しばらくお休みしていたスウェーデン音楽史を更新します。

この前は強国時代の発展が面白くて、バッハのお兄さんまで駆け足で行ってしまいました。
今日は時代を17世紀初頭まで遡ります。

スウェーデンの国力が増していく過程で、他国に国力を誇示する必要が生じてきます。
国を統一に導いたグスタフ・ヴァーサの孫、グスタフ・アドルフの戴冠式(1611)、結婚式(1620)はそれにはうってつけの出来事でした。
結婚式に当たり宮廷は優秀な音楽家のヘッドハンターとしてクリスティアン・クラウスを大陸に送ります。
面白いのは、花嫁マリア・エレノラのお父さん、ブランデンブルグ公は戦争準備に忙しく、国費節減のために、大量の宮廷音楽家を解雇していました。クラウスはこの人たちをストックホルムに送ります。
その中で特に優秀だったのは、オルガニスト、アンドレアス・デューベンです。彼はアムステルダムで6年間スヴェーリングの弟子として修業しました。また父親はかの有名なライプツィッヒのトーマス教会のオルガン奏者です。
デューベンはやがストックホルムのてドイツ教会のオルガニストも兼任します。当時の音楽家はドイツ人、ポーランド人が多く、ドイツ教会は音楽界の先端を行くことで認められていました(ドイツ教会は今もストックホルムの旧市街(ガンメルスターン)にあり、ヴィクトリア王女はここで結婚します)。

デューベン一家はこの後3代にわたってストックホルムの音楽界を牛耳ることになります。
常に新しい、よい音楽を提供するために、この家族は多くの楽譜をヨーロッパ各国から集めました。
そして大切に保管しました。
楽譜はドイツ・オルガン・タブラチュアで書かれているものが多いのだそうです。
一番古い楽譜は1640年、一番新しいのが1720年。1732年にウプサラ大学に寄贈されています。
楽譜は寄贈された時にはすっかり新鮮味を失っていて、以来160年に渡って、埃をかぶる事になります。
1880年に大学図書館の司書に発見されて、以来注目を浴びてきました。

収集された2000曲は手書きのオリジナル、コピー、印刷されたものなどです。
楽曲は今までに200人の作曲家が確認されています。
コピーはヨーロッパ中のコピイストによるもので、ローマ、ベニス、ドレスデン、ダンツィッヒ、リーガなど。デューベン家族のコンタクトの広さを示します(当時も今も、留学することの重要な目的の一つはこのようなコンタクトを広げることなのかもしれませんね)。
 
$北欧からコンニチワ-デューベン・1
収集の中の「目玉商品」。
(ヨハン・クリストフ・バッハの書いた楽譜。JSの筆跡と似てると思いませんか。)

作品は始めはドイツのものが多かったようですが、1660年代はイタリア物が多くなります。
ヴィンツェンツォ・アルブリチ率いるグループが宮廷にやって来たことによるのでしょう(アルブリチについては又書きます)。
このアルブリチを始めとして、デューベンとコンタクトのあった人たちは、ハンブルグのクリストフ・ベルンハルド。当時流行していたイタリア音楽に傾倒していたそうです。
又、リューベックのブックステフーデも交渉のあった人物です。1670-80年代で、ブックステフーデの名前を冠した作品が多く残っています。そのうち100曲の教会コンサート及びトリオソナタ集はウプサラだけに残っているのだそうです。

1700年代になるとフランス音楽の影響が強くなります。
多くは教会音楽ですが、100曲前後の器楽も残っています。
又パリからオペラのグループも訪れ、ルュリの作品も混ざっています。

「デューベンについて知りたいんだけど」とスヴェンに聞くと、地下室に下りていって(彼の蔵書のほとんどは地下室に閉じ込めてあります)、何冊も本を貸してくれました。うわーこんなに読むのいや、っと思っていたので、つい記事の更新が遅れていました。
「ねー、ねー。ダンス音楽曲集があるって読んだんだけど」と言ったら、また地下に降りていって、1冊の楽譜集を持ってきました。"Seventeenth-Century Instrumental Dance Music in Uppsala University Library" というので、ダンス組曲が200曲ぐらい入っています。
まだ組曲のスタンダードが出来ていない頃だから、順番はメチャクチャ。アルマンド、サラバンド、クーラント、ガヴォットなどが多いですが、中にはドゥーベル、ゲィなどルネサンスダンスで見ることが多い曲名もあります。
オリジナルはドイツ・タブラチュア。五線譜も要らないし、楽譜を書く必要もないからコピーしやすかったんでしょうか。面白いです。こんなの演奏してくれる人いないかな。
地下の本はスヴェンの頭の中だけで整理されているので、私は出来るだけ、行かないようにしています。