国家戦略特区BLOGのみぬささんが、保守派の歴史観について批判する記事を書いていたのですが、今回はこちらの記事に関する簡単に解説をして、ついでに私自身の歴史観について手短に述べてみます。

 

 

こちらの記事では、主に一部の保守論客が述べるような「大東亜戦争は試合に負けて勝負に買った論」的な歴史観を批判しています。記事を読むと

 

『アンナ歴史観は無いワ!』
 
明治維新から日米戦争での敗北までの日本の歴史を、侵略の歴史と捉える気狂いが、いまだに幅を利かす我が国の惨状ですが、同時に、保守界隈で流布される、戦いには敗れたが、戦争目的は達成された!とする妄想崛起にもウンザリします。その辺を右も左も小馬鹿にして分析しているのが佐藤健志さんの真骨頂です。

 

『戦後レジームそのものの歴史観』
 
桜の討論では、小堀桂一郎、古森義久、西岡力、の各氏が、私からすると亡くなった渡部昇一氏的な歴史観を披露し大いに残念でした。小堀氏=アジア解放で負けたけど勝った論。古森氏=アメリカ礼賛の親米保守。西岡氏=コミンテルン陰謀論の東西冷戦史観で、実は、どっぷり戦後レジームに浸かってしまっています。

 

でもって、みぬささん自身の見解を次のように述べています。

 

『アメリカの侵略で良いのでは?』
 
私は、日本の近代史とは黒船襲来を切っ掛けとする米国の侵略に対し抗った日本が、結局は大東亜戦争で米国の侵略を防ぎ切れず敗れた。という歴史観が一番しっくりすると考えています。ペリーが黒船で突如現れた同じ東京湾の米戦艦上で、日本政府は降伏文書に署名させらたのです。約80年の歳月が流れていました。

 

私自身は「アメリカは日本を侵略する意図を持っていた」というより、どちらかと言えば「中国を侵略する上で日本が障害であった」と解釈する方がしっくりきます。

 

歴史的な経緯を見れば、近代の初期に大胆な侵略競争に乗り出したのはヨーロッパの列挙諸国です。その意味で、日本とアメリカは出遅れた帝国であったワケです(その後、最終的に冷戦に勝利するというカタチで、この帝国戦争を最後に勝ち抜いたのはアメリカでしたが)。

 

で、まあ歴史的に見て、なんでペリーがわざわざ浦賀に来航したのかというと、やはり中国の市場を確保する上で日本を押さえておけば色々と便利だと思っていたからなのですね。アメリカとしては、東アジアにおける最終的な目的は極東の小さな島国である日本ではなく、それよりも遥かに広大で人口の多い中国大陸への進出だったワケです。

 

ということで、最終的には「中国での権益争いのライバルである大日本帝国と大アメリカ帝国との衝突が起こった」というのが私の解釈です(もちろん、これはあくまで歴史的な知識の乏しい私の現時点での暫定的な解釈であって、今後色々と新しい知識を獲得すればまた違った見解に変更する可能性はあるのですが)。

 

それから、最後に述べておきたいことの一つが、歴史解釈、特に戦争の意図や目的に関しては、国家として統一された唯一の見解というものが存在するということはあり得ず、それぞれの社会的地位や所属団体によってそれぞれの意図や見解を持つということです。

 

例えば、アメリカでは「金持ちのための戦争を貧乏人が戦う」などという言葉があるそうですが、基本的にはアメリカの戦争は資本家やグローバル企業の経営者が国際的な利益や権益を保持するために行うものでしょう(でなければわざわざアメリカ人が中東の紛争に首を突っ込む理由が説明できませんから)。しかし、ではアメリカ軍の兵士それぞれが資本家の利益を守るために戦争を戦っているのかといえばそんなことは全くなく、多くは生活の糧を得るためだったり学費を稼ぐためだったりします。

 

日本の大東亜戦争も例外ではなく、末端の兵士は「お国のため」とか、「大東亜共栄圏実現の理想のため」とか考えていたのかもしれませんが、一方で財閥企業はその間に戦後東アジア市場でのビジネスで得られる利益を計算するためにそろばんを弾いていたワケです。

 

私が最近ハマっている「進化生物学」「進化心理学」などの分野では、一つの中心的な意思決定機関というものを否定します。人間で言うなら、自由意志を担う統一的で中心的な意思決定、行動決定機関のような存在を否定するのですが、国家であれば中心的かつ独裁的な意思決定機関である絶対的権力を持った中央政府の想定です。

 

現実には、様々な意思を持った団体や個人が存在し、それらの人びとや利益団体の意志や意向のせめぎ合いの中で政治的意思決定が下されることになります。

 

なので、非常に歯切れの悪い物言いになってしまうのですが、「大東亜戦争は自衛の戦争であったか?侵略戦争であったか?」という問いに答えるなら、「お国のためと考えて自衛戦争のつもりで戦った人間もいれば、東アジアの権益拡大の侵略戦争だと思っていた人間もいた」ということになるでしょう。

 

また、「あの戦争は自衛のための戦争であった」という主張に意固地になってこだわる人間に対しては、「あらゆる戦争は自衛のためと称して行われる」と言っておきたいと思います。少なくとも、国民的な同意を得る必要がある近代の戦争において、政府が「これは強欲な資本家の虚栄心を満足させるために行う侵略戦争です!!」と説明して戦うことはあり得ない。

 

一時期、ネトウヨブームが盛り上がっていた際には、「自虐史観は良くない!!」ということが盛んに言われましたが、自虐史観とは自国を貶めるためにありもしなかった事実をでっち上げて罪悪感を抱かせることであったり、特定の事実に関して非現実的なほどネガティブな評価や解釈を与えることで、自国や自国の歴史を貶めることであって、自国の悪い面を見たり、反省したり批判すること自体は自虐史観ではなく、「現実史観」と呼ぶべきです。

 

もちろん、歴史観や歴史解釈にはどうしても主観的な解釈や見解が入ってしまい、完全に中立的な神のような視点から歴史を眺められるということはあり得ません。

 

しかし、どうしても「日本だけが素晴らしい正義の国家として、悪しき中国韓国や侵略国家である欧米に対抗して戦い抜いた」などというエキセントリックな解釈は私自身はあまり好きではなく、また仮にそのような側面が実際に存在したとしても、それは何か日本人が素晴らしく道徳的に優れていたというよりも、歴史の流れの中で日本が虐げられてきた東アジア諸国や有色人種の代表として戦うようなある種の偶然性あるいは必然性が存在したと解釈するのが妥当であって、何か日本人だけが特別に素晴らしく有能で優れていたとか考えるより、世界を良くするための特殊な運命を背負わされていたなどと解釈するより現実的であるように思えます。

 

 

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