前回記事(『『脳・戦争・ナショナリズム 近代的人間観の超克』レビュー③~当用憲法論、押し付け憲法論に関して~』)で、憲法に関して次のようなコメントが書き込まれていたので、自分なりの考えを書いてみたいと思います。

無題
少々揚げ足取りになってしまうかも知れませんが、この論旨ですと、各国が各々固有の憲法を持つ意義が見えて来ません。極論すると、世界にたった一つの「近代憲法としての体裁をしっかりと整えている憲法典・権利の章典」条約を世界各国が批准して使うという形態に行き着くのではないかと思います。
soleilevant-11 2016-09-28 19:33:02


 実は、この辺りの問題は非常に微妙なところで、私自身まだしっかりした解はありません。ですので、今回書くことは私の現時点における暫定的な解であると理解してほしいです。

 まずは、前回記事で書いたことを簡単におさらいすると、西部邁さんが言うには、現行憲法においても9条(とおそらくは前文も)を除けば、基本的にはほとんどの条文が日本の伝統文化歴史と照らし合わせながら日本の国体や文化に照らし合わせたカタチで再解釈が可能であろう、ということです。この点には私も同意しています。

 そうなると、基本的にはある程度抽象性の高い言葉や概念(人権、文化的等)が数多く盛り込まれている憲法において、重要なのは条文に書かれている文言そのものよりもむしろ、そのような言葉や文言を自国の歴史や文化に照らして如何に解釈運用していくのかが重要である。ということになります。

 しかし、このように考えてしまうと、先のコメントのような疑問が出てきます。つまり、憲法には「人権を守ること」「政府や公務員は国民の人権を侵すことのないこと」という2文さえあれば十分で(議会運営のルール等は除きます)、あとはその国家権力に侵されることなく、守っていくべき人権とはなんなのか?ということを各国がそれぞれ解釈するばいいということになり、各国がそれぞれ自国のための成文憲法を持つ必要はないのではないか?ということです。この考えをある意味で極端にまで推し進めたのが、イギリスの不文憲法でしょう(Wikipedia『イギリスの憲法』)。

 ただ、まあ各国が成文憲法を持つ意義に関しては、やはり一つには憲法における抽象概念をある程度具体化する必要があるということが挙げられます。例えば、「人権を侵害してはいけません」といった文言より「財産権は、これを侵してはならない」とか「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」とかの表現の方がより具体的です。また、どのような自由を最大限に尊重すべきか?どのような価値観をより重視すべきか?といったことも、具体的なレベルにおいては各国固有の文化や価値観によって規定されていくでしょう。

 つまり、人権、憲法、法律等は具体性と抽象性において次のような段階で区分されることになります。

上がより抽象度の高い段階 

普遍的人権

憲法

憲法の解釈運用

議会により制定される個々の具体的な法律

具体的な法律の解釈、運用、適用(どういう人物を逮捕するとか、どうやって税金を集めるとか、補助金を支給するとか)


下がより抽象性が低く、具体性が高い段階

 このような解釈した場合に、日本国憲法のそれぞれの条文は抽象概念である普遍的人権を一定のレベルで具体的に成文化したものと考えられます。つまり、普遍的人権をより具体的に成文化する過程で、一定程度、各国固有の歴史や文化、伝統に照らして憲法を成文化していくことに各国が固有の憲法を持つ意義があると考えられます。

 そして、次に直接的な国体の問題です。これは日本国憲法において非常に重要な意味を持つのですが、日本国憲法では第1条から8条までは天皇の地位を具体的に位置付ける天皇条項となっています。これは、普遍的人権の規定というよりはむしろ、日本国家の国体と密接に関連しています。

 それから、最後に議会等の運営のルールです。日本でいえば、参議院や衆議院を設けるとか、内閣総理大臣は、国会の議決で指名するとかがそれです。これに関しては、国家の運営の設計図ともいえる部分であって、各国が具体的に定める必要があります。

 まあ、一応説明としてはこんなところです。いくつか補足した個所もあったり、曖昧な点もあったいしますが、まあ機会があれば追加で解説するかもしれません(が、しない可能性の方が高いかもです・・・)。


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