中国、これから襲ってくる「社会的混乱」を自律的に解決できるか | 勝又壽良の経済時評

中国、これから襲ってくる「社会的混乱」を自律的に解決できるか

高成長が奇跡だって!
権威主義が汚職を生む
「選択の自由」あるか

中国経済が「胸突き八丁」に差しかかっていることは明らかだ。2月末に世界銀行のゼーリック総裁自らが北京を訪れ、経済政策の大転換を勧告したほどである。その内容は、『2030年の中国』に示されている。詳細な内容は、このブログの3月15日に扱っている。そのなかで私は、中国が「自律的発展力」に欠けるので、胸突き八丁を自力で克服することは困難であろうという見方を提示した。大胆な仮説である。そいう批判が出ることは、十分に承知している。

私は、これまでの歴史社会学の先人である、ドイツ人のM・ヴェーバー、フランス人のE・デュルケム、イギリス人のJ・トインビー、アメリカ人のT・パーソンズらのエッセンスを基本にして中国社会を総合的に分析してきた。それによると、中国には自律的解決能力が著しく不足しているという結論になる。これは決して、中国を貶めようという動機ではない。純粋な学問レベルの結果である。中国が現在の社会統治システムを変えない限り、将来は絶望的であるのだ。今日はその根拠を、別の視点である「選択の理論」を用いて説明したい。これは、昨年11月末からNHK番組の「コロンビア白熱教室」に登場した、コロンビア大学シーナ・アイエンガー教授の著書『選択の科学』を用いながら、さらに私の主張の根拠を補強したい。

高成長が奇跡だって!
その前に、中国が依然として「中国式民主主義」の正統性を主張しているので、その見解を紹介したい。『人民網』(3月10日付け)は、次のように述べている。

①「中国の国情に合った民主政治制度の支えがあったからこそ、わずか数十年で、中国の経済・社会発展に天地を覆すような変化が起き、経済的に貧しく文化的に立ち後れていた中国は世界第2の経済大国に躍進し、国際社会に影響力を持つ大国となったのだ。外国の讃嘆する『中国のスピード』と『中国の奇跡』は、まさに中国の特色ある社会主義政治発展の道の強大な影響力と生命力の鮮やかな証明なのだ」。

②「その国の民主制度が進歩的か否かを最も直接的に判断する基準は、それが無数の人民の根本的利益を代表し、実現しているか否か、無数の人民の支持を得ているか否かにある。われわれは党による指導、主人としての人民の参加、法による国家統治の有機的統一を堅持し、法に基づき民主的選挙、民主的政策決定、民主的管理、民主的監督を実行している。人民の知る権利、参与権、意見表明権、監督権は十分に保障され、科学的執政、民主的執政、法に基づく執政はすでに行動化されている。秩序ある政治参与への公民の情熱は高まり続け、無数の人民大衆の間で『中国式民主』の人気が益々高まっている」。

③「他国に倣って方法を変えるべきか否かについて、中国はすでに解答を出した。一部の途上国はかつて西側の民主を盲目的に崇拝し、懸命に自国に『移植』しようとした。その結果、人民に幸福がもたらされなかったばかりか、その国の習慣になじまず、人民は苦難をこうむり、国民経済は崩壊し、社会は後退したのだ。こうした状況は今も続いている。自らの道を歩む--。これは世界の転変を経験し尽くし、苦難を幾度も経験した末の中国の総括であり、中華民族が未来志向で、たゆまず発展していくうえでの方向の指針でもある。社会主義民主政治の建設と発展をわれわれは堅く信じて疑わず、確固不動として進めていく」。

①では、「わずか数十年で、中国の経済・社会発展に天地を覆すような変化が起き、経済的に貧しく文化的に立ち後れていた中国は世界第2の経済大国に躍進し、国際社会に影響力を持つ大国となった」と胸を張っている。果たしてそうだろうか。外国の資本と技術をベースにして、自国の安い労働力を組み合わせただけである。特に、「コンドラチェフ循環」という超長期(約55年)の景気サイクルがもたらす、技術開発の枯渇化という特殊条件下で引き起こされた現象によって、中国は「世界の工場」の地位を掴んだに過ぎないのだ。中国の技術が自律的に生みだした「世界の工場」ではない。

②では、「法に基づき民主的選挙、民主的政策決定、民主的管理、民主的監督を実行している。人民の知る権利、参与権、意見表明権、監督権は十分に保障され、科学的執政、民主的執政、法に基づく執政はすでに行動化されている」は、確かに中国憲法に書かれてはいる。だが、いずれも実行されていないのである。3月の両会で、「中国は言論自由が確保されている」との政府側発言に、ネット上では大ブーイングを浴びせかけられた。余りにも現実とかけ離れている、というのである。「無数の人民大衆の間で『中国式民主』の人気が益々高まっている」とは、とうてい言えないのだ。村レベルでようやく最近、たった1村だが、「自由選挙」が行なわれて注目を集めている段階である。国政レベルでは全くその気配もない。

③では、「一部の途上国はかつて西側の民主を盲目的に崇拝し、懸命に自国に『移植』しようとした。その結果、人民に幸福がもたらされなかったばかりか、その国の習慣になじまず、人民は苦難をこうむり、国民経済は崩壊し、社会は後退した」。西側の民主を盲目的に崇拝して国家が混乱したとは、どこの国を指しているのか不明である。民主主義とは国民の意思に従った政治であり、仮にその過程で混乱があったとしても、試行錯誤を経ながら学んで行くものだ。中国が一度もその試みをしないで、「西側の民主」を一刀両断しているのは、余りにも「我田引水」でありすぎる。自己弁護論の詭弁であるのだ。

そして、「世界の転変を経験し尽くし、苦難を幾度も経験した末の中国の総括であり、中華民族が未来志向で、たゆまず発展していくうえでの方向の指針でもある」と言い切っている。この認識は間違いだというのが、私の主張である。なぜなら、中国がこれまで実現してきた経済成長は「人海戦術」であったからである。これから直面する「中所得国のワナ」を脱出するには、中国の統治システムのあり方自体が根本的に問われている。その認識が、中国には存在しないのである。現在の政治システムは、4000年も固守してきた統治システムなのだ。これは、支配階級だけがメリットを受けるシステムである。

権威主義が汚職を生む
こうした中国側の主張に対して、英経済紙『フィナンシャル・タイムズ』(3月6日付け)は、次のように反論している。

④「民主主義には確かに欠点がある。ポピュリズム、ロビイストが持つ過剰な権力、無理な約束をし、改革を避けようとする衝動といったものだ。だが、エジプトとチュニジアの革命が我々に思い出させたように、権威主義も固有の病的な機能不全の症状を生む傾向がある。汚職、不公平、警官の権力乱用、拷問、言論の自由の否定などだ。反乱を起こしたアラブ社会も、権威主義的な経済運営の優位性を示す広告では決してなかった」。

⑤「持続する好況に守られている中国政府でさえ、目に見えて不安を覚えている。アラブの春以降、反体制派に対する嫌がらせが増えた。北京では驚くほど多くの中国人や外国人識者が、あるアナリストの言葉を借りるなら『ここはいつ爆発してもおかしくない』と考えている。中国がどれほど経済的な成功を遂げても、今の政治体制は変わらねばならないという国内外の認識は変えられない。物事を成し遂げる中国の能力は関心と羨望を呼んだ。ただ、民衆が(自主的に)中国(と同一)の政治体制の採用を望む国を挙げるのは困難だ。(西側が)どれほど債務負担に苦しみ、機能不全に見えても、世界の民主主義国はまだグローバルな美人コンテストで勝っているのだ」。

④では、「権威主義(注:専制主義)も固有の病的な機能不全の症状を生む傾向がある。汚職、不公平、警官の権力乱用、拷問、言論の自由の否定などだ」。現在、中国社会で日々引き起こされている事件は、すべて上記の事柄である。2011年、「中国で汚職などの職務違反で摘発された公務員が4万4506人に上った。そのうち、中央省庁での課長級以上に相当する中央・地方の公務員が2524人。摘発件数は前年比で1%減ったが、人数は1%増。裁判所や検察などの司法職員も2395人に上った。摘発を受け没収された財産は総額で77.9億元(約1013億円)に上った」(『朝日新聞 電子版』(3月12日付け)。現実の中国は、綱紀紊乱で手がつけられない状態だ。これにもかかわらず、③で「中華民族が未来志向で、たゆまず発展していく」とはお世辞にも言えないのだ。実態は、空中分解寸前である。

⑤では、次のような主張が権威主義の中国を論破している。すなわち、「中国がどれほど経済的な成功を遂げても、今の政治体制は変わらねばならないという国内外の認識は変えられない」「(西側が)どれほど債務負担に苦しみ、機能不全に見えても、世界の民主主義国はまだグローバルな美人コンテストで勝っている」からだ。西側社会の優位性は、個人に「選択の自由」を法的に保証しているからである。中国では、共産党員でない限り「選択の自由」は与えられていない。これが中国の現実である。

『人民網』と『フィナンシャル・タイムズ』のそれぞれの主張を受けて、これから私が、コロンビア大学シーナ・アイエンガー教授の著書『選択の科学』(櫻井祐子訳 文藝春秋 2010年)を用いながら、『人民網』ひいては中国共産党の主張は、どこが間違えているかを、根源的に指摘したい。民主主義国では、「選択の自由」が法的に保証されている。中国では特権階級(共産党員)を除けば、「選択の自由」は存在しないのである。「選択」とは、「自分自身や自分の置かれた環境を、自分の力で変えられる能力である。選択するためにはまず、『自分の力で変えられる』という認識をもたなくてはならない」。

「選択の自由」あるか
この「『自分の力で変えられる』という認識」が、選択の基底に存在している。そして、この認識が、各民族に固有の「文化」によって支配されているのである。例えば、個人主義と集団主義は対極的な概念として扱われている。個人主義とは、「自己決定権」ないし「自己選択権」が個人に帰属するという考え方であり、ヨーロッパの「啓蒙主義」以来、こうした「自己決定権」(「自己選択権」)が、個人に帰属するという考えが強くなってきた。一方、集団主義とは、「自己決定権」(「自己選択権」)が、自らの所属する集団に属するとして、先ず全体との調和を優先させてから「自己決定権」を行使するものだ。

オリンピック競技での優勝者インタビューで、欧米人(個人主義)と日本人(集団主義)は異なっている。欧米人は、ストレートに自分が努力したから栄冠を勝ち得た、と発言する。日本人は周囲の応援、チームの支援、家族の励ましがあって、と必ず周囲への配慮を忘れない。個人主義と集団主義では、これだけの違いが表われるのである。

全世界のIBM従業員を対象にした、「個人主義指標」調査では興味ある結果がでている。「個人主義指標」のスコアが100点満点中で91点を上げたのはアメリカ人であった。個人主義の度合いが最も強い、という意味である。オーストリア(90点)、イギリス(89点)である。西ヨーロッパでは、多くが60~80点のゾーンに収まった。アジアでは、インドが48点、日本は46点が飛び抜けて高く、中国は20点台であった。この調査では点数が低くなるほど、集団主義の色彩が強くなると解釈されている。

日本の個人主義は、アメリカに比べれば半分程度の水準にあり、集団主義の影響を強く受けていることが分る。ところが中国は、日本に比べても圧倒的に集団主義の色彩が濃くなっている。よく、「米国人と中国人は似ており個人主義」であるというのは、完全な誤解であることが分る。中国人は日本人よりも集団主義の色彩が濃い。「自己選択権」を一層、集団に委ねているのだ。

この事実がきわめて重要である。中国の「自己決定権」が集団依存型であるのは、中国文化である儒教の影響が強いことを物語っている。中国では、「私」という概念は邪悪なものとして退けられている。代わって、「吾々」という意識が前面に出ている。「自己決定権」は集団に預けられているのだ。民主主義は個人が、「自己決定権」を行使することによって成立する。その基盤が中国に存在しないことは明らかである。したがって、③で主張するように民主主義を採用しないことが、「世界の転変を経験し尽くし、苦難を幾度も経験した末の中国の総括であり、中華民族が未来志向で」あるということは間違っているのだ。これが私の結論であり、その理由は次の点にある。

アイエンガー教授は、ここでエーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』(1941年)の論理を採用している。フロムは、「自由」が互いに補完的な二つの部分に分けることができる、としている。一般に「自由」と言えば、「人間をそれまで抑えつけてきた政治的、経済的、精神的束縛からの自由」を指す。つまり、目標の追求を力づくでも妨害するような外部の力が存在しない状態だ。この「からの自由」に対立するものとして、フロムは可能性という「自由」を、もう一つの意味の自由に上げる。つまり、何らかの成果を実現し、自分の潜在能力を十分に発揮する「する自由」である。要するに、「からの自由」と「する自由」の二つが「自由」には含まれている。

整理すると、次のようになる。
「からの自由」→目標の追求を力ずくでも妨害するものが存在しない。
「する自由」 →潜在能力を実現する可能性を示す。

ここからが重要であるので、気を抜かずに読んでいただきたい。別段、小難しい話ではない。中国社会ではなぜ、(1)汚職や賄賂が充満しているか。なぜ、(2)イノベーションが不得手で「ニセもの造り」に奔走しているのか。この二つの疑問が、前記の二つの「自由」を理解することによって、一挙に解けるからである。中国について、アイエンガー教授はなにも言及していない。私がフロム理論を敷衍(ふえん)して、こういう結論に到達したのだ。

「からの自由」は、制約するものが存在しないから「競争」が成立する。市場に喩えれば、独占・寡占が成立しない完全競争みたいな状態である。したがって、ここではイノベーション(技術革新など)が進み、企業家精神が発達してくる。ところが、「『からの自由』がない」状態ではどうなるかだ。「競争」が存在しないから、イノベーションもなければ企業家精神も育たない。そこで、私営企業でない国有企業が大きな力を振るい、統制の必要性が生まれて権力は腐敗するのだ。現在の中国は、この「『からの自由』がない」状態であるのだ。もっとはっきり言えば、「選択という自由」が存在しない究極の状態が中国である。

「する自由」とは、何らかの成果を実現し、自分の潜在能力を十分に発揮する可能性である。ところが、「『する自由』がない」場合はどうなるか。自己の潜在能力を発揮する機会がないのだから、不公平が発生する。こうして自活できない人たちが窮乏や苦しみを味わなければならなくなる。一方、金権主義が横行する。莫大な富を持つ者が不法行為を犯しても、処罰を逃れたりする。現代中国の悪弊がことごとくここに表われるのである。その原因は、中国に「『する自由』がない」結果なのだ。

以上で、二つの「自由」(「からの自由」)と「する自由」)が中国には存在しない、という結論になる。アイエンガー教授は、本当の意味で選択を行なうには、選択する能力があり(「する自由」の存在)、かつ外部の力に選択を阻止されない(「からの自由」の存在)という両方の条件が満たさなければならない、としている。中国が集団主義の最たるケースであり、「自己決定権」「自己選択権」が未成熟状態に置かれている。こういう状態で、これから襲ってくる諸問題を、中国が自力で解決できる可能性は、ほとんどないのである。

(2012年4月3日)

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