日本陸軍世界最強説 | 朝倉新哉の研究室

朝倉新哉の研究室

全ては日本を強くするために…

やあ、みなさん、私の研究室へようこそ。

 

『戦車兵のブログ』に、

「嘉数高地の対戦車戦闘」という記事があり、

それがすごい内容だったので、

「嘉数」で検索したところ、

ウィキペディアの「嘉数の戦い」というのがヒットしました。

戦車兵さんの記事とあわせてそれを読むと、

戦争末期の日本軍が、優勢な米軍を相手にこんなに奮戦していたのか、

”日本陸軍世界最強説”も、あながち間違いじゃないかもしれないな、

と思いました。

 

 

>>>

嘉数の戦い(かかずのたたかい)とは、

太平洋戦争(大東亜戦争)末期の沖縄戦において、

嘉数高台をめぐって

1945年4月8日(7日)からの16日間に行われた戦いである。

この戦いは

沖縄戦最大級の戦闘の1つとしても知られるほどの激戦であった

(前田の戦い他を含むことがある)。

日本軍は

低地に「反斜面陣地」を構築して

米軍に劣る火力をカバーし、頑強に抵抗したため、

嘉数は米軍からは「死の罠」「忌々しい丘」などと呼ばれた。

戦闘は

4月8日(7日)から16日間にわたって展開され、

その間の両軍の戦死傷者は合わせて約10万にのぼった(諸説あり)。

アメリカ軍は

4月9日には嘉数を占領することを目標としていたため、

損害を省みず続々と部隊を投入した。

このことが激戦になった一因と思われる。

また、嘉数戦では日本軍最後の対戦車戦闘での勝利が記録されている。

4月19日
この日は嘉数戦の中で最も激しい戦いである、嘉数の対戦車戦が行われている。
アメリカ軍は

嘉数陣地に立てこもる日本軍に

強力な支援砲爆撃を加え、その援護のもと、

歩兵部隊が7時30分ごろから前進を開始した。

アメリカ軍は

嘉数の日本軍陣地に肉薄したが、

日本軍側の射撃によって前進を阻まれた(8時20分ごろ)。

ここでついにアメリカ軍は戦車部隊を投入する(8時30分ごろ)。

戦車部隊は

嘉数北側陣地の奥深くまで進入したが、

日本軍の組織的な攻撃

(巧妙に隠されていた速射砲、高射砲、迫撃砲、臼砲、

 陣中急造爆雷を背負った特攻兵の体当たり)

により、

投入した戦車30輌のうち

実に22輌

(但し嘉数に攻め入った時、

 日本軍の対戦車地雷によって3~4輌破壊され、

 さらにそのあとにも破壊されている。

 実質隠されていた砲によって破壊されたのは10数輌といえる)

を破壊され、撤退した。

アメリカ軍側の歩兵は

攻撃を戦車部隊に任せて撤退していたため、

戦車部隊に適切な援護を与えられず、

戦車部隊に被害が急増したようである。

結局この日の戦闘はアメリカ軍が完敗し、退却した。

これを特に嘉数の対戦車戦とよぶ。

嘉数の対戦車戦

嘉数の対戦車戦闘は、

アメリカ軍が嘉数からわずか200メートルほどの丘に陣取ったことから始まった。

これは強襲部隊であった第105連隊の先導部隊であった。

ここを拠点として嘉数陣地へ攻撃をかけようとした矢先、

周辺にある日本軍陣地から

機関銃、野戦砲などが火を吹き、たちどころに進撃はストップしてしまった。

連隊は状況を打開する手を打てず

釘付けにされ(反撃することすらままならなかったといわれている)、

撤退を開始しようとしたが、

そこにアメリカ軍の戦車隊が支援のために到着する(8時30分頃)。

戦車は

嘉数陣地と西原陣地の間を通り抜け、嘉数を落すべく進撃を開始した。

この進撃の際、

日本軍の対戦車地雷により3~4両が頓挫し、

さらに西原陣地の周辺では

隠されていた日本軍の速射砲(対戦車砲)の狙い撃ちにより、

4両が破壊された

(このとき放たれた対戦車砲弾は記録によると16発と言われている。

 アメリカ軍側は何の反撃も出来なかったとされる。)

戦車は歩兵と比べて視界が悪い。

通常は戦車上部のハッチを開けて

戦車長が外に身を乗り出しているのだが、

日本兵は戦車長を集中的に狙撃したため、

狭い戦車の視界がさらに狭くなってしまった。

そのために日本軍の速射砲(対戦車砲)でも

M4シャーマン戦車を側面や背面から射撃することによって撃破出来たのである。

しかし、破壊を免れた戦車は、

10時ごろには嘉数の陣地(村落付近)へ侵入することに成功した。

アメリカ軍は

日本軍陣地に砲撃を加え多くの陣地を破壊したといわれる。

ここで両軍は凄惨な戦闘を経験することとなる。

日本軍は

極めて組織的な戦闘を展開し、アメリカ軍戦車に襲いかかった。

日本軍村落陣地の中心付近へ進入した戦車隊は

前後から攻撃にさらされた。

狙撃兵や歩兵が

シャーマン戦車のハッチに集中的に狙撃を行ったため、

偵察中の戦車長の多数が死傷した。

シャーマン戦車はもともと視界が悪いため、

この被害によって行動不能となって進撃出来なくなってしまった。

さらに、日本軍の特攻兵は

陣中で急造した爆雷を抱えて突っ込み、戦車のキャタピラを破壊。

これがアメリカ軍にとって大打撃となった。

動けなくなった戦車に日本兵が群がり、

天蓋や操縦席のバイザーブロック(のぞき窓)から

手榴弾を投げ込んだり拳銃を乱射したりしたほか、

速射砲(対戦車砲)による至近射撃(零距離射撃)も行い、

戦車に対し壮絶な近接戦を展開したという。

アメリカ軍側もただ手をこまねいて見ていたわけではないが、

視界が奪われた上に

キャタピラを破壊されていたため

反撃らしい反撃は出来なかったようである。

アメリカ軍側の資料には、

このとき攻撃を受けた戦車が

後方の27師団に対し「ヘルプ!ヘルプ!」の電信を

平文で打ち続けたという記録が残っている。

アメリカ軍の歩兵は

嘉数陣地によって有効な行動がとれないようになっていたため、

歩兵による支援が無かった戦車隊は、

13時30分ごろに後退命令によって退却を開始。

3時間近くに及ぶ戦闘により

戦車14両が破壊され、

退却できた戦車は当初の30両のうちわずか8両であった。

また、勝ったとはいえ日本軍の損害も大きかった。

なお、西原・嘉数までの

アメリカ軍戦車部隊の進撃路の途中には、山なりの横道が多かった。

日本軍はそこに多くの対戦車兵器を隠しており、

もし戦車部隊が横道に進撃していたならば、

この日の戦闘は日本軍側が完敗していただろうとする意見がある。

日本軍が有する対戦車砲の大部分は

連合軍が装備する対戦車砲よりも小口径で性能が劣っていた為、

通常の戦闘距離で

アメリカ軍のM4シャーマン戦車を撃破することは出来なかったが、

至近距離ならばなんとか撃破でき、また側面や背面からなら撃破できた。

嘉数の対戦車戦闘は

地形の利などを生かす

パックフロント(対戦車砲列陣地)を形成した対戦車砲が活躍した、数少ない戦闘といえる。

他に硫黄島の戦いにおいても速射砲(対戦車砲)が活躍している。

 

嘉数戦の結果

 

嘉数戦では日本軍は

10倍以上もの敵に対して持ちこたえ、結果的に大きな損害を与えることに成功した。

嘉数戦の影響で

第32軍の直轄部隊に少なからず被害が出ると予想されていたが、

この予想に反して

嘉数陣地のみでの防衛戦で

アメリカ軍の進撃速度の遅滞に成功し、

第32軍の直轄部隊には被害が出なかったことに、日本軍首脳部が驚いたという。

この戦いで時間が稼げたため、

後方の日本軍部隊は

陣地の再構築や情報網整備、武器弾薬の搬入などを行って、

より強固な陣地を構築することが出来た。

また日本軍は

嘉数戦での守備戦闘の経験をこの後も生かし、アメリカ軍をさらに苦しめることとなる。

なお後の戦いでも嘉数戦に参加した第62師団の奮戦が目立っている。
>>>

ウィキペディアから抜粋して引用。

 

米軍の強力なM4戦車を相手に、

戦車をもたない日本軍が、これほど善戦していたとは…。

 

日本軍は、

戦車の弱点を理解して、そこを攻め、

各部隊の連携もしっかりしていて、戦い方が緻密だな、という印象を受けます。

 

大東亜戦争の前に、ソ連との間で、

ノモンハン事件という武力衝突がありましたが、

そのとき、日本軍は、世界初の戦車部隊による夜襲を行っています。

視界が悪い戦車で夜襲を行うのは、かなり困難です。

 

そういったことから、私は、

日本軍の長所は、

識字率が高く、国民の知識水準が高いことにより、

高度な作戦、複雑な作戦を実行できることにあるのではないか、

と思うのです。

嘉数の対戦車戦闘の緻密さに比べると、

ノルマンディー上陸作戦なんかは、ずい分おおざっぱに見えますね。

実際、ノルマンディー上陸作戦を指揮した将軍の一人が、

「この作戦は巧妙なものでもなんでもない」

と言ってるくらいですから。

 

”日本陸軍世界最強説”については、こんな本があります。

 

 

 

 

日本陸軍の優秀さに、驚いた方も驚かなかった方も

クリックをお願いします。


政治ランキング