対中国戦略 その3 | 朝倉新哉の研究室

朝倉新哉の研究室

全ては日本を強くするために…

『帝国陸軍見果てぬ「防共回廊」』 関岡英之 祥伝社からの引用です。

>>>
現在、中国当局が「チベット自治区」と称しているのは
チベット本来の領土の一部に過ぎない。
ダライ・ラ14世の出生地であるアムド地方は「青海省」にされている。
四川省の西半分は本来チベットのカム地方で、
甘粛省と雲南省の一部も本来チベット領だ
>>>

以下の2つの地図を見比べて見てください。


国家戦略研究
http://www2m.biglobe.ne.jp/%257EZenTech/world/map/china/Map-China-Province.htmより転載

国家戦略研究

下の地図で、チベットの領域が広いのは、「アムド地方」や「カム地方」などを

チベット領として組み入れているからです。

親日回廊工作には、それらの本来チベット領である地域を

チベットに復帰させることも含まれています。


再び、『帝国陸軍見果てぬ「防共回廊」』からの引用です。

>>>
英国は外国人のチベット入国を極度に警戒していた。
日英同盟真っ盛りの時代だったにもかかわらず、
英国は同盟国日本に対してさえ、チベットと直接交流することを許さなかった。
だが、そもそも英国がチベットを勢力下に置くことができたのは
日英同盟および日露戦争の賜物にほかならない。
ロシアが日本と戦っている間隙を突いて、英国はチベットに軍事侵攻したのだ。

19世紀は大英帝国と帝政ロシアがアジア大陸で「グレート・ゲーム」と呼ばれる
勢力圏拡大競争を展開していた時代であった。

ロシアはドルジエフというブリヤート・モンゴル人のラマ僧をラサに派遣して
親露工作を展開し、チベットへ触手を伸ばした。
これに対抗し、英国のヤングハズバンド大佐が率いる遠征隊がインドからチベットに侵攻、
一時ラサを占領して英蔵通商条約を締結したのは1904年、日露戦争のさなかだった。

英国はチベットを植民地として領有したわけではないが、
広大な英領インドに隣接するチベットを緩衝地帯化することに成功し、
以後、北方からのロシアの脅威を永久に封じ込めることができた。
チベットにおける橋頭堡を失ったロシアはその後、モンゴルへ矛先を集中するようになり、
ソ連時代になってついに外モンゴルを衛星国化したわけである。

(チベットへ潜入した青木文教は)
日本との提携を梃にして、外モンゴルを介したソ連の影響力、
すなわち共産主義思想を阻止しようとチベット側が考えていた
と分析している

日本とチベットは反共という価値観を共有し、ソ連の脅威に対する安全保障という
地政学的な利害が一致することをチベット側は鋭く認識していた

大東亜戦争中の1942年、外務省はチベット工作の一環としてチベット政府代表団を
極秘に日本へ招いていた

大正時代には英国に対する配慮からチベット問題に冷ややかだった外務省が、
なぜ青木を採用し、チベット工作に目を向けるようになったのか。
日英同盟は既に破棄され、いまや英国は、
植民地ビルマから雲南省を通って四川省重慶に達するいわゆる「援蒋ルート」で
日本の交戦相手である蒋介石政権を公然と支援する側に立つに至っていた。

 (朝倉注)
 支那事変において、
 主にアメリカ、イギリス、ソ連は軍需物資を送って、
 中華民国の蒋介石政権を援助していた。
 その物資の輸送ルートを日本は、援蒋ルート(えんしょうルート)
 と呼んでいた

大東亜戦争の勃発後、ほどなくビルマが日本の勢力圏に入ったため、
蒋介石はインドのダージリンからチベットに入り、ラサから東チベット(当時の西康省)を
通って重慶に至る新たな援蒋ルートの開拓を焦った。

しかしチベット政府は神聖な仏国土、とりわけ聖地ラサを汚す
軍用道路の建設を重慶(朝倉注:蒋介石政権のこと)に認めなかった。
中国側との道路の開通は、いずれチベット自身の安全保障を脅かすという懸念もあった。
「抗日戦」を口実にして欧米の同情を買い、外国資本の力を借りて
将来チベット侵略に役立つようにあえてラサを経由する軍用道路を建設しようとたくらむ
蒋介石の魂胆をチベット政府は見抜いていた。

チベットは親日感情からだけでなく、国益の観点からも日本との利害の一致を見いだしていたのだ。
大東亜戦争中、チベットが援蒋ルートの建設を認めず、
中国への協力を断固拒否したことを私たち日本人は忘れてはならないだろう。

1943年、(日本の工作員、西川一三は)東条英機首相の
「西北シナに潜入し、シナ辺境民族の友となり、永住せよ」
という密命を受ける。

西川がまず足を踏み入れたアラシャン地方(現在の内モンゴル自治区西部)は
日本と交戦中の重慶政権の支配下にあり、青天白日旗が翩翻とひるがえっていた。

だが、現地のモンゴル人たちは、ラマ僧にまで国民党への入党を迫る
重慶側の圧迫に反感を抱いていた。
むしろ日本軍のアラシャン進出を望む声が少なくないことに西川は勇気づけられる。

(西川は)
インドに進出しようとしていた皇軍と、
シナの背後を包囲する内蒙、西北シナ、チベット諸民族と手を握らせる
大きなシナ包囲戦線を固めてみたいという、
途方もない夢を描いていた

これは西北民族の包囲網を以てシナを攻略するという一大政策であり、
蒙古族、チベット族を友として漢民族を包囲する体制をつくり上げることこそ
シナ事変解決の鍵であったのである。

この一文は、私の脳裏に天啓となって轟いた。
西川一三の夢想は、21世紀の我が国の国運を切り開く鍵にもなり得るのではないか。
そう直感したことこそ、私が本書の着想を得たきっかけにほかならない。
>>>


マスコミにだまされて、いまだに、日中友好が必要だと思っている方から見ると、

”日本は中国の奥深くまで侵略の手を伸ばしていた”

などと思うかもしれません。

歴史の教科書は、「日本はアジアを侵略した」という前提で書かれており、

それを鵜呑みにしていると、上記のようにマスコミが流す

日中友好プロパガンダ(反日プロパガンダでもある)に簡単にだまされてしまいます。

『帝国陸軍見果てぬ「防共回廊」』からの引用部分を読めば、

教科書の記述が実にうすっぺらいものであることがわかると思います。

実際の歴史は、そのようにうすっぺらいものではなく、

各国が、お互いの国益をかけてぶつかりあう中で展開していったのだ、

ということがわかると思います。


日本の国益のため、被支配民族の窮地を救うため、親日回廊工作はやらなければなりません。
これにご賛同くださる方はクリックをお願いします。
(できれば両方とも)

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 政治ブログ 政策研究・政策提言へ
にほんブログ村