現在、『身体化された心―仏教思想からのエナクティブ・アプローチ』(フランシスコ ヴァレラ (著), エレノア ロッシュ (著), エヴァン トンプソン (著))という本を読んでいるのですが、結構面白いのでレビューを書いていくことにします。

 

Amazonでの内容紹介を見てみると・・・

 

世界は、われわれから独立して存在するのか? 仏教思想をもとに、従来の認知科学の前提に根本的な疑問を投げかけ、認知を「身体としてある行為」と見るエナクティブ(行動化)・アプローチへと至る。「オートポイエーシス」のヴァレラ自らが「最も重要な著書」と語る知的興奮の書。

 

まだ、全11章中2章までしか読んでないのですが、西洋的な認知科学や現象学といったツールを利用して、東洋の仏教思想について研究解説したような内容になっているっぽいです。

 

序論と、第一章ではやたらと専門的で難解な西洋哲学の用語や概念などが特に説明もなくアレコレ出てきて、これまた説明もなくそれらの概念同士の関連性などが述べられ解説されているのですが、この辺りはほとんど意味不明でした・・・( ̄▽ ̄;)

 

この本の前に読んだ『ポストメディア人類学に向けて―集合的知性』という本も後半からはやたらと抽象的で意味不明な文章が続くような内容だったので少々ウンザリしながら、「やれやれ、まーた良く分からんオシャンティー系哲学書ですか…┐(´д`)┌」などと内心思っていたのですが、第2章からもう少し分かりやすい平易な言葉で仏教の「三昧/覚瞑想」という概念が紹介されていました。

 

著者は、まず、最初に一般に西洋人によってイメージされる「瞑想状態」と「三昧」の状態とを区別します。

 

現代のアメリカで「瞑想」ということばが一般に使用される場合、明確に異なる通俗的な意味がいくつかある。(1)意識がただ一つの対象に向けられている状態。(2)心理学的、医学的に有益である弛緩した状態。(3)忘我(トランス)現象が起こりうる解離した状態。(4)より高次の実在または宗教対象が体験される神秘的な状態。これらはすべて意識の変化した状態であり、瞑想者は普段の定常的、非集中的、非弛緩的、非解離的でより低次の実在から逃れるためのことを実行しているわけである。

 

しかし、仏教における三昧/覚修行は、これらの状態と明確に区別されるとして、三昧の状態として次のような状態を説明しています。

 

三昧になること、自分の心が何かをするときに何をしているのかを経験すること、自分の心とともに存在することがその目的なのだ。(中略)

三昧瞑想の意味を把握するには、人々が普段はいかに三昧でないかをまず理解しなければならない。通常、ふらふらする心の性癖に気づくのは、ある心的作業を達成しようとしているときにそのふらつきが邪魔になるときぐらいである。あるいはそれに気づくこともないまま、予期された楽しい活動が終了したことを知るときもあろう。実は、身体と心が緊密に調整されているときはほとんどない。したがって、仏教的な意味では、われわれは存在していないのである。

 

心はいかにしてそれ自身を知るための道具となりうるのか。心の気紛れ、非存在(nonpresence)はいかにして制御しうるのか。伝統的に、経典は二つの訓練ステージについて語っている:心を静めるかまたは抑えること(サンスクリット語:shamatha[止])および、洞察を深めること(サンスクリット語[観])である。止(shamatha)は、独立した訓練として用いられるとき、単一の対象へ心を固定する(伝統的な用語では「つなぎとめる」)ことを体得する精神集中の技術のことである。そのような集中は最終的には至福の無我状態へつながるのだろうが、そのような状態は、仏教心理学のなかにずっと分類されてきたものの、必ずしも全面的に推奨されたわけではない。仏教において心を静める目的は、没我状態になることではなく、心がそれ自身の本性と機能への洞察を得られるように、一体化するためなのである(この目的については多くの伝統的な喩えがある。例えば、暗い洞窟の壁に書かれた絵が見えるようになるには、風邪から護られた十分な明かりが必要だ、といった喩え)。

 

このような三昧の状態を経験するための訓練の一つとして、呼吸に意識を集中する方法を挙げています。数息観などが典型ですが、普通呼吸に意識を集中しようと思っても周りのことが気になったり雑念が入ったりして、知らず知らずのうちに呼吸から意識が離れてしまうものです。そこで、この呼吸に意識を集中する方法では、このように呼吸から意識が離れたときに、それを自覚して再び意識を呼吸に戻すという意識操作を繰り返します。また、この本のなかでは、初学者が呼吸三昧の状態に入り込もうとしても、時として呼吸に意識を集中しているようでありながら、呼吸について考えてしまっているなどということがたびたびあり得ると説明しています。

 

この三昧という状態や概念は、私がこちらのブログ記事で解説していたフロー状態や、『習得への情熱』のレビュー記事で紹介した「心を今に置く」という概念に非常に近いと思っています(ちなみに、フローの概念を提唱したチクセント・ミハイ氏も『習得への情熱』の著者ジョッシュ・ウェイツキンも東洋の思想や哲学に強い関心を抱いています)。

 

『習得への情熱』の著者ジョッシュ・ウェイツキン氏は、多くの人々がいつか来るであろう素晴らしい未来の瞬間を夢想しながら、「今」というこの瞬間を取りこぼしてしまっていると言い、「今という瞬間に心を置く」という概念について次のような解説を加えています。

 

ここぞという瞬間を上手に待てるようにならなければならないというよりも、むしろ、待つこと自体が大好きにならなければならない。なぜなら、待つこととは、実は待つことではなく、人生や生活そのものだからだ。残念なことに、多くの人々が精神をフル活用することなく日々を送りながら、本当の自分の人生が始まる瞬間を待つような生き方をしている。退屈な日々が何年続いても、いつか真の愛を見つけたときに、または、天啓を授かったときに、そこから本当の人生が始まるのだから大丈夫だと考えている。しかし、悲しいことに、今という瞬間に心を置き続けておかなければ、たとえ真の愛が目の前を通り過ぎたとしても、まるで気づかないだろう。さらには、そういう平凡さを享受できない人間になってしまう。単純な日常の中に価値を見いだすこと、平凡なものの中に深く潜って行き、そこに隠れている人生の豊かさを発見することが、幸福だけでなく成功も生み出すはずだと僕は強く信じている。

 

ただし、やはりチクセント・ミハイ氏、ジョッシュ・ウェイツキン氏の両氏の思想と三昧とはちょっとした違いもあって、やはり最終的には目的志向的な傾向を持つ両氏に思想と比較して、三昧の状態の最終的に目指す境地は徹底的な自己目的化であり、三昧の状態を深めていくとか、それについて訓練するし上達するといった思考すらも最終的には否定すべき雑念として拒否されます。

 

世界中の瞑想伝統によれば、特殊技術を上達させ、宗教、哲学または瞑想の達人になることが瞑想訓練であると考えるのは、自己欺瞞に陥ることであって、実は望ましくない方向であるとされている。特に、三昧/覚の上達に関する訓練は、瞑想名人になる(より高次の、より進んだ精神性を発達させる)ための訓練として決して説明されず、むしろ、三昧の習慣を解き放つこととして、つまり体得ではなく「脱」体得として説明されるのである。(中略)最終的に三昧瞑想者がある特殊な活動状態を達成することに拘泥せずに、心を開放することを始めると、身体と心が自然に調整され、身体としてあるようになる。

 

上達や習得といった概念や目標を超越し、それを放棄した地点にある状態を理想とする。ただし目指さない、ただあるだけ・・・という如何にも仏教的というか、禅的な思想概念ですが、まあ、それでも特定の段階においては、一般の人びとにも有益であり得る様々な自己訓練や自己啓発の概念を提供するものであると感じました。

 

まだ、最初の方しか読んでいないのですが、どうやらレビューなどと見ると、この三昧と覚という概念が本書全体の中心テーマとなっているようです。今後も、読み進めていって面白かったら、引き続きレビュー記事を書いていこうと思います。

 

 

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