『ニューアース』(エックハルト・トール 著)という本で知ったのですが、以前カンボジアではポルポト時代に眼鏡をかけている全ての人が殺されたそうです。理由は眼鏡をかけているものは知的エリートであり、知的エリートはブルジョア階級の味方でありプロレタリアの敵、革命の障害であるという理由だそうです。要はレッテル貼りと糾弾ですね。

 左翼というのは、どうにもこのパターンが多いようで日本でも学生運動の全盛期にはある建物を見て、「あの建物は体制的だ!!」といって打壊そうとしたなどというバカバカしいエピソードもあります。

 しかしまあ、こんな昔の左翼のバカバカしさを笑えないのが今のネトウヨという奴で、何でもかんでも愛国的なもの、あるいは人と、売国的なそれとに分けてレッテル貼りし糾弾するという事が非常に多いです。彼らは、おそらく「(売国的な)左翼とは違って、自分たちは保守であり愛国者だ!!」と考えているのでしょうが、その手法自体に対した差はありません。左翼は、ブルジョワ的なもの(あるいは彼らがそうであるとみなすもの)に負のレッテルを貼って糾弾しましたが、現在のネトウヨは売国的なものをレッテル貼りし糾弾しているというだけの違いしかありません。

 さらに厄介なのは、一度このような単純なレッテル貼りが横行すると、(以前の左翼がそうなったのと全く同じように)どんどん馬鹿になっていくということです。まあ、当然ですね、頭も身体と同じで使わなければ衰えます。つまり、過度に単純なレッテル貼りを行うという事は思考を停止しているということです。本来頭を使って物事の深い本質を見極めるべきところを、極めて浅い偏見的なレベルでレッテル貼りしすることで思考を停止しているワケです。

 また、彼らの厄介なところは、思考停止している分、それだけ馬鹿になっていっているにも関わらず、自分たちは賢いと思っている点です。客観的に見れば明らかに馬鹿なのに、なぜ彼らは自分たちを賢いと思うのか、理由は単純で極めて浅いレベルでしか物事を考えられない習慣の身についてしまった彼らは、自分たちの思考のレベルの低さについても洞察が不可能になっているからです。つまり、仮に物事に対する洞察の深みに1~5くらいの段階があるとするなら、彼らは1~せいぜい2程度の段階までの洞察で満足し切り、それ以上の3~5といったより深いレベルでの物事の考え方捉え方が存在するかもしれないという想像力を完全に喪失しているということです。

 最後に、このブログでは何度も繰り返し引用していますがオルテガの例のあの文章で終わりにしたいと思います。

 したがって、愚か者と炯眼の士とのあいだに永遠に存在する差異と同じものを、ここに見るのである。炯眼の人は、自分が愚か者とつねに紙一重であることを知って驚く。だから、目前のばかげたことを避けようと努力するし、その努力のなかに知性が存する。それにたいし、愚か者は、自分のことを疑ってみない。自分がきわめて分別があるように思う。ばかが自分の愚かさのなかであぐらをかくあの羨むべき平静さは、ここから生まれるのである。住んでいる穴から外へひきだしようのない昆虫みたいなもので、愚か者をその愚行から解き放ち、しばらくでもその暗闇から出して、いつもの愚かな見方を、もっと鋭い見方と比較してみるように強制する方法はないのである。愚か者は終生そうであって、抜け穴がない。
 だからこそアナトール・フランスは、愚か者は邪悪な人間より始末が悪い、といったのだ。つまり、邪悪な人間はときどき邪悪でなくなるが、愚か者は死ぬまで治らないからだ。




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