まどろみの猫【7】 | 虹色金魚熱中症

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拙いコトバたちですが読んでいただければ幸いです。

色彩屋 鄭篤



まどろみの猫【7



 目を閉じた鄭篤は闇よりも孤独で仄暗い世界にいた。馴染みのその世界に立ち、筆ですくった色がぽたりと足元に落ちるのを見ていた。塗られたような闇色に朱肉よりも緋色に近い雫が雨粒のように落ちていく。表面に焦げたようなまだなら文様を描きながら、それはビー玉ほどの大きさに闇の中で弾けた。徐々に徐々に広がりを帯びていく。
「――欲」
 小さな玉の雫が、とくとくと湧き上がるように円を広くし、両手いっぱいくらいの水溜りになって目の前に現れた。静かに腰を下ろし、それを指で弾くと緋色の水面が光を帯びた透明色になり、その中に世界が浮かんでいるのが見えた。
 女が映っていた。淡い桃色のガウンを肩からかけていた
。その明るい色がよく似合い、実際の年齢よりも若く、見える。
 ああ、彼。
映された時は何十年も過去のものではないらしい。今よりもふっくらと元気そうな男はその女と話していた。


「猫ぉ」
 男のやけに間延びした問いかけに女は皺のある顔を綻ばせて頷いた。男の視線の先には縁側に腰掛けた女とその膝にちょこんと丸まった猫があった。
 猫は男の声に耳をぴくぴくと動かしただけで、無関心に気持ちよさそうに目を閉じたままだ。
「十日ほど前からね。迷い猫かしらねぇ」
 女は思い出すように目をぐるりとさせると、飼うことにしたのだと微笑んだ。手はずっと猫の背を撫でている。
「ばあちゃん、飼うって。迷子なら飼い主とか」
 言う先に祖母が答える。
「首輪も無いし。ご近所にも聞いてみたのよ。でも知らないというし」
 猫はずっとこの庭から離れないのよ、と言う。血統も何もない、ありふれたその猫は男にはみすぼらしくさえ見えた。
 玄関からではなく、いつものように中庭から伺ったこの家は、狭く古いが作りはしっかりしている。庭には祖母の好きな花を好きなように植えてあって、年中花を咲かせていた。
「別にいいけど・・・・・・」
 そう言いながら男は祖母の傍に腰掛けると、奥から祖父が人当たりの良い面長の顔を出して「茶でいいか」 と声をかけてきた。

 差し出された湯飲みを持ちながら眠っている猫を伺う。
 日当たりの良い縁側はぽかぽかと気持ちがいい。猫は麦色で細く薄い赤茶の線がしましまに入っていた。子猫ではないようだが体は小さい。毛もとても柔らかく見えた。
別にいいと答えたが、ちょっと気にはなった。
 祖父母はそれほど裕福ではない。それにも関わらず男の学費の大半はこの祖父母たちがだしてくれている。父を早くに亡くした実家では、大学に通わせるつもりは毛頭なかったが、男の必死の説得と祖父母の援護によってその夢がかなっていた。
 そんな中、こうして親にも告げずに訪ねてきたのにはわけがあった。大学院に進みたいと考えているからだ。親の懐にはもうすでに頼れる隙はない。そうなれば更に祖父母に頼るしかなかった。
 できればどんな些細なものでも自分以外に無駄なお金をかけて欲しくないという思いがあった。季節のことや、体調のことなどを経て、学費について話すと祖父母は一も二もなく快諾してくれ、男はほっと胸をなでおろした。


 院生になる少し前、祖父母の家付近に高速道路が通る噂が流れた。その話を聞いて浮き足立った。つまりは高値で土地が売れる。
 祖父母を宥めすかして土地を売らせた。新しい住居は真新しく庭も広い。自分の大学からも電車で一時間とかからず、時折顔を見せに訪れた。祖父母はそれを喜んでくれた。
 それから間もなくして祖父が持っていた土地が売れた。田舎の山沿いの土地など到底売れないとみな忘れていたのに。そしてそれを皮切りに持っていた証券や祖父が譲り受けていた骨董などが破格の値で売れ出したのだ。

 祖父母は裕福に暮らし、男も金に困らず院を出て就職した。ちょうどその年に祖父が無くなった。

 交通事故。慣れない土地での通夜は地味に執り行われ、棺の前で静かに座る祖母の膝にはあの時の猫が静かに座って祖母を見上げていた。
 保険金が降りた。年金で充分な細々とした祖母の暮らしの中では、使うより早くお金がたまる。
裕福だけの広い家に一人と一匹が暮らしていた。

 祖母は余り笑わなくなった。時々祖父の好きだったブランデーを各地から取り寄せては眺めていた。飲めやしない酒瓶が増える。減りもしないお金が増える。
 大好きだった庭弄りも足腰が悪くなりだしてからは遠のいてしまっていた。毎月、庭師に通ってもらった庭は絵画のように美しかったが、祖母は花を愛でることすら少なくなった。
 いつも膝に猫を乗せ、その背を優しく撫でるだけ。そんな祖母のもとに頻繁に通っては、大げさに膨らました話をいつも聞かせていた。

 男の名を祖母が呼んだ。祖母から話しかけてくるのが酷く懐かしい気がして、嬉しく耳をかした。
「ばあちゃん、死んだらこの子をあげようか」
 そう言って猫を撫でる。毎日毎日撫でられていた猫はとても毛並みがつやつやしていた。あれからもう何年も経つのに小柄な体は衰えず、どんどん美しくなっている気さえする。

 ――欲しいような欲しくないような。
「そんな縁起でもないこというなよ」
 そう言うと、猫が男を見上げて細く長くひと鳴きした。


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