kashi-heigoの随筆風ブログ-囲碁


 田舎に移り住んで、寂しく思うことのひとつに、囲碁仲間がいないことである。昔は囲碁を楽しむ人がこんな田舎でも、結構いたものだ。近所のお寺の住職など、僕が久しぶりに帰省したりすると囲碁好きを何人か集めて、俄か囲碁会をしてくれたものだ。近頃は、忙しないのか、時間にゆとりのない人ばかりで、囲碁の相手が見つからない。


 囲碁は、白と黒の石を交互において、盤上の陣地を競い合うゲームである。達人の域に達すると、古の連歌の世界に似て、幽玄で、崇高で、壮大であるものらしい。それは、さておき「囲碁は、手談なり」と言われると、凡人の僕などは、すぐに感じ入ってしまう。いつもタメ口ばかりなのに、「言葉を交わすことなく、ただ手を動かすだけ」という文言に弱い。
「ここに石を置いたぞ。危ないぞ。己が陣地は自分で守れ」と石に語らせる。
すると
「いや、何を間抜けたことを言う。そちらこそ、この連絡を断てば、堰が切られて、洪水よ」と応えるわけである。
じっくり時間をかけて、一手一手に意味を持たせ趣向を凝らして、手談をするわけである。だから、ハンディ戦も可能だが、双方に力の差があまりない方が興がのる。また、相手が誰でもいいというわけにいかない。人品骨柄がモノをいう世界だからである。


 もうだいぶ昔のことだが、碁会所でたまたま、小学生を相手に碁を打つことになった。ずいぶんと年齢に開きがある。こちらがハンディをもらって、先手となる。意識しすぎてはならぬと肩に力を入れずに、打ち始めた。本来、入ってはいけない僕の陣地に、敵は無遠慮に入ってくる。我慢していたが、カチンときて、その無謀な手を咎めようと対抗する。これが裏目となって悪手が重なる。終わってみれば、大敗である。相手が小学生だけに、負けると己が弱さに腹が立つものだ。



kashi-heigoの随筆風ブログ-少年と女流棋士


 最近は、インタネットで世界中いずこの人ともゲームができる。僕などは、勝ち負けの勝負にだけこだわる性癖が災いして、戦いのあとの余韻を楽しむことができない。先ほどの<幽玄>からほど遠い世界になってしまう。その人の性格が盤上の戦いにでるものである。囲碁のルールは、それほど難しいものではない。考えに考えて、手の数々を計算しているかに見えて、意外と感覚で打っているのではと素人の僕は思うことにしている。


 若いころ、囲碁に凝って、碁会所に通い詰めたことがあった。その碁会所の若い女主人公が、ときどき相手をしてくれる。端正な顔立ちの、容色の整った人だった。いつも4目ほどの石を置かされていた。この人に教えてもらうには、開店間際が良かった。
「あら、最近、腕を上げたのね。あら、困ったわ、私・・・」
とかなんとか、言って、その気にさせて、最後は、
「あなた惜しかったわね。もうチョットだったのに・・」
結局、こちらが数目負けるのである。実に、客さばきの上手な人だった。


 勝負の世界は、歳の差も、性別もない。相手が女性で美人であるかどうかも関係ない。実力の世界である。囲碁も数か月、石を並べて、すぐに強くなるならいいが、精々が数目上達する位である。かえって、弱くなったりする。努力なしで、上手くなろうはずがない。この辺りが、人生における言葉の行き交いの妙に似て面白い。  2011.10.19