忠臣蔵について | 朝倉新哉の研究室

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全ては日本を強くするために…

あらかじめお断りしておきますが、今日の記事は国家戦略とは関係ありません。

さしたる結論もありません。

ただ、気がついたことを書いただけです。


元禄十五年の今日、赤穂浪士が吉良上野介の屋敷に討ち入りしました。

(旧暦の12月14日なので、現代の暦なら、1703年1月30日になります)













ウィキペディアより転載

忠臣蔵は、第九と同様、年末の風物詩になっています。

1992年に、NHKで放送された『腕におぼえあり』という時代劇がありました。

討ち入りに加わらなかった赤穂の浪人、岡林杢之助(おかばやしもくのすけ)のことを

扱った『四十八人目の義士』という回がありました。


杢之助の弟が、討ち入りを報じた瓦版を読み上げ、杢之助に言います。

「信じられるか、兄上。こういう瓦版が飛ぶように売れておるのですぞ。
 市中はこの事件で沸き返っておる。
 同じ浅野の旧家臣として恥ずかしいと思わんのか、兄上は。」

「そう言われてもな。俺と、あの者らとは、そもそも最初から考え方が…。」

「”あの者ら”とは、なんですか、”あの者ら”とは。
 今や大石内蔵助は、天下の英雄ですぞ。」

「しかしな…。」

そこへ杢之助の兄が入ってきます。

「おい、まずいぞ、まずいぞ、杢之助。」

「何か。」

「何かじゃないぞ。
 城中でも浅野の浪人たちのやらかしたことで、話題沸騰しておるのだがな。
 それが皆、ようやったりと申すものばかりだ。」

「御上のお膝元でそのような?」

「ああ。
 老中 小笠原佐渡守殿なんぞは、手を打って喜んでおられる。
 見事、見事と褒め称えておるのだ。
 困るではないか、杢之助。え?」

「しかし、兄上、徒党狼藉は禁じられておるのです。
 大石殿たちがなしたことは、御上に対する謀反と見なされても、言い訳できぬ暴挙で…。」

「建て前はそうかもしれぬが、事実は皆そうは思っておらん。
 俺の弟が浅野の旧家臣だってことは皆知っておるのだぞ。
 城中の誰彼が、浅野浪人の吉良家襲撃に沸き返りながら、
 俺がそばに行くと、急に話をやめて気の毒そうな目で俺を見るのだ。」

杢之助の兄は、切腹しろ、とまで言うようになります。

一方、幕府の中枢でも、赤穂浪士の処遇をめぐって紛糾していました。

当時、ドラマの中だけでなく、現実にも、幕政を仕切っていたのは、

側用人(大老格)の柳沢吉保でした。

柳沢は、ドラマの中では、赤穂浪士の討ち入りの動きを察知し、

大石内蔵助に刺客を差し向けたりして、

なんとか、討ち入りを失敗に終わらせようとしていました。

浅野内匠頭→即日切腹
吉良上野介→お咎めなし

という処分を決めたのは、柳沢吉保であり、

討ち入りの成功は、この処分に対する、あからさまなあてつけになるからです。

老中 小笠原佐渡守は、柳沢の失脚を目論んで、

赤穂浪士を援助していました。

だから、討ち入りの成功を”手を打って喜んで”いたわけです。


柳沢吉保
「なんじゃ、これは!
 こんなものは、評定でも意見でもない!
 ただの同情ではないか!
 そなたら、赤穂の浪士が、吉良を討ち取ったことを大喜びしているとしか思えん。
 それで…、
 そなたも、痛快であったと言うのか、今度の討ち入りが。」

老中 小笠原佐渡守
「痛快?」


「そう申したではないか。
 面白い見世物を見たいがゆえに浅野の浪人を庇護していると。
 忘れたのか。」


「あ、いや、その通り。
 それがし、先だっても、細川家お預けの大石内蔵助のもとに慰労に参ってござる。
 近頃、江戸町民も娯楽がのうて鬱積しておる。
 ちょうどよい頃合いに、退屈を取り払うてくれた。
 これはいずれ、芝居にもなれば、絵草子にも取り上げられると
 礼を申してきたところでござる。
 いや、だからといってこれは、御上に楯突くという意味では、決して…。」


「ふん、この前と同じようなことを言うておるわ。」


「しかし、世間一般の受け取り方というものを無視するわけには参りませぬぞ。
 江戸市中は喝采の渦。
 浅野浪人を称賛せぬ者はおらぬという現状で、ただもう、厳しい処罰をしたところで、
 御上の不人気に拍車をかけるばかりでござる。」 


「そなたら幕閣の連中にとって不人気だということでござろうよ。
 目の上のタンコブのわしを、浅野の浪人たちが、そなたらに代わって
 やっつけてくれたと溜飲を下げておるのだ。
 ところがそうはさせん。
 法は法。定めは定めじゃ。」


「法と申されるが、御条目の徒党狼藉禁止は、今度の討ち入りには当てはまりますまい。
 討ち入りを、武士、人間としての心映えとして捉えるべきで、
 ただもう御条目ばかりの杓子定規では、生きた人間のなすこととは思えん。」


「しかし、処罰はする!せずには済まされぬ!」


「どのような論拠で…。」


「そもそも事の起こりは、
 浅野内匠頭が、吉良を斬ろうとしたことであって、
 吉良が、浅野に斬りかかったのではござらんのだぞ!
 吉良に浅野が殺されて、それで家臣が主の仇を討つというなら、筋が通っておる。
 ところがそうではのうて、浅野は咄嗟の怒りに我を忘れ、一国の藩主たることを忘れて、
 殿中で吉良に斬りかかり、国を滅ぼしたのだ。浅はかなのだ!
 そのような浅はかな勇気は決して褒められるものではない。
 それによって家臣が仇討するとは、筋違いも筋違い!」


「しかし、そのような理屈は…。」


「法は天下の正義でござるぞ。
 内匠頭が吉良を斬ろうとしたこと自体、法を乱す不義。
 その不義の志を継ぐとあらば、浅野の家臣に大義などはござらん。」


「そうではござるまい。
 恨みを果たせずに無念のまま死んだ主の恨みを家臣が果たすのだから、
 これは忠義でござる。」


「とんでもないことじゃ!
 浅野の浪人は不義の家臣じゃ!」


「いや義士だ。
 そのような強弁は通るまい。」


「何が義士じゃ!」


「世間がそう思うておるのだから…」


「世間の思惑より、物の道理が第一よ!
 法は法。掟は掟。
 情をもって国法を曲げるは天下の政治ではござらん。
 そのような不忠の輩は許されてはならん。
 処罰は、厳罰をもって臨むべきものとする!」


杢之助は、主人公の青江又八郎と知り合い、

いったんは、青江の住んでいる長屋に住むことに決まります。

青江が江戸から去り、国許(桑山藩)に帰るので、

入れ替わりに、杢之助が入居することになったわけです。

しかし、荷物を取りに、家に帰ったところで、兄弟と鉢合わせになり、口論になります。


「杢之助!いいかげんで、覚悟を決めろ!」

杢之助の兄が、床に何かを投げつけました。
切腹のための白装束でした。

「そんなに俺を死なせたいのか!」

「討ち入りに参加せぬのが、そんなに恥か!
 御上に逆らって、徒党狼藉を働いた奴らが、そんなに偉いか!」

と言いながらも結局、杢之助は切腹してしまいます。


浅野家家臣は、士分だけで、300人以上いました。

討ち入りに参加したのは、47人(1人は士分でなく足軽ですが)。

8割以上の者が、参加していないのです。

参加しなかった者たちは、町人からも軽蔑され、

名前を変えざるをえなかったとも伝えられています。

杢之助のセリフは、

討ち入りに参加しなかった者の気持ちを代弁するものと言えるでしょう。

法律を守って、討ち入りに参加しなかったのが、そんなに悪いか!

という気持ちだったのでは?


ところで、殿中で刀を抜くことは、無条件で死罪になるほどの重罪なのです。
(そういう前例はいくつもあります)

浅野内匠頭の切腹は当然です。

しかし、浅野内匠頭は、「この間の遺恨覚えたるか」と言って、吉良に斬りつけています。

遺恨があったのか。

その遺恨とは、殿中で刀を抜かざるをえないほどのものなのか。

遺恨の内容によっては、吉良にも何らかの処分があってしかるべきだと思います。

そのあたりの詮議をせず、即日切腹させてしまったのは、

拙速にすぎると思います。

問題があるとすれば、その点だけだろうと思います。

柳沢吉保が言っているように、

吉良に浅野が殺されたのではなく、浅野が吉良に斬りつけたのですから、

仇討ちには、あてはまりません。

それこそ、”筋違いも筋違い”です。

実は、別の回で、大石内蔵助も”復讐ではない”と言っているのです。


「殿は、こらえ性のないお方じゃった。
 言うてみれば、度を過ごした潔癖漢。
 いっときの短気で五万石の藩をつぶしたようなもの…。
 それが世間の物笑いにならぬか、
 そんな城主に仕えておった浅野家中も笑われるのではないかと…。」
 わしは、それがやりきれんでのう。」

「御家老。」

「まあ、よいではないか。
 ここにおるのは、ごく気心の知れた者ばかり。
 今日はまず、わしの本心を聞け。
 わしが心を砕いたのは、
 亡くなられた殿と、我ら浅野の家臣が、世間の物笑いにならぬようにせねばと、
 そのことだけじゃ。
 あの松の廊下の生き証人である吉良殿が、何の咎めも受けずに、のうのうとしておることが、
 殿の失態を浮き彫りしているようでの。
 それを救うためには、
 赤穂藩の面目が立つような処分を御上に求めるか、
 吉良殿を殺すか、二つに一つということじゃ。
 だからわしは、浅野家再興を願い出た。
 吉良殿の処分も婉曲に願い出て、辛抱強う待った。
 待ちくたびれて、ついつい、遊び癖が出てしもうた…。」
 
「だが、くれぐれも申すが、吉良殿を討つのは、復讐のためではないぞ。
 殿と我ら浅野の遺臣を世間の物笑いから救うためじゃ。
 吉良殿を見事に討てば、世間はようやったと言い、喝采するであろう。
 それで我らは、笑われずにすむ。
 面目が立つ…。」


現実の大石内蔵助が、どう思っていたのかは、わかりません。

調べれば調べるほど、不条理な事件だなあ、と思わせられる事件です。

だからこそ、今後も”年末の風物詩”として、取り上げられるでしょう。

小笠原佐渡守が言う芝居、絵草子だけでなく、

映画、テレビドラマ、小説と、実に300年以上にもわたって、取り上げられてきました。

さぞや小笠原佐渡守もビックリしてるでしょう。


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