の医療的処置のレベルを鑑みて可能ですか?

左右の親指と右の中指と左の人差し指を怜悧な刀で斬られ大量出血した人が12日後に裏書きすることが。


我が輩が龍馬の立場なら

「桂さん、これは歴史的な裏書きじゃきに、傷がなおるまでチトまってオーセ」

と言うだろう。

藩の後ろ盾のない龍馬の裏書きに何の政治的意味はないのだから時期がづれようと問題ないはずだ。

むしろ秘密裏の口約束を書面に残す方が不自然と言わねばなるまい(この点もすでにふれた)。


梅毒でハゲになりかけていた龍馬。

我が輩自身、鏡を見ながら

「あぁ~「///」が抜け始めてわか~る、「髪」は「長」い「友」だち・・・・・・」

何となく親近感がわくと同時に、

「我が輩も梅毒かも」

とため息混じりの硬派感傷である。


以下その22に続く