今回もニーチェの『ツァラトゥストラ』に関する話です。

 これは信州読書会の宮澤さんも指摘していることなのですが、ニーチェの『ツァラトゥストラ』は人によって二通りの読み方をすることが出来ます。一つは、いわゆる社会批判の書として読む読み方であり、自分を超人の側、もしくはツァラトゥストラの側に立ってどうしようもない大衆社会や末人を上から目線で批判するような読み方です。このような読み方をする場合、ツァラトゥストラの言葉は自分を力強く鼓舞する激励の言葉として捉えることが出来ます。

 そして、もう一つの読み方はツァラトゥストラによる末人批判を、まさに自分自身への批判として捉え、ツァラトゥストラの説教を聴いているような気分で読む読み方です。このような読み方をする場合、ツァラトゥストラの言葉の一つ一つがグサグサと胸に突き刺さり、身につまされるような想いになります。

 たとえば、第二部の「名声高い賢者たち」という章では、次のようにあります。

 狼が犬どもに憎まれているように、民衆に憎まれている者がある。それは自由なる精神、束縛の敵、崇拝を拒む者、森に住む者だ。
 こうした人物を、その隠れ家から狩りだすこと―これがつねに民衆のいわゆる「正義感」であった。こうした人物にたいして、民衆はいまもなお最もするどい犬をけしかける。


 民衆は、優れた人物に攻撃を仕掛けるますが、その際に持ち出すのが「正義感」であるというワケです。人々は嫉妬と復讐の念から優れた人間に攻撃を仕掛け、ひきづり降ろし、そのような卑劣な行為を『平等への意志』もしくは『正義』の名を持ってそれを行います。

 また「毒ぐもタランテラ」という章では、次のようにあります。

 かれらがあげるすべての不平の声からは、復讐の念が聞こえる。かれらが呈するすべての賛辞には、ひとを傷つける意図がある。ひとを裁く者だということが、彼らには無上の幸福と思われる。

 要は、人々は「正論」や「正義」(それが誰も否定しようがないようなものであれば尚良い)を持ち出して、悪を権力者を不正を裁くことで道徳的優位に立ち、そのような道徳的優位とう高みから何者かを裁くことを「無上の幸福とする」これが、終わりの人間だというワケです。

 まことに終わりの人間、末人にとって「平等主義」とは素晴らしい宝石のような思想であって、この思想を持ち出すことであらゆる自分より優れた人物を「公平と正義」の名の下に裁き、復讐を成し遂げることが出来ます。

 また、この「正義」の名の下に行われる裁きをキルケゴールは『現代の批判』の中で「水平化」という概念を用いて説明しています。

 そんなわけで、公衆は退屈しのぎに一匹の犬を飼っておく。この犬は文学界の卑劣漢である。いまだれかちょっとした人物が現れるとする、おそらく傑出した人物ならもっとおあつらえ向きだろう。するとその犬がけしかけられて、退屈しのぎがはじまる。この犬は人にかみつく癖があるので、その人の上衣のすそをひっ裂き、無礼ないたずらのかぎりをつくす―ついには公衆のほうが飽きてしまって「もうたくさんだ」と叫びだす。
 これで公衆は水平化をなしおえたことになる。少し強い男、ちょっとすぐれた男は、ひどい目にあったものだと思う―そして犬のほうは、むろん犬はどこまでも犬のままである。


 ここでいう犬とは末人であり、ツァラトゥストラのいうところの物書く賤民(末人や賤民にも色々と程度や種類があります)のことです。ツァラトゥストラと同様、キルケゴールも末人、物書く賤民、卑劣漢には容赦在りません。「犬のほうは、むろん犬はどこまでも犬のままである。」とは、つまり末人や賤民はどこまで行っても末人や賤民であり続けるということです。オルテガは『大衆の反逆』の中で、「悪人はたまに悪ではなくなることもあるが、バカは死ぬ瞬間まで、いつ如何なる時でもバカである」との趣旨の辛辣なコメントを残していますが、まさに、ニーチェやキルケゴールも全く同じ認識で、末人や賤民や卑劣漢は、どこまでいっても末人、賤民、卑劣漢であると考えていたようです。

 なぜ、末人は末人であり続けるのか?それは世間や世間の道徳、まさにツァラトゥストラの言うところの畜群道徳が彼らの卑劣極まる行為に正当性を与え続けてくれるからです。

 つまり、世間が畜群道徳である「平等思想」を価値ある道徳、最高の善として崇め奉ってくれている間は、賤民や卑劣漢は、時には聖人君子のように、またあるときは不正を糺す正義の味方のような顔をしながら、彼らの腐りきった劣情をちょっとした自分より少しばかり優れている人物にぶつけてストレスを発散させられるというワケです(もちろん、これはあくまで「平等主義」のもつ一側面に過ぎないということは付け添えておきます)。


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