今回も信州読書会のネタです。夏目漱石の『こころ』のKの自己欺瞞についての話です。

 夏目漱石の『こころ』を読んだことがない人のためにあらすじを説明すると、主に先生とKとお嬢さんという3名が主な登場人物であって、この3人の三角関係が物語の中心になっています。

 Kは先生の大学生時代の親友なのですが、不遇な人生を送りながら意志の力を鍛えて強い人間になることを目的として非常にストイックに修行と勉学に励む学生でした。そんなKを見て先生は「コイツは凄い!!彼は現実世界で様々な不幸を体験しながらもそれを乗り越えて強い意志を持って乗り越えようとしている。彼は、現実世界の苦悩を乗り越えて超越的な何かを見つめている男だ!!」と感じて尊敬するんですね。

 しかし一方で、親に勘当されて貧しい生活を送りながらバイトと勉学に励むKの様子に見かねて、先生は自分の下宿屋に来るようにいます。その下宿屋は奥さんとお嬢さん(後の奥さん)が経営しています。しかし、その下宿に来たことでKの様子に変化が起こります。

 それまで、意志の力を鍛えて強い人間になることを目的に生きていたKが、下宿に来たことで下宿先のお嬢さんに恋してしまうんですね。また、Kが下宿先に来たことで、先生とお嬢さんの関係にも変化が起こります。それまで先生はお嬢さんのことをなんとも思っていなかったのですが、Kが下宿先でお嬢さんと仲良く話している様子を見て、先生は「自分がお嬢さんのことを好きだった」ということに気づきます。

 そこで、先生はKにお嬢さんに惚れてしまったことを告げます。そして、Kが昔言った「精神的に向上心の無いものは馬鹿だ。」という言葉をK自身にぶつけて、Kに対して、「お前は精神的向上心が無い者はバカだ、と言ったのにお前は精神的な向上心を忘れて堕落している」というような趣旨のことを言います。さらに先生はお嬢さんの母親にお嬢さんとの結婚の約束まで取り付けます。

 このことを知ったKは、二日後に遺書を残して自殺します。

 このKの自殺に関して、コチラのブログ記事では次のように解説されています。

『Kが自殺した本当の理由 <こころ/夏目漱石>』

Kの自殺の理由は一言であらわすと「断罪」です。

ただこれだけでは納得していただけないと思いますので、もう少し詳しく書いていきます。

Kの自殺の理由を知るためには、まずKのパーソナリティと時代背景について知らなければなりません。
Kは求道者です。普段から「精神的向上心のないものは馬鹿だ」と口にするように「道」の高みに到達することこそが彼の信条でした。彼の言う「精神的向上心」には禁欲的な意味も含まれています。現代ではこのような人はほとんどいませんが、Kにとって、あらゆる欲望は「道」をきわめる上での「妨げ」でした。
もちろん「恋」もその例外ではありません。
Kは勘当されることすら厭わずに確信を持って養家を欺いてまで、自分の「道」を進もうとした男です。言うなれば自分から進んで勘当されたようなものです。
その根底には「道」のためにはすべてを犠牲にしなければならないといった信条があったからです。道こそが彼のそれまでの人生のすべてだったのです。
そのような性質をもった人間が他者による裏切りによって自殺したりはしないものです。

また、自分から進んで養家を裏切っておいて、勘当された寂しさから自殺というのは考えにくいと言えます。
Kの遺書の最後に「もっと早く死ぬべきだったのになぜここまで生きてしまったのだろう」と書かれていますが、その「死ぬべきだった時」というのは「恋をしてしまった時点」です。
Kは「先生」から「君の心でそれを止めるだけの覚悟がなければ。一体君は君の平生の主張をどうするつもりなのか」と詰問されたとき、「覚悟ならないこともない」と独り言のように呟きます。
なぜこのときのKが先生には夢の中の独り言のように映ったのか。
その覚悟が「お嬢さん」に思いを告げる覚悟などではなかったからです。
つまり、「自殺する覚悟」だったからこそ先生の目にはKが独り言を言ってるように映ったのです。
Kの「覚悟」とは「自分は道を踏み外してしまったが、自分で自分を裁くくらいの覚悟はある」という「覚悟」です。
Kは「自分で自分を裏切った罪」を自殺でもってして裁きました。
「精神的向上心のないものは馬鹿だ」と言うくらい禁欲的に生きてきた、Kにとって「恋」そのものが「道」を踏み外すことと同義でした。
失恋が自殺の理由であれば遺書に「もっと早く死ぬべきだった」という言葉は残しません。
自分を裁く覚悟があり、「道」を踏み外した時点で死ぬべきだったのに死ななかったからこそKは「もっと早く死ぬべきだった」という言葉を遺書に残したのです。
つまりお嬢さんを先生に取られてしまったことは自殺の理由の本質ではありません。


 思うに、Kは自己の意志の強さと、意志の弱さの挟まれて追い詰められたてしまったのではないかと思います。つまり、Kは意志の強さで恋の誘惑を乗り越えられるほど強くはなく、かといって、自分が道を踏み外してしまったことを「ちょっとした気の迷いだったんだな・・・」と思って改めて修行の道に入ろうと気を取り直すにはストイック過ぎたワケです。

 ところで、信州読書会の宮沢さんはこの夏目漱石の『こころ』に関して面白い指摘をしていて、この作品では、Kの背負っていた苦悩や絶望が、Kの自殺を境にKから先生へと引き継がれたというんですね。で、まあ結論を言ってしまうと、この後で先生も絶望して自殺することになります。つまり、おそらくKにとって数少ない友人であったであろう先生も、ほとんどKと同種の人間、つまり、誘惑を意志の力で振り切る程には強くなく、自分の過ちを忘れて開き直るにはストイック過ぎる人間だったのです。

 私の考えでは、この『こころ』の悲劇は、Kや先生の外的な体験にあるのではなく、むしろ彼らの内面にあるのではないかと。つまり、Kに「いやー、意志の力を鍛えて強い人間になることを目的にしてたけど、ついつい下宿先のお嬢さんに恋して道を誤っちゃったよwおまけに、そのお嬢さんは親友だと思ってた先生と結婚しちゃうし・・・いやぁ踏んだり蹴ったりだな(笑)」と言って笑い飛ばせるだけのユーモアや諧謔精神があれば、あるいは、そういって笑い話にして一緒に笑いながら酒を飲めるような友人がいればKは自殺しなくて済んだのではないかと思うんですね。

 こう考えると、笑いやユーモアというのはある種の強靭性なのかもしれません。つまり、強固な意志力だけでは、どれだけ頑丈に見えてもその頑丈さを超えるショックがあればポキっと折れてしまう。しかし、一方で、笑いやユーモアというものは大きなショックを吸収して、ゴムや柳のように受け流してしまえる。

 これは、どこかさやかちゃん問題とも通じるところがあると思うのですが、クソ真面目な人間と言うのは全ての問題を真っ正面から受け止め過ぎるきらいがあるんですね。一方で、心にアソビがある人間はそれをヒラリと交わしたり、上手く受け流したりして飄々としていられる。

 笑いというのは、一見不真面目なようでいて、実は自分自身を冷静に客観視しなければならないことであって、ある意味では、真正面から深刻に受け止めて苦悩すること以上に高度な知的作業であるかもしれません。つまり、真正面から受け止めた場合一つの事象に対してたった一つの目線だけからしか眺められないの対して、それを笑いにして受け流すためには、一つの事象を自分自身の主観的な視点、他者から見た客観的な視点、それを悲劇として考えた場合の解釈、それを喜劇として考えた場合の解釈とより多様な観点から捉える必要が生まれますが、この視点の多様化そのものが一つの高度な知的作業であると言えます。

 このような視点の多角化は、それ自体が悲劇を相対化し、悲劇の相対化はその悲劇を乗り越えることを容易にします。もちろん、全ての事象を相対化し、「絶対的なものなど何もない」とニヒリストを気取ることも気持ち悪いのですが、一方で、世の中の全ての事象をあまりにもクソ真面目に捉え過ぎれば精神は摩耗しますし、乗り越え難い悲劇を前にして自殺するよりは、それを相対化してやり過ごすような知恵も必要なのではないでしょうか。


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