『フロー体験入門―楽しみと創造の心理学』(著 M.チクセントミハイ)のレビュー第二弾です。

 

『『フロー体験入門―楽しみと創造の心理学』(著 M.チクセントミハイ)レビュー①~幸福論の代替案~』

 

なんとなく、この本を読みながら高岡英夫の「ゆる理論」について思い出したので、今回は両者の関係性について解説したいと思います。

 

まずは、「そもそもフロー体験とはなんぞや?」という疑問について答えたいのですが、結構定義づけが難しかったりします。

 

フロー (英: Flow) とは、人間がそのときしていることに、完全に浸り、精力的に集中している感覚に特徴づけられ、完全にのめり込んでいて、その過程が活発さにおいて成功しているような活動における、精神的な状態をいう。ZONE、ピークエクスペリエンスとも呼ばれる。心理学者のミハイ・チクセントミハイによって提唱され、その概念は、あらゆる分野に渡って広く論及されている。

(Wikipedia『フロー(心理学)』項より)

 

まあ、これだけ見れば、「要は集中している状態でしょう?」といった感想を持ちたくなるのですが、問題は2つあって、「あらゆる分野に渡って広く論及されている」点と、「一般が日常的に体験する程度の集中~トップアスリートや習熟した武術家、厳しい修練を積んだ宗教家等のみが経験する非常に高度な意識状態まで幅広い範囲が存在する」点です。

 

以前流行した『黒子のバスケ』という漫画では、主人公やそのライバルなどが「ゾーン」(フローのスポーツ版みたいなもの)の状態に入り込むことで非常に高度な能力を発揮するのですが、この『黒子のバスケ』で登場するゾーンは、一般人が日常的に体験するような集中状態、没入状態より何段階か上の集中した高度な意識状態だと考えるべきでしょう。

 

ちなみに、『フロー体験入門―楽しみと創造の心理学』の著者チクセントミハイはフロー状態に入った場合に経験する8つの構成要素を定義しています。

 

チクセントミハイが見たところによれば、明確に列挙することができるフロー体験の構成要素が存在する。彼は8つ挙げている。
 

1 明確な目的(予想と法則が認識できる)
2 専念と集中、注意力の限定された分野への高度な集中。(活動に従事する人が、それに深く集中し探求する機会を持つ)
3 自己に対する意識の感覚の低下、活動と意識の融合。
時間感覚のゆがみ - 時間への我々の主体的な経験の変更
直接的で即座な反応(活動の過程における成功と失敗が明確で、行動が必要に応じて調節される)
4 能力の水準と難易度とのバランス(活動が易しすぎず、難しすぎない)
5 状況や活動を自分で制御している感覚。
6 活動に本質的な価値がある、だから活動が苦にならない。

 

フローを経験するためにこれら要素のすべてが必要というわけではない。

 

ところで、著者は普通の人びとの休日の過ごし方などについて、「受け身的レジャー」とフロー状態を経験しやすい「自発的体験」とに区別し、受け身的レジャー(テレビを見る ダラダラと時間を過ごす等)では、人びとはリラックス状態にあり、逆に自発的体験においては人々は集中状態に入り込みやすい、というようなことを述べているのですが、このような分類や理解で少し気になったのが、なんとなく

 

「集中←平常状態→リラクセーション」

 

というような、リラクセーションとコンセントレーション(集中)を対比させるような考え方に陥る危険があるのではないか?ということです。

 

もちろん、このようなリラックスと集中との対立関係は、多くの人々の直観に則ったものであって、通常リラックスしている状態は何かに集中している状態ではなく、逆に何かに集中している状態はリラックスした状態からは離れているものだと捉えがちではあるのですが、「ゆる理論」を提唱する高岡英夫氏の考えでは、このような「集中←→リラックス」というX軸のみの構造ではなく、優れたパフォーマーによる卓越したパフォーマンスの構造を理解するためには、「リラックス(脱力)←→緊張(力み)」というX軸の構造と、「集中(コンセントレーション)←→散漫」というもう一つのY軸の構造で組み合わされた構造を理解し、優れたパフォーマンスには、このリラクセーションとコンセントレーションが共に高いレベルで維持される必要があるということを説いています。

 

ちなみに、このフローという言葉は、なんとなく水などの流体をイメージさせる言葉ですが、この点に関して興味深いのは、宮本武蔵の五輪の書の解説です。宮本武蔵という吉川英治氏の小説のイメージによって怪力無双の豪傑といったイメージが付いていますが、高岡氏の研究によるとそれは違っていて、筋肉ムキムキにゴリラ男とは程遠い非常に高度な脱力に支えられることで非常に高度な剣術を実現したのだと言います。

 

例えば、『五輪の書』の「水の章」では、剣術における具体的な身体操法について解説する章において、その本質において水を手本とすべしと記しています。

 

五輪書 水之巻 1

 

【原文】

 

兵法二天一流の心、
水を本として、利方の法をおこなふに依て、
水之巻として、一流の太刀筋、
此書に書顕すもの也。

 

【現代語訳】

 兵法二天一流の心は、水を手本として、利方の法〔勝利法〕を実践するにある。よって、水之巻として、我が流派の太刀筋を、この書に書きあらわすのである。

 

言うまでもなく、宮本武蔵は剣術による斬り合い殺し合いを専門としてたワケであり、『五輪の書』刀における戦闘行為の専門書であったワケです。であれば、当然ながらその精神は相手を斬り殺すという一点に完全に集中していたワケですが、一方で水のように緩やかで自由な状態を保持しなければならないと説いています。

 

無論、これも一般人が日常的に体験するような次元の集中力とはワケが違い、同時におそらくその心身を水のように自由で緩やかな状態にしておく次元においてもそのレベルは一般人のノーマルな日常とは隔絶した次元にあったはずです。

 

まあ、このように『五輪の書』というのは難解な古典的奥義書であると理解されているのですが、このフローという意識状態を概念として理解することで宮本武蔵の教えを理解する補助線となるのではないかと感じました。

 

ちなみに、チクセントミハイは「フロー状態」の発見を自身のオリジナルの発見や着想ではなく、古くは東洋の伝統的な宗教や精神の鍛練法の中に見出されるとし、その中に剣術についても含まれています。

 

この概念は西欧心理学の中ではチクセントミハイによってはじめて示したと言える。しかし、彼はこの心理現象に気づき、それに基づく技術を開発したのは、ほぼ間違いなく彼が最初ではないと、彼自身、躊躇なく認めている。
2500年以上前、仏教や道教といった東洋の精神的な伝統の実践者は、この訓練を彼らの精神開発の非常に中心的な部分として磨いた。日本の実践者は、そのような禅の技術を、彼らの選んだ、剣道から生け花までを含む、芸術の形式(芸道など)を習得するために学んだ。

 

であるならば、宮本武蔵は、その実践の次元においてのみならず、ミハイが「フロー体験」と名付けた高度な意識状態を「水」という概念や比喩を用いて言語化論理化した非常に行動かつ先進的な理論家でもあったといえるかもしれません。

 

 

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