今回は、『友情』の解説・・・ではなく、自分自身のちょっとした過去のエピソードを・・・

 

過去に何度か、こちらのブログ記事も書いたり、ニコ生で話したりしたことがあるのですが、私にはたった一人だけ小学校時代から交友関係を続けていた友人がいました(最近は全然連絡を取ってないですが)。

 

そいつは、小学校~中学校くらいの時にはいわゆるガリ勉眼鏡キャラだったのですが、その後東大に現役で合格し、さらに東大をトップの成績で卒業して、東大と東工大の大学院に進学して、今では結婚(某有名企業の会長のご令嬢で現在業界最大手IT企業のG社勤務のパリピ民)して海外の大学でノーベル賞を獲得した教授の下で研究をしています。

 

で、まあこの辺から如何にもありがちなエピソードになるのですが、僕らが16とか17歳くらいの時に、互いに「ビッグになろうぜ!!」とか誓い合ってたんですね(良いですねー、青春ですねー)。

 

しかし、その後私は色んな事で挫折しまくって、ひねくれて、おまけにネットの世界にどっぷりハマってクソみたいな状況になり、今では世を儚んでひっそりと生きているワケですが、そいつは夢に向かって一直線に進んでいったワケです。

 

まあ、そんなこんなでそれぞれの道を歩んでいったワケなのですが、何年か前からやたらとそいつが、「お前は、昔はもっと熱く生きていた!!」とか「お前は、つまらない人間になった!!」とか「お前は一体そんな生き方でいいのか?!」だのとやたらと、厨二っぽい熱い説教をかましてくるようになったんですね。当てこすりみたいな発言も多くなって、「なんか、嫌な奴になったな~」とか思ったり、あるいは別の時には「コイツは未だに17歳の時間を生きてるんだなぁ・・・」なんて心の中で多少バカにしてたりもしたのですが、今回『友情』の朗読音声を聴いて、ふと昔彼が「ああ、そういやコイツ昔、武者小路実篤の『友情』を読んで面白かったとか言ってたな~」などと言っていたことを思い出しました・・・。

 

まあ、簡単に言えば、彼は俺に彼にとっての野島になって欲しかったんでしょうね。なんというか、『友情』の物語を考えたときに、大宮と決別し、自分自身の道をより強く歩んでいこうと決心した野島が数年後に、「まあ、人生なるようにしかならねーよ」みたいな感じで無気力に生きるようになったら寂しいじゃないですかw大宮からすると「俺の努力は一体なんだったんだよ?」と・・・w

 

まあ、そんなこんな考えながら、なんとかかんとか努力して大宮ロードを歩んでいる彼に対して、「すまん、俺は野島にはなれなかったよ・・・」なんて少しばかり申し訳なく感じながらも、まあやっぱり結局、野島は野島で俺は俺なんだよなぁ~なんて思ったりもするワケです。

 

結局、自分自身を考えたときに私という存在は結局捻じれた俗物なんですね・・・信州読書会の宮澤さんは、『トニオ・クレーゲル』で女流画家のリザヴェータに「あなたは(芸術家ではなく)普通の市民に過ぎない」「少しだけ判決をゆるめて上げましょうか。あなたは道に迷った市民なんです」と宣告される主人公のトニオを「野島より才能のない野島」と言っているワケなのですが、これは私にとってなかなかにグサッと刺さる言葉で、中途半端にウェーイ系で、中途半端に求道者気取りっていう・・・。

 

おそらくほとんどの人間は、なかなか全き俗物(パリピ、拝金主義、恋愛至上主義者etc・・・)にもなれず、かといって自分自身の俗物根性や卑しさを全て捨て去ることも出来ないものなんですね・・・( ^ω^)

 

そういえば、夏目漱石の『門』も主人公が世を儚んで出家しようとしても、結局、真の修道僧程自分に厳しくストイックに生きることも出来ないと悟って、禅門から逃げ出して中途半端な日常に戻っていく物語だったっけ・・・うーん、色々と悲しい悲しい(´;ω;`)

 

 

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