中国、「国家の大計」忘れた目先利益追求の「破滅型行動」リスク! | 勝又壽良の経済時評

中国、「国家の大計」忘れた目先利益追求の「破滅型行動」リスク!

日中の開国ほぼ同じ
安易な金儲けが身上
政府も課題先延ばし

中国社会は、目先利益の追求だけに血眼になる。これが世界での定説になっている。一方では、100年単位で物事を考えているとも言われている。果たして、どちらが本当なのか。ここ百数十年の歴史を見ると、残念ながら前者の「目先利益」追求型のようである。実は、目先利益の追求のみに力を入れて、将来を見据えた行動をしないことを、最新の「行動経済学」において「破滅型行動」と呼んでいる。

ここ10年ほど、経済学では従来の理想型人間モデルから脱皮して、人間の不合理な行動をも含めた現実の行動がどのような結果を生むか。そういう分野が脚光を浴びるようになっている。「行動経済学」と言われるものがこれである。こういった小難しいことを、取り上げようというものではない。中国を雛形にしてみると、この「行動経済学」はじつにうまく中国社会を説明できるのだ。そのことに気づいたからである。

日中の開国ほぼ同じ
時代的にみると、中国の近代化過程と日本のそれはほとんど同じ時期であった。中国は清末の1840年に英国からの阿片戦争で無理やり開国を迫られた。日本も1853年、米国のペルー来航によって、鎖国の夢が打ち破られた。このように中国も日本もきびすを接して、欧米の圧倒的な文化と経済力に遭遇した。だが、この両国はまったく違う近代化過程を経たのである。中国は欧米(そして後に、日本も尻馬に乗って)の植民地にされたが、日本はなぜ中国と同じ運命を辿らなかったのか。この日中の運命の違いは、偶然的なものでない。標題にあるように「目先の利益」を求めたのか。将来の目標を設定して、それに向けて政治的な選択をしたか。そいずれかの結果であった。

中国は、「中華思想」の国である。自国文化が世界一という考え方であるから、外国排斥は一貫して強いものがある。それは、政治だけでなく民衆レベルまで深く浸透していた。日本も江戸末期は、「尊皇攘夷」派が実権を握って江戸幕府を崩壊させた。現実は、「攘夷」とならず「開国」へと大きく舵を切ったのである。その点で、中国と日本は外国に対する見方が、百八十度異なっていた。その分岐点は、「目先の利益」をとるか、「開国の利益」をとるかの違いであった。中国は開国がやむを得ぬものとしても、底流は「排外主義」を堅持した。「中華思想」のもたらした、やむを得ざる結果である。日本は、文化から法律、政治、経済まで一切合切、上げて「欧風化」させた。その間、多くの悲喜劇を生んだが、根底にあったものは、「日本が遅れた国である」という深い認識からの出発である。

片や中国は、こうした「覚醒」には至らなかった。「中華思想」の国であるから、「中体西用論」に固執した。西洋の「用」(火砲・軍艦)は優れているが、中国の「体」(制度・文化)は遠く西洋にまさると考え、さらに西洋文物の起源をすべて中国にあるとした。つまり、世界文化の発祥は中国にあるという過信である。阿片戦争敗退への「怒り」「悔しさ」が、こうした「中体西用論」という「畸形」を生みだしたものである。この日中における異文明遭遇時にとった対応の違いこそ、アーノルド・J・トインビー博士が指摘した中国の「狂信派」(ゼロット)ぶりを余すところなく示している。日本は「ヘロデ派」である。日本より進んでいる異文明のなかに、日本の将来の方向性を探ったのである。なお、「狂信派」や「ヘロデ派」については、3月13日、同6日のブログを参照していただきたい。

中国は異文明に支配されて植民地化された、その直接の原因は「阿片」である。その阿片にまつわる歴史を見ておきたい。こうした毒物を中国民衆が、なぜ吸引していたのか。阿片が治療の薬としてではなく、麻薬として中国に広まったのは清代に入ってからである。1796には清朝は輸入を禁止。1799年には国内における阿片の原料である「ケシ」の栽培を禁止した。英国側の資料によれば、阿片の中国輸入量は、1821年5500箱(1箱100斤=133.3ポンド)。それが、1838年には4万箱へと跳ね上がった。こうして急増する「阿片」輸入代金の支払いのため、それまで万年「輸出超過国」であった中国が、「輸入超過国」へと転落した。通貨の銀が大量流出するという経済危機を招いたのである。

以上の事実は、阿片戦争以前の話である。なぜ、中国大衆がこれほどまでに阿片の毒牙に軽く引っかかってしまったのか。私の見るところ、信仰という自己を厳しく律するものを持たなかったこと。真面目に働くという勤労観を持たなかったこと。これらが理由であろう。阿片の吸引が中国を滅ぼしたのである。

安易な金儲けが身上
以下には、中国が「目先の利益」のみを追っている現実を指摘したい。個人について言えば、「物づくり」による利益よりも、簡単に商売をして利益を上げるというパターンである。上海在住の田中信彦氏が『Wisdom News』(3月26日付け)で、次のように指摘している。

①「自分で体を動かして生業に取り組むのではなく、自分の資産を他人に貸すことによって収入を得ようとする傾向は中国社会には非常に強い。つまり言葉を変えれば、工夫の積み重ねで生産性を上げ、技術を蓄積して高収益を目指すという『製造業(industry)型』より、資産を貸す、運用する、回転させることによって収益を上げる『取引(trade)型』の性向がより顕著だと言っていい。

②「昨今の中国社会の『質的需要』の高まりを満たすには、まさに『インダストリー』型の発想で、これまでにない価値を生み出せる人を育てる必要がある。創意工夫とトレーニングの継続によって、『人』を創り出さなくてはならない。しかし、現実には中国社会に深く根付いた『トレード型』の発想は強固なものがあり、どうしても既にあるものを右から左に動かすことで収益を上げようとする行動が主流を占めてしまう傾向が強い」。

①では、「工夫の積み重ねで生産性を上げ、技術を蓄積して高収益を目指すという『製造業(industry)型』より、資産を貸す、運用する、回転させることによって収益を上げる『取引(trade)型』」が圧倒的であると言っている。これは中国社会が、いかに「目先の利益」を追い求めているかを示している。「ニセモノ造り」や「真面目に働かない」という悪弊をもたらしているのが、この「目先の利益」追求がもたらしたものだ。長い目でみればこれでは、自分の利益にならないはずである。

②では、「『質的需要』の高まりを満たすには、まさに『インダストリー』型の発想で、これまでにない価値を生み出せる人を育てる必要がある」としている。「質的需要」とは、需要の質が高まったという意味である。当然、その高いレベルの需要を満たすには、人材教育が必要である。現実は、そうした人材教育がなおざりにされている、というのだ。誰もが安直に「目先の利益」ばかりを考えている。

こうした先々を考えないという将来に対する「自滅的な選択」は、双曲割引といわれている。数学の「双曲線」を頭に描いていただきたい。直行座標のX軸とY軸とで描かれる双曲線は、Yの値が大きくなるほどY軸よりも大きく離れて行く。つまり、その時々の利益(X)を優先して、よりせっかちな選択をする傾向とされている。立派な蓄積や摂生の計画を立てても、実行に移す段階になると、それを先延ばしにして現在志向的な行動をとりたくなる。それが「自滅的な選択」につながる、というのだ。自己流解釈であるが、「目先の利益」を追いかける経済行動は、まさに「双曲的な人」である。その典型が中国社会なのだ。

『レコードチャイナ』(3月23日付け)は、中国に喫煙人口が世界の3分の1も占めるという。

②「世界肺財団と米国ガン協会がこのほど発表したデータによると、西ヨーロッパでは税の引き上げや節煙政策により、タバコ消費は1990年から2009年の10年間で26%減少した。一方、中東アジアやアフリカの消費は57%増加した。タバコの消費が増加した国の多くは発展途上国で、発展途上国の喫煙者は男性が8億人、女性が2億人ほどいるという。このように男性がタバコの消費を牽引している。中国の場合はさらにこれが顕著である。中国の喫煙者のうち、女性は僅か2%で、男性は2人に1人が喫煙者である。中国人喫煙者は世界の喫煙者の3分の1を占めている」。

日本の喫煙者には申し訳ない記事だが、中国の総人口が世界に占める比率はざっと2割である。ところが、喫煙者比率では3割強である。中国の場合は、大気汚染が深刻で喫煙しなくても肺ガンになる可能性が高いとされている。それにもかかわらず、男子の5割が喫煙と言えば、肺ガンの罹病率は一層高まる恐れが強い。中国では現代の「阿片」が、タバコともいえるのだ。「目先の利益(趣好)」を求めて、自己の健康問題を全く忘れた振る舞いと言えよう。

政府も課題先延ばし
繰り返すと、「双曲的な人」とは立派な蓄積や摂生の計画を立てても、実行に移す段階になると、それを先延ばしにして「現在志向的」な行動をとりたくなる。こういう「定義」を先に記しておいた。これは、個人だけにあてはまる話ではない。政府もその対象になる。つまり「双曲的な国家」が中国政府である。中国政府は5カ年計画のたびに「立派な」文言で、計画を飾り立てているが、実行段階になると先延ばしにされてしまっている。要するに、実行されないのだ。

胡錦涛政権になった直後の2004年、「科学的発展観」なるものが共産党規約に組み込まれている。門外漢には理解しがたい言葉だが、遠藤誉『チャイナ・ナイン』(朝日新聞出版 2012年)は、次の通り「解説」している。

③「改革開放以来、中国は過度に経済発展だけを重視してきた。そこには客観性が欠けていたほどで、それをそのまま続けると、中国社会の安定的な発展を阻害し、自然環境を破壊する。したがって、真の持続的発展を継続し、より多くの国民に満足と幸福をもたらすには、貧富の格差や地域の格差を是正し、エネルギー資源の無駄をなくし、環境を保護して、国民の安全や福祉を守らなければならない。そこには、『客観性』が必要で、この『客観性』を『科学的』と表現し、『科学的発展観』とした」。

江沢民主席時代は、「社会主義市場経済」による「先富論」で、しゃにむに経済成長を推進してきた。これが格差拡大や環境破壊をもたらした。その反省に立って、胡錦涛政権では「共同富裕論」=「共富論」の実現を目指したのであるが、現実はさらに矛盾の拡大という悪循環に陥っている。こうした「双曲的な国家」になった理由はなにか。それは「目先の利益」である経済成長を優先した結果である。経済成長による果実を、どこに優先的に配分したかと言えば、第一は共産党員、第二は軍事予算である。この二つが共産党政権を支える原動力であるからだ。要するに、共産党を支配しているものは、保守派と人民解放軍であって、彼らは強力な「産軍複合体」を形成する。中国の危険性はまさにここにあるのだ。政治改革を求める声は大きいが、それを阻止しているのは「産軍複合体」である。

中国社会が本質的に持っている危険性は、目先の利益だけを求める「破滅的行動」のもたらすものである。前・重慶市トップであった薄熙来氏の解任手続に至るプロセスは、紀元200年当時の『三国志』の世界とほとんど同じ状況である。曹操・劉備・孫権の役回りは、胡錦涛・江沢民・薄熙来と言ったところであろうか。政治に民意が反映されていないから、密室での権力闘争にならざるを得ない。もしも、中国で民主主義政治が行なわれていたならば、政治の世界だから権力闘争はつきものとしても、最終審判者の国民がその是非を判断するはずだ。そうしたプロセスが存在しないから、「目先の利益」で動かざるを得ないのである。中国の「破滅的行動」を回避させる道はなにか。個人の行動では「市場主義」の貫徹、政治の世界では「民主主義」である。向こう10年や20年でその実現可能性があるかといえば、絶望的であろう。中国の将来に期待が持てない理由は、すべてここにある。

(2012年4月11日)

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