前回記事(『もはや高齢厨二病と化した表現者グループ?』)では、結構勢いに任せて書いてしまったのでかなり感情的な文章になってしまいましたが、今回からは、各論で、彼らの議論にどのように違和感を覚えたかということについて解説すると共に気になったコメントにいくつか返信しようかと思います。

4. 無題
戦後批判は戦後を生きる人にしかできません。
戦後を生きる人は戦後を選んで生きているのではありません。

戦後の価値観に首まで浸かり、漂流するように生きるほうが楽でしょう。
戦後に嫌気がさした時点で生きることをやめてしまうほうが楽かもしれません。
戦後に生まれて戦後を生きるしかなくて、それでも戦後を批判する、それは根気がいることでしょう。

たしかに、戦後を生きているくせに戦後を全否定するのは傲慢だと感じる人もいると思います。
戦後批判をする人は、戦後人でしかない自分にも、その批判の矛先が向いてしまうことを自覚すべきです。

その上で僕は、表現者の人たちには違和感は感じませんでしたね。
。 2015-08-11 12:00:25


>戦後批判は戦後を生きる人にしかできません。
戦後を生きる人は戦後を選んで生きているのではありません。

戦後の価値観に首まで浸かり、漂流するように生きるほうが楽でしょう。


↑この点は全く納得します。しかし、私が納得できないのは「戦後に何一つ良いことはなかった」という一点です。

「戦後は最悪の時代だった」というのなら、まだしも納得いきますが、まず第一に「戦後に何一つ良いことがなかった」などと言うのは現実的にあり得ません(橋下の言う「藤井の言うことは全てデマだ」ということが論理的にほとんどあり得ないというのと同様です)。

 だからこそ、西部さんは「戦後は物質的に豊かになったことは認める」として、あくまでレトリックとして「何一つ良いことはなかった」と言ったのだということを(実質的に)認めています。問題は、(あえて誰とは言いませんが)この西部さんの発言に乗っかって、あたかも自分は同時代人と隔絶された存在であるがごとき視点から「戦後に何一つ良いことはなかった」と発言しながら、それについて訂正もどのような意図を持ってそのような発言に同調したのか?という説明すらもなさない連中です。

 まず第一に「戦後に何一つ良いことはなかった」ということが論理的にほとんどあり得ないことから、これに一切の訂正も、どのような意味において言ったのか?という解説もなしていないという時点で、彼らの言葉使いには言論人として致命的な欠陥を負っているように思います。

 さらに、「戦後に何一つ良いことなかった」と断じる彼らには、同時代に生きる尊敬すべき恩師も、世話になった両親も、信頼できる友人や、愛すべき恋人や配偶者も一切存在しないのでしょうか?

 もし、この問いに「そうだ」と答えるのであれば、私はそのような人物には感性もしくは人間性において著しい欠陥を抱えているとしか思えません(もし、先の問いに「そうだ」と答える人物で、なおかつ、人間的な欠陥を抱えていないのであれば、おそらくそのような人物は私の理解の範疇を遥かに超越した超人であるのでしょう。ただし、残念なことに彼らの中に、それほどの超越性あるいはその片鱗すらうかがわせるような人物はいませんでした)。

 と、まあ、いきなりコメント紹介から長くなってしまったのですが、とりあえず、今回はもう少し具体論で、あの議論のどこがオカシイと感じたかについて説明します。

 一つは、国家の緊急事態法案についてです。西部さんは、「全面戦争が発生した際には、憲法も憲法の下にある法律も全て停止する」と述べているにも関わらず、「だから、非常事態法が憲法に定められていないのはオカシイ!!」と左翼や憲法学者を批判するような文脈で述べていました。

 しかし、私はこれはオカシイと思います。まず、常識的に考えて、国家と国家が全面戦争を行うような非常事態において、あらゆる憲法と法律を平時と同様に完全に機能させられるなどと考えている人間は(基本的には)いないでしょう。つまり、本当に、全面戦争が発生するような緊急事態においては憲法が停止することくらいは平和主義の左翼や護憲派の憲法学者だって理解しているワケです(さすがに、戦闘機やミサイルが飛び交う中で「平和を守れ!!」「憲法を遵守せよ!!」と叫ぶほど気合の入った護憲派平和主義者もいないと思うので)。つまり、護憲派だろうが、平和主義的左翼だろうが、基本的には平時を想定して「平和を守れ!!」「憲法を守れ!!」と主張していると考えるのが筋です。

 それで、先の緊急事態法に戻すと、西部さんは「全面戦争が発生が発生すれば憲法は停止する」と述べているワケです。つまり、全面戦争になれば、憲法に緊急事態法が明記され「憲法は停止する」などと書かれていようが、書かれていなかろうが、憲法は停止して緊急事態の態勢になります。

 特に、おかしいのが、西部さんやこの意見に同調する他の参加者は、明らかに「憲法学者や左翼は憲法の文言に拘泥しすぎている」という文脈の中で、このような批判を展開しているのですが、まともに考えれば、全面戦争が発生するような緊急事態においては、緊急事態法の有無に関わらず憲法が停止するのは当然なのですから、その意味において、憲法の文言に拘泥し過ぎてると批判を行っている彼らこそ、意味もなく憲法の文言に拘泥していると言えるのではないでしょうか?

 では、「緊急事態法を憲法に入れるのは危険だ!!」と主張する護憲派に関してはどうでしょう?先の論理から、これは一見批判すべき愚鈍な平和主義者であるように思えるかもしれません。が、しかし私はそうは思いません。

 何故なら、あえて(平時に適用される)憲法に、非常事態法を入れることにより、非常事態の拡大解釈が可能になる可能性が否定できないからです。例えば一例を挙げましょう。

 今回の安保法制では、集団的自衛権を行使できる要件として国家の存立危機事態や武力攻撃に相当する危機(そもそも、このような事態において武力行使を行うことがなぜ個別的自衛権ではなく集団的自衛権と解されるのか?という疑問はとりあえず脇に置きます)といったものが想定されています。

 では、武力攻撃に相当する事態とはどのような事態なのか?当然野党は首相に質問しましたが、その答えは、「中東情勢の混乱による石油価格の高騰」というものでした。つまり、この国の愚鈍極まる首相はミサイルや爆撃機で攻撃される被害と石油価格の高騰を同等の被害と考えているそうなのです。

 果たして、このような人間に、「非常事態において憲法を停止させる権限」を与えたいと思いますか?残念ながら私は絶対に与えたいとは思いませんし、そのような動きがあれば何が何でも止めるべきだと考えます。


↓応援よろしくお願いします(σ≧∀≦)σイェァ・・・・・----☆★



↓『くまくまニュース(。・(エ)・。)ノ』第14回です!!【悲報】問題発言総理補佐官礒崎陽輔氏立憲主義を知らなかった… ٩( 'ω' )و