最近YouTubeの信州読書会という方の動画音声にハマっていてよく聞くのですが、最近聞いた音声で、面白かったのが、「結局日本人というのは、一度も主体性を持って生きるという経験を持ったことがないのではないか?」ということに関する問題です。

 確かに、日本の歴史を考えると常に受け身です。明治維新や近代化は外圧によってなされ、その後の民主主義の導入なども基本的には欧米からのそのまま持ってきただけです、しかもそれでも、日本人一人一人が自分たちの権利を主張したことから起きた内発的なものではなく、基本的には欧米の近代化を真似した猿真似でしかありません。他にも、過去の戦争を振り返った際にやたらと受け身的な、世界の運命の波に翻弄される中で戦争に突き進んでいった日本、という像が明確に描き出されており、この点においてもやはり主体的な意思を確認することは出来ません。

 では、欧米はどうだったのでしょう?ちょうどいい資料として、『民主主義がアフリカ経済を殺す: 最底辺の10億人の国で起きている真実』という本の中で欧米の国民国家や市民社会の成り立ちが解説されています。

 さて実働は開始したものの、まだ少数の者にしか利益を与えていない国家から国民全員に利する国家となる最後のステップがまた長い道のりだ。もしもあなたの国が他国に囲まれていたらそうした隣国たちが最大の脅威となるだろう。彼らを倒して併合するか、彼らがあなたを倒して吸収するかだ。こうして軍拡競争が進む。そのためには高い課税が必要となるが、他方で武力衝突はナショナリズムという意識を生み出す。アイデンティティーの共有を国民が意識し始めるのだ。実効性のある国家は経済成長を促進するので、政治的弱者たちをいっそう力づける。独裁体制下では、所得拡大に応じて政治的暴力が発生しやすくなっていたことを思い出そう。具体的には暴動、デモ、政治的ストライキなどに悩まされるようになる。共有されたアイデンティティーによって集団的な抗議行動はいっそう容易になり、その圧力によって、さらに水準の高い公共財の供給をエリートたちから徐々に引き出す。それらの改善を確実に定着させていくなかで、エリートたちは市民権の限定的な拡大もしぶしぶ認める。そうして国家は少しずつ近代民主主義へと前進していく。

 つまり、欧米の国民国家や民主主義、市民社会といったものの成立は、内における権力者との戦いと、外における外国の武力との戦いという二つの異なる驚異との戦いにおける緊張関係によって生み出されたものなのです。これは日本の近代国家の形成とは全く違った成り立ちであるといえるでしょう(また、日本ドイツのような後発近代国の成り立ちがその後の歴史上の悲劇を生み出す重要な要因の一つであったということは、また別の機会で解説します)。

 戦争がもたらしたもうひとつの結果は、財政におけるアカウンタビリティーの普及だ。各国の政府は富裕層にアカウンタビリティーを示さなければ、十分な課税と借り入れができなかったからだ。しかし、この時点でも諸国家は依然、近代自由国家からはほど遠い状態だった。まだ民主主義とは呼べず、税収の活用先も社会的支出ではまったくなかった。一九世紀半ばの諸国家は富裕層が運営しており、彼らの優先事項は国家の安全保障だった。この時代から現代までの道のりには、彼らに排除された者たちの政治的抗議が敷き詰められている。そして次第に、少しずつだが、状況の悪化を避けるために富裕層は特権をほかの者にも拡大した。これによってしっかりと富裕層を再分配改革に取り組ませることが可能になり、その改革は経済的損失を覚悟で抜本的に撤回されないかぎり、不可逆なものとなった。民族国家がにじり寄るように民主主義に近づき、それによって政府の優先事項が一般市民の優先事項に近づいた。防衛への専心に置き換わったのが、保健衛生や教育といった公共財の供給だ。国家は次第に、一般市民の利益に拘束されるようになった。こうして、われわれはついに近代の自由民主主義国家にたどり着いた。
 近代国家の進化は、この分析上では、暴力によって牽引されていた。略奪的な支配者たちは少しずつ、必死に人々を喜ばせ、貢献を約束する近代の票取り政治家へと進化してきた。曲がりくねった道のりのなかで、近代国家は公共財の供給という役割を発達させてきたのだ。


 つまり、何が言いたいのかというと、日本人は過去から現在にいたるまで一度として、内から湧き上がる希望や渇望によって戦うようなことはなかった。つまり、田吾作国家の田吾作国民として、「なんとなく平和に平凡に生きていければいいなぁ」とぼんやり考えながら、まさにそのの望みどおりに死んでいった。基本的に、外との戦いは外圧であり、巻き込まれ型の衝突によって、自分たちの平穏な生活を守るために戦った。

 いわゆるネトウヨやそのシンパたちは、「日本国憲法は押しつけ憲法だ!!」ということをことあるごとに主張しますが、はっきり言ってしまえば、憲法だけでなく、民主主義だって国民国家だって全て外部から取り入れた制度であって、押しつけという言葉が強すぎるとしても、せいぜい借り物の制度でしかないんですね。

 私は、もはや、「憲法改正になんの意味もない」と考えるほどの状況には悲観的ですが、それでも、もし、本格的に憲法そのものを見直す、くらいの抜本的な制度の見直しと再検討を加えるならば、せめて、それと同時に、「いったい民主主義とはなんなのか?」「国民国家や社会福祉とはいかなる歴史的経緯を経て生み出されたものなのか?」」といった問題まで遡って徹底的に再検証を加え、根本から問題を問い直す、くらいのことはやってほしいものだと思います。また、それができなければ憲法改正も自主憲法制定も単なる権力者による恣意的な憲法と法律の改竄と、立憲主義の破壊という最悪の結果を及ぼすだけの事態となるでしょう。


↓応援よろしくお願いします(σ≧∀≦)σイェァ・・・・・----☆★



↓新動画『安倍政権「移民政策だと思われないギリギリまで移民政策を推進する!」』٩( 'ω' )و