中国人は陸棲民族(韓国人も) | 朝倉新哉の研究室

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全ては日本を強くするために…

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鎌倉幕府軍は実力で勝利していた

文永の役で神風があったとされているのは、新暦では11月の後半。
この季節に台風はほとんどなく、船が消滅するほどに急激に天候が荒れるとは考えられない。

高麗側の資料『高麗史』では、夜間の暴風雨で多数の艦船が覆沈したとある。
高麗側としては、フビライに対し、引き揚げた理由を天候のせいにしたいだろうし、
その被害も大きく報告したいはずである。

しかし、蒙古側の資料『元史・日本伝』では、
「至元十一年冬十月、入其国敗之。
 而官軍不整。又矢盡。惟虜掠四境而帰」
とあり、要するに軍の統制が取れず、矢も尽きたので撤退するというのである。
矢が尽きたという理由、これは、かなり重要な問題である。

鎌倉御家人とて、矢戦ではそうそう引けを取るものではない。
元軍の圧迫による退却時、殿軍として戦った少弐景資が、
追撃してきた元軍副司令官の胸を射抜いている。

特筆すべき日本軍の敢闘があった。
それは博多湾沿いの平地部を二分する重要な地形である赤坂高地
日本軍が一部で死守したことである。
このことから博多湾正面に上陸した蒙古・漢軍と
今津正面に上陸した高麗軍は戦力を合一できず、
しかもこの高地をめぐる激烈な攻防戦により、元軍は毒矢が不足を来したのであろう。
そして何よりも元軍が恐れたのは、この赤坂高地を「支撐点(しとうてん)」とした
日本軍の夜間攻撃であった。
戦場における重要な地形(高地)の確保
これが文永の役における日本軍の最大の勝因であろう

馬を下りた騎馬兵である蒙古軍と、半強制的に出陣させられている漢・高麗軍、
個々の部隊や兵の結束は低く、ともかく理由をつけて撤退したいはずである。
兵器上の勝ち目である毒矢が不足しつつある不安や、
副司令官の劉復亨が討たれたことによる蒙古・漢・高麗三軍の混乱に加え、
日本側の夜襲による反撃への恐怖から、
攻撃を中止して軍船に戻り、ついでに暴風雨を理由にして撤退したということは、
十分にありえる。

弘安の役においては、確かに台風らしき暴風雨があったと思われるが、
元軍は、それだけで撤退したわけではない。
むしろ、鎌倉幕府軍が石塁をはじめとする十分な防衛態勢をとることにより、
上陸を簡単には許さなかったことが重要である。

東路軍(高麗軍が中心で、兵船900、総勢4万余)は、
江南軍の遅れを待ちきれず、単独で博多湾に侵入するが、
砂浜に沿って延々と続く石塁を見て、日本軍の待ち構える正面への上陸を断念。
やむなく志賀島の南側に上陸し、海の中道を経て香椎~箱崎方向からの侵攻を試みたが、
海の中道で日本軍との遭遇戦となる。


















   (図はhttp://d.hatena.ne.jp/b-co811/20130220/p1より転載)

二日間にわたる激戦の後に撃退されて船上に戻り、湾内で江南軍の到着を待つこととなる。
一方、元軍が一向に上陸してこないため、
手柄も立てられないことにしびれをきらせた日本軍は、
三々五々に小舟をしつらえて沖合に出て、
湾内の元軍船団に乗り込み、切り込み攻撃を仕掛けた。
投鉤や打鉤を投げかけたり、帆柱を倒してこれを伝ったりして敵船内に雪崩れ込み、
片っ端から切りまくった。











敵船に乗り込む日本の武士たち
(http://actualproof.seesaa.net/article/161122679.htmlより転載)

遅れて到着した南宋の兵も慣れぬ長期航海と洋上待機によって
気力・体力を失っており、たとえ十万の兵力が上陸戦闘できたとしても、
どれほどの戦力であったかは疑問である。

石塁を築いて上陸適地を全て塞ぎ、
その上で待ち構えている士気旺盛な鎌倉幕府軍四万、
敵の上陸なしと判断するや、恩賞目当てに小舟で敵船に乗り移り、
白兵戦を挑んだ鎌倉武士たちの剛胆さ、
これらが結果的に、大陸を暴れ回った元軍に対して陸戦を許さず、
狭い船上・船内ゆえに毒矢もてつはうも使えず、集団戦法もできない状態に持ち込み、
得意の「一騎打ち」で切りまくることになったのである。
これこそが弘安の役における日本軍の勝因であり、
台風があってもなくても結果は同じだったのである。
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『真実の「日本戦史」』 家村和幸 監修 より抜粋して引用。
(青字強調は筆者による)

こちらは、蒙古襲来絵詞の一部です。
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http://blogs.yahoo.co.jp/sa341gazelle/2953448.htmlより転載

日本側は一騎しかいないのに、数の多い元側が逃げています。

元側のやる気のなさを示す一つの証左となるでしょう。

文永の役での元軍は、いったん上陸しながら船に戻っています。

これは、軍事的には、ありえないことです。

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通常、上陸作戦を決行した場合、
まず橋頭堡を確保しなければならず、
戦況を優位に進めながら陸地を放棄して、再び上陸作戦を決行するなどは
戦術的に有り得ないとされる。
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ウィキペディアより転載

上陸したら、必ず橋頭堡を確保しなければならないのが軍事の常識です。

いったん上陸しながら、橋頭堡を確保する前に撤退してしまったのは、

そういう常識を知らなかったか、

橋頭堡を確保することを許さないほど、日本側の抵抗がすさまじかったということになります。

上陸作戦の常識を知らなかったなら、それは、

元側が”海に疎い”ということに他なりません。

モンゴル人は、”騎馬民族”ですから、海に疎いのは当然と言えますが。

モンゴル人は当然としても、シナ人も歴史的に、”海に疎い”と言えます。

元寇のあとに、倭寇というのが登場します。

倭寇は、前期と後期に分かれており、

前期倭寇は日本人が主体。

後期倭寇はシナ人、朝鮮人が主体です。

前期倭寇は、シナ沿岸を荒らしまわり、

明王朝から、度々「取り締まってくれ」という要請が来ます。

明にちゃんとした海軍力があれば、日本に対して取締り要請などする必要はなく、

これは、明の海軍力が貧弱だったことを示しています。
(明もまた”海に疎い”と言えるでしょう)

一方、後期倭寇は、シナ人、朝鮮人が中心でしたが、

シナ人、朝鮮人の海賊が日本沿岸を荒らしまわった、などとは、

歴史の教科書には書いてありませんね。

(「刀伊の入寇」というのがありますが、これは、時代が違いますし、
 刀伊は女真族であって、シナ人、朝鮮人ではありません)


”海に疎い”

これは地政学的に言うと、”シーパワーが貧弱だ”ということになります。

シーパワーとは、

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平時、戦時を通じて海上交通を維持し、または保護する機能のこと
軍事力も含まれるが、ただそれだけではない。
ことに重要視されるのは、
基地や寄港地を整備し維持できる物理的ならびに外交的な能力の存在で、
これがなければ、シーパワーはその完全な機能をいとなむことができない。
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『地政学入門』曽村保信 中公新書 から引用。

というわけで、

”海を利用するための総合的な能力”といったところです。

航海経験、航海技術、海に関する知識というものも含まれています。

”海に疎い”、”シーパワーが貧弱”

ということは、

海軍力が弱い、航海経験が浅い、航海技術が未発達、海に関する知識が乏しい、

ということです。

シナ人、朝鮮人は、歴史的に見て、海に疎く、シーパワーが貧弱であり、

日本に比べてシーパワーの面で完全に劣っています。

シナ人、朝鮮人は、海に疎いので、”陸棲民族”である、と当ブログでは呼ぶことにします。


シナ人、朝鮮人は”海に疎い”。
シナ人、朝鮮人は、歴史的にシーパワーの面で日本に劣っている。
彼らは、本質的に”陸棲民族”である。


これは非常に重要なポイントだと思います。

今後の日本を左右しかねない重大さを内包しているのではないか、とさえ思います。

これは今後の記事でも重大テーマとして何度も登場すると思います。


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