林銑十郎の先見の明 | 朝倉新哉の研究室

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全ては日本を強くするために…

林 銑十郎(はやし せんじゅうろう)

陸軍大臣、内閣総理大臣(第33代)、外務大臣(第53代)、文部大臣(第46代)などを歴任した

軍人であり、政治家です。

林は防共回廊に深くかかわっていました。

戴天義塾という私塾がありました。

教育を受ける機会に恵まれないモンゴルの青少年を日本に留学させる活動をしており、

笹目恒雄という人物が個人で運営していました。

この笹目の活動を支援したのが林でした。

林の助力によって、戴天義塾は、財団法人となり、名称も善隣協会となりました。


『帝国陸軍見果てぬ「防共回廊」』関岡英之 祥伝社 からの引用です。

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善隣協会は、内モンゴル各地で初級日本語教育を受けたモンゴル人青少年のなかから
留学希望者を試験で選抜し、東京の善隣学寮で寮生活をさせながら日本語と生活習慣の指導を
行ったあと、全国各地の大学や専門学校に送った。

善隣協会を発足させるとき笹目恒雄を支援した陸軍大将林銑十郎は、
軍服を脱いで一個人として羽織袴姿で笹目と一緒に金策に走り回り、
三井、三菱などの財閥から出資金を引き出したという。
林がかくまで並々ならぬ尽力をしたのは、単に笹目の義侠心に共感したためだけではなかった。

笹目恒雄の回顧録『神仙の寵児 四 天恩編(上)』(国書刊行会、1991年)によると、
笹目が林と初めて出会ったのは1925年(大正14年)頃のことだという。
横須賀市公会堂で行われた笹目の講演会を林の副官が聞きに来ていた。
そして後日、その頃東京湾要塞司令官をしていた林から
「満蒙旅行談を聞かしてくれ」
と招かれた。

林は笹目に「さらに一歩を進めて新疆省方面の回教徒研究に乗り出す気はないか」
と問いかけたという。

モンゴル一筋で回教徒のことなど考えたこともなかった笹目は即座に断ったが、
それでも林は「君の力になってやろう」と好意的だった。

笹目はその後、陸大校長に栄転していた林を自邸に訪ね、
「西北支那の回教徒」についての見解をあらためて質した。
すると林はまず次のように答えた。

共産革命によって帝政ロシアは覆った。
その影響下に、最も隣接したハル蒙古(引用者注「外モンゴル」の意)が独立したが、
双方ともに国内整備が完了すれば、思想攻撃は当然四隣に及んでくる。
われわれは何かを考える必要があるのではないか、と思うのである。
そこで、今君の手を染めた蒙古は、
最も重要な右翼(引用者注、兵要地誌用語で「敵右前方の意」)防波堤前線地帯である、
と見て僕は、君の動きに眼をつけたということである。

   (”引用者”とは関岡英之さんのことです)

林は軍人でありながら共産主義の脅威を軍事的脅威としてではなく、
「思想攻撃」つまりイデオロギー的脅威と見なしていたことが明白である。

林はなぜ、外モンゴルの共産化にかくも敏感だったのか。

私たちは、その後のソ連や中華人民共和国の悲惨な歴史を知っている。
それゆえこれを林の先見の明と言ってしまうのはたやすいが、
もう少し当時の日本人の内在的論理に考察をめぐらせる必要があろう。

共産主義の思想的対抗軸と言えば教科書的には資本主義ということになろうが、
林銑十郎ほど資本主義と無縁な軍人はいなかっただろう。
林の反共主義は、資本主義体制擁護とはまったく別の文脈だったはずだ。

林が外モンゴルの共産化に脅威を感じたのは、端的に言って
外モンゴルの国体ともいうべき活仏制度が廃絶されたことだったのではないか。
コミンテルンは既に1922年テーゼで「君主制の廃止」を打ち出していた。

林は国体と日本精神を至高の価値とし、生涯それを貫いた思想的軍人であった。
国体廃絶の脅威、すなわち日本固有の価値観が
共産主義という西洋発の普遍主義に脅かされるという危機感こそ、
林の問題意識の起点であったはずだ。
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私は、以前の記事で、日本の国家目的は、国体護持(=皇室の維持)だと言いました。

林銑十郎もどうやらそう考えていたようです。

共産主義の浸透を防ぐために、満洲やモンゴルに防波堤の役割をしてもらう、

そのためにモンゴルから留学生を受け入れて、モンゴルの発展を助ける、

モンゴル人の教育に尽力している笹目の活動を支援する、

全ては、国体護持につながっていたのです。

日本精神、日本固有の価値観、その中心にあるのは皇室です。

皇室が維持されていれば、日本文化、日本的なるものも維持することができます。

大東亜戦争(いわゆる”太平洋戦争”)終結時に、日本では、ポツダム宣言を受諾するか否か、

を巡って激しい議論が展開されました。

日本が降伏条件として、こだわったのが、”国体護持(=皇室の維持)”だったのです。

日本が占領されても、軍が解体されても、国体さえ守られていれば、日本の根幹は守れる、

そう考えたから、国体護持にこだわったのです。

私は以前の記事で目的と目標の違いについて述べました。

そのとき引用したのは、『図解 兵法』という本ですが、

この本のもとになったのは、『統帥綱領』という本です。

『大国は内から崩せ』という記事でも、『統帥綱領』を引用しました。

『統帥綱領』が刊行されたのは1928年です。

”まえがき”に、

>神武以来の伝統が、数多の栄養を吸収し、参謀本部や陸軍大学校の英才たちの手によって、
>長年の苦心の結果、世界的に優良なる兵書として、見事に開花したものである。

とあるので、林も『統帥綱領』刊行に尽力していたのかもしれません。

林は陸軍大将にまで上り詰めた軍人であり、総理大臣を務めた政治家でもあります。

目的と目標の違いについて、ちゃんと認識していただろうし、

これを軍レベルから発展させて、国家に当てはめてみる、ということもしていたのではないかと

思うのです。

日本国家にとっての”目的”は何だろうか? その目的を実現するための”目標”とは何だろうか?

ということを考えていたのではないかと思うのです。

そして、日本の国家目的は国体護持であり、

それを実現するための国家目標が”富国強兵”であることを認識していただろうと思うのです。

一個人として金策に走り回ったり、笹目に対して「君の力になってやろう」と言ったのも、

全ては国家目的(国体護持)のためだったと考えられます。


日本の国家目的は国体護持、国家目標は富国強兵、というのは私一人の意見ではなく、

先人が考えに考え抜いた、日本が守るべき”国家の型”ではないかと思うのです。

『個性を捨てろ!型にはまれ!』の中で、三田紀房さんはこう言っています。

>『型』が守られている限り、日本はビクとも動かないだろう。

国体護持を目的とし、

そのために経済を繁栄させ、軍事力を強めれていれば(富国強兵)、

日本は安泰だと思います。

国家戦略研究
林銑十郎に対する評価は不当に低いと思います
ウィキペディアより転載


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