久しぶりに本のレビューです。例の事件が起こる前の段階では表現者の討論の問題を安保法制と絡めて様々に議論していたのですが、例の事件のインパクトでいろいろ考えていたことが全て頭の中からすっ飛んでしまったこと、それから、安保法制関連の問題がことごとくバカバカしく感じてしまったことから、もうこれ以上安保法制や集団的自衛権に関する議論を継続することが私の中で困難になってしまいました(とは言っても、また気が向けば再開するかもしれませんが)。

 何が、それほどバカバカしいかといえば、結局、今の日本が60年前から一歩たりとも進歩していないという点です。私のニコニコ生放送のコメントではたびたび「今の日本の左右の対立はアメリカが恣意的に作った左右の対立軸のもとで踊らされているだけだ」という趣旨のコメントが書き込まれるのですが、今回の騒動も、またその最たるものと言えるでしょう。

 陰謀論の世界では、よく、世界の運命はたった数十人から百数十人程度の人間の意向によって決定されているなどといいます。もちろん、そんな陰謀論を信じているワケではないのですが、もし仮に世界の運命を決定させているそんな少数の集団がいるとするなら、現在の日本を見れば、こう言って大笑いするでしょう

「こいつ等は、なんて我々が予想してくれた通りの動きをしてくれる民族なんだ!!彼らは60年も前から1ミリたりとも進歩してないではないか!!」

と・・・。アメリカの手の平の上で踊り続けるにしたって、お前ら、60年前も全く同じ踊りを踊ってたじゃねーかよ・・・と、まあ、そんな風に思うワケです。

 それで、そんなバカ臭い踊りに一緒に参加するのが、一気にアホらしく思えてしまったので今回は、ちょっと趣向を変えて本のレビューです。

『解明される宗教 進化論的アプローチ』は宗教の問題について進化生物学的な観点からアプローチした著作です。ここで、日本人の似非知識人が好んで語る「海外で私は無宗教ですと言うと誰からも信頼されなくなる」といった俗説に関しても、アレコレ書きたいのですが、まあ、また気が向いたら、別の機会に・・・著者のデネットは特定の宗教の教えを信仰しない、いわゆる懐疑論者です。もちろん、アメリカではこういった懐疑論者に対する根強い偏見が存在するのは確かですが、彼は一流の知識人として認知されています。

 今回、面白い思ったので取り上げるのは、次のような記述です。

 複雑なことがたくさんあり、変化要因も多く存在する中で、私たちは上手に予測を立ててそれに従って行動することができるのだろうか?できるのである。実際、そうしている。一つだけ挙げる。テロ行為が頻繁に起こるようになった所はどこでも、それに引き込まれた人々ほとんどすべては、世間について十分学んだ上で(マージョー・ゴートナーの餌食になった人々の将来のように)将来への展望が開けず日常に倦怠感を覚えている若者たちなのだ。

 戦闘的な宗教集団―個々人が挙げる参加理由がどのようなものであれ―に関してもっとも魅力的に見えるものは、生き方が単純化されるという点である。善と悪の区別ははっきりと浮き彫りにされ、人生は行動によって形を変えていく。殉教―英雄として賛美される至高の行為―は、とりわけ、深い疎外感や屈辱感を抱き、何をしたら良いのか分からず絶望している人々にとって、人生のジレンマからの最終的な逃げ道を準備する(Stern,2003,pp.5-6)


 もちろん、これは宗教的過激派のテロ行為などについて解説した文章であるので、その範囲をどこまで拡大して適応できるのかは微妙な問題ではありますが、宗教テロのような極めて残虐で衝撃的な行為に関して、その根本原因を倦怠感ようは、人生のつまらなさ退屈さに置いている点は興味深い指摘であるように思います。つまり、宗教的な過激派に属することが、退屈で先の見えない(あるいは、逆に先の見えている)人生を刺激的で有意義なものに変化させてくれるということです。

 また、このような点に加えて、この文章はもう一つ、あらゆる種類の社会活動や言論に参加するものが陥りがちな陥穽を示しているように思います。それは、ずばり「世の中を単純な善と悪に二分し、自分を善のほうに置きたがる欲望」です。

 特定の価値観を共有することで、「善と悪の区別ははっきりと浮き彫り」にさせ、そして、特定の思想、もしくは行動様式を共有する、もしくは、自分が善であると信じる集団に所属することで自らを善の側に置く。

 これらの選択こそが、以前書いた記事(『言論について色々思ったことを・・・』)で書いた。

「○○について××と論ずることこそが愛国心の発露なり!!」というどうしようもない思考停止から出発

最終的には、「俺が、これだけ国家や社会のことを考えているのに、周りの連中は、なぜ俺のことを理解しないのだ!!俺が、これだけ必死に努力してるのに社会が良くならないのは、周りの連中がバカで愚かで、怠慢であるせいだ!!」などと現実離れした妄想を抱くに至る


という極めて下らない馬鹿げた幻想へと至る道筋なのではないかと思います。

 このような馬鹿げた考えを回避するための一つの(陳腐な)アドバイスの一つとして、「有能な社会運動家である前に、善良な一市民、もしくは善良な一生活者であれ!!」というものが、考えられますが、しかし、またこのような思考の罠に陥りがちな思考回路を持つ者にとっては、このような助言を踏まえたうえで再び「悪しき権力者と、善良な市民」あるいは「善き生活者と、空想的社会運動家」などといった(明確には意識化されないまでも)新たな善悪の対立軸を生み出す可能性が大いにあるわけです。

 このような意味では、善を求める、善良でありたいと願う心と、この善悪を二分して自らを全の側に置きたがる思考の罠は、ほとんどコインの裏表といっても良いほどに切り離すことが困難であるのかもしれません。



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