嘘くらいついてよ
ウソコク【20】
まどろみから覚めても目の前の白い世界がどこなのか一瞬わからなかった。白いシーツ、白い仕切り。仕切りの布越しにペンを走らせる音が聞こえる。その音が心地よくてもう一度目を閉じてみた。視界を閉ざした瞬間、保健室にいることを理解した。
教室に戻らないとと思った。半身をおこして、脱いでいた上履きに足を落とす。仕切りに手をかけて、この先には希先生がいるんだと、指先が震えた。だけど、逃げられるはずも無い。
小さく開いたカーテンの音に希先生は椅子を回して私に振り向いた。ペンを置いて立ち上がると私の顔を覗き込んだ。
「もういいの?」
どの教室でも同じデザイン、同じ位置に設置されたシンプルというには味気ない時計を見て、もう二限も過ぎたことに気が付く。それなのに希先生はまだ横になっててもいいよ、と首をかしげた。吐き気はおさまったのになんだか体がぼんやりとだるかった。
「大丈夫です」
もう一度、冷たい手のひらが私の額に触れた。ふんわり優しい香りがする。私たちの間で流行っているベリー系の甘いだけの香りじゃない。甘いのに何故だか切なくなるような、なんだかとても優しい香りだ。
とても不思議な感じがした。外見はさほど私たちと変わらないと思う。先生なら制服だって着こなせるのではと思えるくらいなのにやっぱり違う。
近くで見てもやっぱり綺麗で、化粧だってどうしてそんなに自然に見えるのだろう。悔しいっていう気持ちには蓋をした。どうしたって太刀打ちできない。だから尻尾を丸めるしかない。
無機質な保健室に飾られたピンク色のガーベラが一輪、細い花瓶から顔を出していた。ふんわりと柔らかい色がまさに希先生を表しているように見えた。
「……先生、聞いてもいいですか」
返事のかわりににっこり笑顔が返った。
「先生は上谷先生とお付き合いしているのですか」
耳から入ってきた自分の言葉に戸惑う。聞いてどうするんだろう。今更、何が知りたいのだろう。自分の行動なのに理解できない。ぎゅっと手のひらを握りこんだ。胸の辺りがぐっと熱を持つのが分かる。 「怖い」 という言葉が私を覆っているのに、聞かなくちゃと何故か必死な自分がいる。
「え……えぇっ」
いつも穏やかで、おっとりと微笑んでいる姿しか見たことのない希先生が小さく息を吸い込んだまま目を大きく開いて止まった。暫くして苦しそうに息を吐き出したと思ったら見る見る間に首まで真っ赤になっていく。
「な、何故? えっと……う、噂とか」
しどろもどろの先生に向かって頭を振った。先生は染まった頬を覆うように両手で顔を隠している。
「いえ……何となく。そんな気がしたから。……あの、大丈夫です。別に誰にも言いませんから」
「凄い……女子高生って侮れないわね」
まるで汗でも拭うかのように額に手を当てた。なんて可愛い人なんだろう。
「気をつけないと、ばれちゃいますよ」
言ってからふと気がつく。ばれてもいいのかもしれない。先生たちは大人だから。そんな私の考えに希先生はぶんぶんと頭を振った。
「そ、それは困るわ。だって、同じ職場で……そんなの、良くないし」
慌てて目を泳がしながら、後退した。そのまま倒れるんじゃないかというくらいにバランスを崩し、机にもたれた瞬間、マグカップが倒れた。琥珀色のお茶が先生の白衣に大きく飛び散る。希先生は小さく叫んで、気まずそうに私を見て微笑んだ。頬はまだ赤い。
「やだ、もう」
慌てて引っ張りだしたウェットティッシュでは不十分で、急いで流しの布きんを手にした。私は何も出来ずにしどろもどろの先生を見ていた。
「私、直ぐに顔に出ちゃうでしょう。上手く嘘がつけなくて。圭吾さん……上谷先生にもね、気をつけようねって言われてるのに」
語尾はどんどん小さくなった。まるで独り言のように零しながら丁寧に机をふきあげる。
「だから駄目、かな。私、抜けてるでしょう。いつばれるか分からないよね」
ああ、もうばれちゃったのよね、と弱く笑う。それを見て体の表面があわ立つのを感じた。希先生の言葉に心がざわつく。彼女の言葉が私の中で揺れた。
希先生は圭吾さんのこと……好きなんでしょ。好きなんでしょう? なのに、どうして。――嘘くらい。嘘くらいついてよ。こんなに簡単に話しちゃわないでよ。
お腹の辺りが絞られたみたいにきゅっとした。
床にしゃがみこんだ希先生は布きんから雑巾に変えて、机の上から滴った水滴を拭っていく。私よりも小さくなった先生はこちらを見ないままに呟いた。
「それに」
その白い手が水分を含んだ雑巾をぎゅっと握った。
「上谷先生ね、多分……好きな人いるの」
呟きはどこかに引っかかっていて、ようやく零れ落ちた小石みたいに小さく欠けるような音を立てて私の中に飛び込んで落ちていった。
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