日本人の誇りと中央アジアの怨念 | 朝倉新哉の研究室

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全ては日本を強くするために…

『遊牧民から見た世界史 増補版』杉山正明 日経ビジネス人文庫

から抜粋して引用します。

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ロシア帝国からソ連・現ロシア連邦にいたる歴史は、
いまもなお十分には事実が事実となっていない。

いや、ある種の「負」の歴史は、まさにこの瞬間にも進行中である。

カザフの民(現在のカザフスタンのもととなる人々)は、
とくにロシア・ソ連による征服と植民地化、
そしてつい最近にまで及ぶ悪辣な憎悪と嫌がらせの対象となった。

東のダイチン・グルン(大清国。いわゆる清朝のこと)が
満洲・モンゴル騎兵をもって
ついに150年にわたる宿敵のジューン・ガル遊牧民国家を倒し、
パミール以東の大領域を手中にした18世紀なかばすぎ
(ちなみに、この版図がほぼそのまま現在の中国の国域となる)、

全くおなじときにロシアがカザフに手を伸ばし、
以後ロシアから見れば反乱もしくは動乱、
カザフにとっては独立・解放運動がくりかえされた。
しかし、1891年、カザフの全領域は、ロシア国家の所有物と宣言された。

98年の調査では人口は414万、そのうち1万5千人がなお
チンギス・カンの血脈をひくものたちであった。

日露戦争では、日本に拍手する動きもあったが、
やがてソ連というあらたな帝国のもとで集団化と粛清の嵐が吹き荒れる。
スターリンによって、1930年代に174万ないしは210万ものカザフ人が犠牲となった。
一説には300万をこえるともいい、人口のなかば以上が抹殺された。
ほとんど、遊牧の伝統とその民を根絶やしにせんとする所業であった。

さらには、第二世界大戦の勃発後、ソ連領域内の多様な非ロシア人たちが
ドイツ軍への協力のおそれありとして、やはりスターリンの命令で、
カザフの大平原にあいついで強制的に”打ち捨てられた”。

中央アジアの草原は、諸民族の「墓場」とされたのである。
社会主義化の名のもとの分断・強制・弾圧、
そして見事なまでの頭ごなしでナンセンスな集団化や農業政策の失敗などなど。
そうしたもろもろの結果、自然に寄り添って生きる本来のかたちは失われ、
かつての牧地は砂漠や土漠と化し、かくて遊牧民たちの影は、
ユーラシア北半の大地から限りなくうすくなっていった。
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このように、中央アジアの民は、

ロシア(帝政時代→ソ連時代→現在のロシア)からひどい扱いを受けてきたのです。

だから、

http://www.tkfd.or.jp/blog/sasaki/2010/01/no_723.html

に掲載されているように、

>中央アジア諸国は日本の進出を期待している

>ウズベキスタンの地下資源開発に、日本が乗り出すことを、期待する

>ウズベキスタンは、レア・メタルが豊富にあるのだ。
>それを狙って、ロシアや中国が積極的に、進出を工作している、とのことだった。

>しかし、ウズベキスタン側は、ロシアや中国とではなく、
>日本との協力で、レア・メタル開発を進めたい、と強調していた。

>それは、日本の持つ高い技術と、開発のための資金があること、
>そして日本人は、信頼できるからだ、と語っていた。

ということなのです。

なぜ日本人は信頼できるのか?

その答えは、

http://u1sokuhou.ldblog.jp/archives/50344224.html

にあります。

上記URLから抜粋して引用します。

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シベリア抑留とナポイ劇場

1945年(昭和20)8月6日、敗戦直前の日本に牙をむいたのが旧ソ連でした。
満州国、旧樺太、千島列島が侵略を受け、多くの惨劇が生まれました。
その一つが、いわゆるシベリア抑留です。
日本人65万人がソ連国内に連れ去られ、食料も十分に与えられない環境下での
重労働で、6万人以上が命を失いました。

ウズベキスタンでは、約25000人が13の収容所に分けられ、
過酷という言葉ですら生ぬるい状況で、奴隷的な労働を強いられました。

ところが、それらの建設現場にいたウズベク人は驚きの光景を目の当たりにします。

彼らが目にしたのは、
極限的な生活のもとでも、助け合いながら真剣に丁寧に働く、日本人の姿でした。

「何故、捕虜なのにあんなに一生懸命に働くのか?」
ウズベクの人たちは、初めは不思議に思い、
そして次第に抑留者に尊敬の念を抱くようになります。

抑留者は、運河、道路、炭鉱、学校、水力発電所などを建設。
作られた建造物の質は高く、現在でも活用されているものもあるといいます。
こうして現地では、日本人の行為が、彼らの道徳として語り継がれるようになったのです。

このような「日本人伝説」の象徴が、劇場は2年の月日をかけてつくられた
首都タシケントにある国立ナポイ劇場です。
ここでは日本人抑留者500人ほどが働き、そのうち60人が亡くなりました。

しかし「伝説」が完成したのは、抑留者の引揚後です。
1966年4月26日、タシケントはマグニチュード7.6の直下型地震に襲われたのです。
78000戸の家屋が倒壊。
都市機能は完全に麻痺。30万人以上が住居を失い、壊滅的な被害となりました。
市内のめぼしい建物が被害をうけているなか、
このナポイ劇場だけは全くの無傷。
日本の建築技術の高さ、抑留者の仕事の誠実さを見せつけたのです。
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日本から遠く離れ、帰国できる望みもない状況での苛酷な強制労働。

そんな状況でも、手抜きなどせず、立派に建設をやり遂げたからこそ、

>中央アジア諸国は日本の進出を期待している

>ウズベキスタンの地下資源開発に、日本が乗り出すことを、期待する

>日本との協力で、レア・メタル開発を進めたい、と強調していた。

>そして日本人は、信頼できるからだ、と語っていた。

ということなのです。

この信頼感は、普通に交流するだけでは絶対に得られないものです。

この得難い財産を勝ち取ってくれたのは、抑留に耐えた方々なのです。

この財産を活用し、中央アジアと日本のつながりを強固なものにし、

日本の安全保障に役立てることができれば、

帰国できずに亡くなった方々も浮かばれるというものです。


国家戦略研究
日本人の誇りを示すようにそびえ立つナヴォイ劇場
http://kyoumoasitamorexto.blog94.fc2.com/blog-category-23.htmlより転載


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