中国、米国や日本も「格下」その「傲慢」さの裏にある「大国意識」 | 勝又壽良の経済時評

中国、米国や日本も「格下」その「傲慢」さの裏にある「大国意識」

キッシンジャー氏の中国観
中華文明は「衰頽の運命」
「経済強国」の条件とは?

あるときは「新興国」と称し、ときには「大国」として振る舞っている。それが中国だ。真意はどこにあるのか。これを解く鍵は、「1人当たりGDP」と「世界2位の経済大国」のギャップにある。前者ならば、紛れもない発展途上国であり、後者ならば「大国」である。どちらのカードを使うかと言えば、経済的負担を被るときはそれを逃れるべく「新興国」と称している。今回のIMF(国際通貨基金)の4300億ドルの資金増強策では、金額を発表せずに逃げ隠れした。政治的な発言や軍事問題になると俄然、「経済大国」の切り札を切ってくる。こうした「二枚看板」を使うものの、本音は傍目も気にしないほどの「大国意識」である。余りにも露骨すぎて、周辺国は辟易させられているのだ。

そのなかで、元・米国務長官経験者のヘンリー・A・キッシンジャー博士(1923年生まれ)は、中国の立場に相当の理解を示す一人である。彼が1971年、秘密裏に北京を電撃訪問して以来、変わらない中国への深い理解がもたらしたものと見られる。彼と周恩来首相との飾らない、駆け引きのない、本心に基づく会話が育んだ相互理解と言っても良い。当時の米国と中国は、ある意味で同じ外交的な苦しい立場にあった。

米国は対ソ連外交の行き詰まり、ベトナム戦争の泥沼化に喘いでいた。一方の中国は、ソ連軍が中ソ国境線に50万という大軍を貼り付けており、いつ攻め込んでくるか分らない緊急事態にあった。米国は対中外交を突破口にして、ベトナムへの中国軍介入意図のないことを確認してから撤退すること。同時に、米中復交をテコにして、対ソ外交で優位に立つという思惑があった。片や中国も対米復交を足がかりに、対ソ外交を有利に展開させる狙いがあった。こうして米中の外交的な思惑は完全に一致したのだ。

キッシンジャー氏の中国観
キッシンジャー博士にしてみれば、自らが切り開いた米中外交の経験から、現在の米中関係の緊迫化に対して、何とか打開できないかという真剣な模索が続いている。その思いが、論文「アジアにおけるアメリカと中国」(『フォーリン・アフェアーズ・リポート』2012年3月号)に散見される。以下に、重要と見られる箇所を紹介したい。

①「アメリカの指導者たちは、国内政治の必要性ゆえに敵対的な政策を表明するなど、中国を全面的な攻撃対象にすることもある。実際には穏健な政策が妥当な路線であるにも関わらず、敵対的政策をちらつかせることが多い。だが、中国のことを『戦略的な敵対勢力』と表明するなど、中国の政策の基本動機を攻撃するのは問題がある。攻撃を受けた側は、国内政治の必要性から見て敵意には敵意で反応すべきかどうかを考えるようになる。同時に、中国の政府系メディアによる報道を含む、中国側の挑発的な声明は、それがどのような国内圧力、あるいは意図を背景に持つかに関係なく、それが示唆する行動は何かという点で解釈される」。

②「アメリカの専門家達は、その政治的立場を問わず、『中国は台頭する大国でまだ成熟する必要があり、世界でどのような責任を果たしていくかを学ぶべき立場にある』と描写することが多い。だが中国側は自国のことを台頭する大国としてではなく、『大国へ復帰しつつある国』とみている。『植民地の獲得を目指す列強が中国の内紛と衰頽に付け込んだ結果、一時的に大国の座を失ったが、2000年にわたってアジアで支配的な優位をもってきた国として、その地位を再確立しつつあるだけだ』と」。

③「北京にしてみれば、強固な中国が経済、文化、政治、軍事領域で大きな影響力をもつのは、世界秩序に対する不自然な挑戦ではなく、『正常への復帰』なのだ。2000年の歴史をもつ国に『もっと大人になるべきだ』とか、『責任ある行動をとるべきだ』とお説教をたれるのが不必要な摩擦を起こすだけであることを理解するのに、こうした中国側の認識を逐一検証する必要もないだろう」。

④「とはいえ北京も、『伝統的な優位を再確立するために中国を復活させる』といった公的、私的レベルでの声明が、内外で異なるニュアンスで受け止められることを理解しなければならない。1世紀におよんだ屈辱な時代を経て、中国が国家目的を回復するような最近の力強い台頭を誇りにするのは当然であろう。だが、中国に朝貢していた時代にノスタルジーを感じるアジアの国はほとんどない。半植民地闘争を経験しているアジア諸国の多くは、自国の独立を維持し、欧米であれ、アジアであれ、外国のパワーに対して行動の自由を確保することには非常に神経質だ。アジア諸国が可能な限り多くの経済、政治領域の活動に関与しようとする一つの理由はこのためだ。アジア諸国はアメリカが地域的な役割を果たすことを望んでいるが、それは(中国に対する)均衡を保つためであり、アメリカが十字軍としての役割を果たし、中国と対決することは望んでいない」。

⑤「アメリカ人は、仮に中国のGDPがアメリカのそれと肩を並べたとしても、それをアメリカの4倍の人口をもち、高齢化し、成長と都市化が引き起こす複雑な変化を経験して、北京(注:政府)が社会(注:国民)に分配しなければならないことを理解すべきだ。結局のところ、中国はそのエネルギーの多くを国内問題の対応に充てざるを得ない。双方とも、相手の行動を、警戒すべきものとみなすのではなく、国際関係における日常として受け入れるだけの懐の深さをもつべきだ」。

中華文明は「衰頽の運命」
来年90歳を迎える米外交界の最長老が、米中関係の将来に対して率直な意見を述べている点は、きわめて注目すべきものであろう。中国の「本音」部分をこれだけ捉えているのは、米中復交の立役者になったキッシンジャー博士への親近感がもたらしたと思われる。それだけに、中国の「危険」な部分もまた赤裸々に語られているのだ。つまり、中国はすでに「超大国」であるという自負である。果たしてそうだろうか。現実とのギャップが余りにも大きいのである。人口、国土、歴史という「三点セット」をひっさげて、中国は昔から大国であったという認識自体が、私にはグロテスクに映るのだ。中国の危険性はまさにここに存在する。これが、一読しての総論的な感想である。

①では、「中国の政府系メディアによる報道を含む、中国側の挑発的な声明は、それがどのような国内圧力、あるいは意図を背景に持つかに関係なく、それが示唆する行動は何かという点で解釈される」としている。中国の政府系メディアの発言は、驚くほど直截的な表現である。感情のコントロールが全く利かない発言で相手国を攻撃するのだ。「尖閣事件」の際の日本攻撃は下品そのものだった。以来、私の中国への気持ちは大きな変化が起こったのである。外交関係では冷静なやり取りが先ず必要なのだ。

②では、「中国側は自国のことを台頭する大国としてではなく、『大国へ復帰しつつある国』とみている。『植民地の獲得を目指す列強が中国の内紛と衰頽に付け込んだ結果、一時的に大国の座を失ったが、2000年にわたってアジアで支配的な優位をもってきた国として、その地位を再確立しつつあるだけだ』」。この中国側の「自国診断」はきわめて興味深い。それは、アーノルド・J・トインビー博士の『歴史の研究』の分析結果がそのままあてはまるからだ。トインビー博士は、中国を衰頽文明として分類している。すでに2回、中国は世界史で輝かしい時代を画してきたが、現在は最後の段階にあるとみている。次のように「文明」一般の衰頽の過程を述べているのだ。

「文明の影響力の放射は、経済、政治、文化の三つの要素に分けて考えることができる。社会が成長の状態にある間は、これらの要素は三つとも等しい力で放射される。ところが文明の成長が停止するやいなや、文化の魅力は消滅する。経済と政治の放射の力は一層、急速に増大する可能性がある。否、事実そうなる場合が多い。しかし、文化的要素こそ文明の本質であって、経済的ならびに政治的要素は、文明が内にこもっている生命の比較的抹消的な現れであるから、経済や政治の力の放射はどんなにめざましい勝利を勝ち得ようと、それは不完全な、また当てにならない勝利と言える」。

この記述は、文明を構成する経済、政治、文化のうちで文化の果たす役割が、最も重要だと言っている。さて、これを中国に当てはめたとき現在、中国の「文化」が世界に影響を及ぼしているだろうか。残念ながら「孔子」文化は、現代社会が受け入れるものではない。民主主義社会においては、権威主義によって一方的に上が下を支配する関係にはないのだ。となると、中国がすでに世界をリードする「文化」を持たないという厳然たる事実に突き当たるのだ。ここで、米国人社会学者タルコット・パーソンズの「社会構造変化」の図式を次に示して、前記のトインビー博士の仮説を検証したい。

L(文化・宗教)→I(統合)→G(政治)→A(経済)

ここで、L(文化・宗教)が影響力を失ったならば、いずれ、G(政治)やA(経済)に影響が及ぶのである。中国について言えば、文化が影響力を失っている以上、政治や経済が光り輝いているように見えても、いずれは消滅するというパターンが想像される。これらのトインビーやパーソンズの考え方は、歴史社会学と言われるものだ。過去の文明発展過程から導かれた学問的な結論である。

③では、「2000年の歴史をもつ中国に『もっと大人になるべきだ』とか、『責任ある行動をとるべきだ』とお説教をたれるのが不必要な摩擦を起こすだけである」。果たしてそうだろうか。中国の文化は孔子文化である。2300年前の倫理であり、封建・専制の時代には適用できても、現代では適用不可能である。中国が過去の孔子文化にしがみつくのは、現代の民主主義政治思想と相容れず、他の諸国と摩擦を起こすだけである。その典型例としては、中国が国際法を間違って解釈し他国と紛争を起こしている。容認しがたい行動なのだ。「尖閣諸島」事件はその例である。

④では、「中国に朝貢(注:帰属)していた時代にノスタルジーを感じるアジアの国はほとんどない。半植民地闘争を経験しているアジア諸国の多くは、自国の独立を維持し、欧米であれ、アジアであれ、外国のパワーに対して行動の自由を確保することでは非常に神経質だ」。中国は周辺国に対してかつての「宗主国」気取りでいることが多い。現在、南シナ海で紛争を引き起こしている相手国を、公然と「小国」扱いして軍事力行使をほのめかすという無神経さである。

「経済強国」の条件とは?
⑤では、「アメリカ人は、仮に中国のGDPがアメリカのそれと肩を並べたとしても、それをアメリカの4倍の人口をもち、高齢化し、成長と都市化が引き起こす複雑な変化を経験して、北京が社会に分配しなければならないことを理解すべきだ。結局のところ、中国はそのエネルギーの多くを国内問題の対応に充てざるを得ない」。ここで問題になるのは果たして、GDPで米中は肩を並べるかいなかである。つまり、中国がそれだけの「経済強国」として発展する可能性をもっているか否かだ。

前記のパーソンズの「社会構造変化」の模式に従えば、「文化」がすでに現代社会に適応できなくなっている。より具体的に言えば、科学技術では部分的(通信関係)なものを除けば、まったくとるに値しないものばかりである。ニセモノ造りが横行しており、まともな製品づくりが不可能な状態である。法治精神がこれまた存在せず、汚職、賄賂など目を背けたくなる事件が頻発している。市場機構は「社会主義市場経済」という一種の統制経済で、政府のさじ加減一つで投資規模が決まるという、前近代的な様相を呈しているのだ。

試みに米国の社会構造と中国のそれを比較すれば、多言を要しまい。これまでの中国経済の発展は、生産年齢人口比率が上昇するという「人口ボーナス期」特有の現象だったのである。科学技術が貢献した経済発展ではないのだ。日本の経済発展コースと比較しても分るように、異色の経済発展であった。「人海戦術」で創り上げたGDP世界2位である。この現状を単純に将来へ延長して、何十年先には米国と肩を並べるという議論自体、ナンセンスであろう。

中国のこれまでの経済発展は、途上国としての「人海戦術」によって実現した。これを具体的に列挙すれば、次のようになる。(1)農村からの出稼ぎ労働者の「農民工」を安い賃金で雇用した。(2)彼らへの社会保障は実質上ゼロである。そこで高貯蓄率にならざるを得なかった。(3)この高貯蓄を背景にして、輸出と投資が主導する現在の経済システムを作りあげたにすぎない。要するに、(1)と(2)はきわめて非人道的な政策であり、共産主義政治において認められるものではない。こうした継続性のない政策がもたらした高度成長が、今後続くわけはまったくないのだ。この論法で考えれば、中国に明るい未来があるとは思えない。中国の経済政策は矛盾に満ちており、これを基盤に現在の中国政治は行なわれている。薄熙来(ボー・シーライ)事件は、その矛盾の一端が暴露されたのである。

(2012年4月26日)


インドの飛翔vs中国の屈折/勝又 壽良

¥2,415
Amazon.co.jp

日本株大復活/勝又 壽良

¥1,890
Amazon.co.jp

企業文化力と経営新時代/勝又 壽良

¥2,310
Amazon.co.jp